長岡亮介のよもやま話274「排中律と帰謬法、そして対偶」

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 今日はちょっと技術的なお話をいたしましょう。「数学は論理だ」というふうに言う人がいますけれども、その言葉がどういう意味を持っているのかということを精密に理解している人は意外と少ないのではないかと思います。というのも「論理とは何か」ということが語られていないからですね。論理というのは英語ではlogicというふうに言います。この英語のlogicというのは、元々ギリシャ語のロゴスという言葉からきたものでありまして、ギリシャ語のロゴスにはいろいろな意味があります。論理という意味もありますが、それ以上にまず最も重要な意味として、“言葉”という意味があるわけですね。ヨハネの福音書にある「初めに言葉があった」というのは、まさにこの「初めにロゴスがあった」という言葉です。ロゴスに言葉という意味があったということはとても印象的で、そのことから由来して様々な意味、2次的な意味、3次的な意味、2次3次というふうにいうのは良くないかもしれませんが、派生する意味が生じるわけです。派生する意味の中で最も重要な意味は“理性”という意味ですね。“合理性”というふうに訳してもいいかもしれません。そして、合理性という意味から転じて、あるいはその合理性という意味が生まれるのと同じような仕組みで、数学的な概念である“比”という概念、3対5とかというふうに、私達が整数どうしの関係のようにして“比”を用いますね。その“比”のことを、英語の元になったラテン語ではRatioというふうに言います。Ratioと言うと英語ではratioですから、英語でratioと言ったら、για ράτιοという言葉で連想するように、“比”という意味だということがよくわかるでしょう。このRatioというラテン語の語源が、ギリシャ語のロゴス(λογότυπα)であったわけです。ロゴスにはそのようにして、言葉、あるいは合理性、あるいは理性、そして“比”、そういうような意味を持った言葉として使われておりましたから、Ratioの方もそうでありまして、そのRatioにおそらく語源に持つ英語のrational irrationalという言葉にも、元々のラテン語の語源の意味が継承されているわけです。つまり、rationalは合理性がある、irrationalは合理的でないということですね。

 一方、rationalには元々“比”という意味もあったわけですから“比”を持つ数、“比”を持たない数ということで、rational number, irrational numberは、現代では有理数・無理数と訳されているんですが、この訳が甚だ不適当で、無理数ということが無理なことの数ではないんですね。“比”を持たない数と言っているに過ぎないわけです。日本語の翻訳がちょっと別の意味を持たせるかのような、曰く言い難い表現でありますので、その表現のために子供たちが数学で混乱するということがあるのかもしれません。無理数という数が、小数で表現すると無限に異なるパターン、というよりある一定のパターンが決して登場することはない。そういう非循環する無限小数になる。そのこと自身が神秘的だと思う人が時々いるのですけれども、それは別に無理数の特徴として難しいことではない。無理数というのは数学的に見ると、ごく平凡な数であるわけです。

 言葉の訳がおかしいがゆえに、理解が混乱するという例が他にありまして、学校数学では使われている「背理法」という言葉ですね。「理に背く法」とどうしてこんな訳をしてしまったのか私は理解に苦しみますけれども、数学において「理に背く法」があるはずがない。「どういう理に背くのだろうか。」そういうふうに考える子供がいたら、本当にほとんど犯罪と言っていいくらいひどい言葉ではないかと思います。「背理法」という言葉が、学校の先生たちが疑うことない言葉として普及している今の日本の現状は、ちょっと具合が悪いと思うんですね。なぜこんないかがわしい言葉が作られたのかというと、おそらく元々の言葉、外国語の言葉が翻訳が難しい言葉であったからです。今でも英語圏でさえ、ラテン語で“reductio ad absurdum”、英語的に発音してしまえば“reduction into absurdity”、「馬鹿馬鹿しさへの還元」という、そういうラテン語ですね。ありえない馬鹿馬鹿しさへの還元、要するに矛盾を導いて、それは矛盾がありえないことである。それを矛盾が導かれることによって、元々の仮定が間違っていたという証明方法で、ラテン語の難しい表現を避けて、Indirect Proof「間接的な証明」というふうに言うこともあります。でも日本では「間接証明法」という言葉を使う人はまずいないのではないでしょうか。その代わりに普及しているのが「背理法」というやつです。この「背理法」についての誤解が、また中等教育、特に高等学校レベルで非常に普及しているように思います。さすがに検定教科書にはそのような間違いが大変少ないのですけれど、一般の市販問題集とか市販参考書のように検定を受けてないもの中には、ほとんどの記述が間違っていると言ってもいいくらい間違っているものが多い。

