長岡亮介のよもやま話265「なんでも自動は便利と言って良いか?」

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 最近は携帯電話に象徴されるように、いろいろなものが全部自動的になって、京大の霊長類研究所のサルの愛ちゃんという、とても賢いと言っていいのかどうかわかりませんが、タブレット端末などを触ってピーナッツを欲しがる霊長類の存在が、普通のテレビなんかでも公開され、国民を楽しませたり、感心させたりしているようでありますが、ちょうどその類人猿と同じように、私達が携帯電話を使っているのではないかと思うと、昨日の話とちょうど反対に、全く理解を欠いたままやり方だけを完全に習得して、それで便利だと思っていると、いうように私には見えるのですね。ある意味で技術的な詳細は知らなくても、それでも構わない。技術