 つまり、「帰謬法」というのは「$P$であるという命題」、$P$は「Proposition」のP、提案するということです。数学では命題と訳すことがありますが、ある命題を証明しようとするときに、「$P$でないと仮定すると矛盾する。」これが、「間接証明法」あるいは「帰謬法」の基本原理です。その「間接証明法」はなぜ成り立つと言えるかというと、「$P$でないと仮定すると矛盾したならば、$P$である」といえることは、要するに「$P$であるか、$P$でないか、そのどちらかは正しい」。「$P$であるか、$P$でないか」、これは「または」でつながれていますけど、「$P$であるか、$P$でないか。それは常に正しい」。これを「排中律」と言います。「真ん中を排除する法律」ということですね。これはドイツ語の“ausgeschlossen dritte”、「排除された第三者の法則」という言い方が、日本語に訳されたときに「排中律」となったんではないかと思いますが、真ん中を排除する。英語でも“The Law of excluded middle”、そういうふうに言いますから、英語の翻訳であるかもしれません。英語とドイツ語、元々どっちが古いとかという議論することがナンセンスなくらい、同一のルーツを持ってる言語ですから、似た表現があったとしても不思議ではないですね。

 「排中律」というのをなぜそのように言うかというと、「$P$であるか、または$P$でないか。それは常に正しい」ということは、要するにその真ん中がない。「$P$」と「$P$でない」の真ん中がないということなんですね。人間の使うロジックは必ずしも「排中律」を満たすわけではありません。恋する青年が恋する相手の乙女に告白する。「私は君のことが好きだ。ところで君は私のことが好きですか。それとも好きではありませんか」と聞く場面、昔はよくありました。最近はそれがないという話も若い人から聞きますが、そういうふうにして「好きですか。好きではありませんか」という問いが成立するのは、その二つの答えのどちらかに正解があると青年が信じているからですね。しかし、女の子の答えはつれなくて、「どちらでもないわ。別に好きじゃないけど嫌いでもない。」こういう答えが戻ってくるんだそうです。恋愛に関しては排中律が成り立ってないということでありますね。この排中律が成り立つということが、言ってみれば、間接証明法あるいは帰謬法あるいは日本では背理法と言われているものの基本原理であるわけです。

 残念ながら、この背理法というのは、論理の最も基本にある「$P$ならば$Q$」という二つの文を「ならば」でつなぐ文章、その文章が数学ではよく使われることによって、「$P$ならば$Q$」という命題は「$Q$でないならば、$P$でない」という、いわゆる「対偶」というのと同値である。これは中学校1年生ぐらいで勉強するので、とても良い素材だと思いますけれど、その「対偶」を考えるということと帰謬法が混乱しているという問題を、最後に指摘したいと思います。

 帰謬法の基本原理である排中律「$P$であるか、または$P$でないか」というのは、普通の論理で言えば、「$P$ならば$P$である」という文と、実は同じなんですね。一般に「$P$または$Q$」というのは、「$P$でないならば$Q$である」と、そういうふうに言い換えることができる。これは「ならば」という文の基本的なものなんです。ですから「$P$であるか、または$P$でないか」、それを前後反対すれば「$P$でないか、または$P$である」ということは、それは「$P$ならば$P$である」という「自己同一律」というんでしょうか、そういう論理の法則に基づくと言ってもいいわけです。このような書き換えをしても良いかどうかという話も、難しい論理の世界に行くといろいろあるわけですが、いわゆる普通の論理学、健全な論理学の世界ではそのように言い換えられるわけですね。要するに帰謬法というのは本質的に、「$P$ならば$P$」あるいは「$P$であるか、または$P$でないか」、こういうものを基礎としている。いわゆる「対偶」とは縁もゆかりもないと言ってもいい。

 ところが、「対偶」というのは「$P$ならば$Q$である」という文に対して、「$Q$でないならば$P$でない」。学校数学で言うと「ならば」で繋いだ文章の前半の事を「仮定」、後ろの方は「結論」というふうに言ったりするんですが、それは間違いで、本当は前の方、後の方っていう言い方、難しい言葉で言うと「前件」、「後件」と言いますが、「前件」と「後件」の順序を入れ替えて、場所を入れ替えて、かつ両方を否定した文、それを「対偶」って言うわけです。元の命題「$P$ならば$Q$」と対偶「$Q$でないならば$P$でない」が同値である、というのはごく当たり前のことなんですが、数学的なロジックに親しんでない人にとっては、これがわかりづらいようですね。これが背理法あるいは帰謬法の原理であると思っているとんでもない誤解が蔓延っているのもこれが難しいからだと思います。

 でも実は本当は難しくない。というのは、論理学の基本法則についての理解があればいいのですが、「$P$ならば$Q$」と、この「ならば」という文はよく出てくるんですが、それを正しく理解している人が非常に少ない。正しく言うと、「$P$ならば$Q$である」というのは、「$P$でないか、または$Q$である」。これを数学では短く「$(\textrm{no}\ P)$または$Q$」、「$(\textrm{no}\ P)$ or $Q$」と、そういうふうに表現したりすることありますが、要するに「前件$P$の否定」と「後件$Q$」、それを「または」で繋いだ文と論理的に同値だということです。よろしいですか。「$P$ならば$Q$」は、「$P$でない、または$Q$である」と同値であるということです。これがしっかりとわかった人ならば、いわゆるこの命題の対偶と言われているものは「$Q$でないならば$P$でない」という文ですね。それを先ほどの約束に従って「または」で書き直すとどうなるかっていうと、「$Q$でなくはない」、「二重否定」というのは、普通「真と偽」しか考えない二値論理の世界では「肯定」と同じということで、「$Q$である」ということと同じなんですね。「$Q$でないことはない」っていうのは「$Q$である」と同じで、「$Q$である、または$P$でない」、いわゆる対偶命題はこういうふうに書き換えられるというわけです。

 すると、最初の出発点となった。「$P$ならば$Q$」というのは、「$P$でない、または$Q$である」ということでしたね。そして、たった今言ったように、その対偶である「$Q$でないならば、$P$でない」というのは、「$Q$である、または$P$でない」というふうに書き換えられるということです。元の命題と対偶命題とは、「または」で両方とも繋がれていて、その「または」の両わきにあるものが、言ってみれば左右が逆転しているだけ。「または」っていう文では、それを繋いでいる左右の順序、あるいは前後の順序、それが変わっても同じ意味であるということが、対偶命題が同値であるということの基本的な証明であります。そんなことは言われなくてもわかっている、幼児でもわかるというものなんですが、残念ながら幼児は「ならば」という文章、こういう論理学の基本は幼児は知らないので、いわゆる母なる胸に抱かれて育っているだけの健全な児童には、わかりづらいことではあると思います。これは長い歴史を通して、数学的な論理学が社会の指導的な人にとって、必須の教養となると考えられてきたのは、「元の命題と対偶命題は論理的に同値である。それに対して逆とか裏は、全く無関係である」ことを教えたかったからだと思うんですね。しかし、こんにちでも、ジャーナリストの言論を聞いていても、やはり逆とか裏というのの論理的な関係がわかっていないな、と私が感じて残念に思うことは少なくありません。

 対偶と背理法というのは本質的に違うということが、これだけの説明でおわかりいただけたでしょうか。数学にはこういう技術的なところがあるのが、少し厄介な点ですね、わかってしまえばこの技術を使いこなすことは何でもないことなんですが、慣れないうちは、この技術的な難しさ、煩雑さのために、理解が進まないことがあり得ます。気をつけたいところだと思います。

コメント

  1. Leo.橋本 より:

    疑問に思ったこと。

    ” P ならば Q ” を、” もし P ならば Q ” と表現するのは数学的に間違いですか。

    個人的には、”もし” を文の頭に置いた方が絶対に分かりやすいと思います。

    英語圏の方は、” P ならば Q ” を ” If P,then Q. “と表現される事が多いような気がします。

    “もし”を付けると、” P⇒Q ⇔ ¬P∨Q ” の理解が少し楽になると思うのです。

    • TECUM事務局 より:

      早々にお読みくださり、ありがとうございます。理事長より、「その通りです。」との回答はいただいております。担当としても、pとqの関係がわからず、何度も理事長にお聞きしながら、文字起こしをいたしました。間違いがあればご指摘していただきたく、お願い致します。

  2. 中筋 智之 より:

     「イプシロン・デルタ論法」の著者である原・松永 氏に四方山話274を読んで頂き,背理(帰謬)法と対偶とは本質的に違う内容に赤字で修正して頂いた中で,私が公理や定義又は命題の具体案及び対偶である¬q⇒¬pの真理値表を下記URLに緑字で追記し,著者に査収して頂いている最中です.p⇒q=(¬p)∨qが恒真命題である真理値表も載せました.
    https://app.box.com/s/qzc8tm1jv0nh779l29phkfutxf23498v
     長岡 氏に拠る「論理学で学ぶ数学」,前原 昭二 氏に拠る「数理論理学序説」を参考としました.警鐘を提示され個別案件には対応されなければ構いませんが,長岡 氏又は皆様が正確に改良される場合,MS.Wordで恐縮ですがdownloadして追記して共立出版に問合せとして送信して頂けますか.

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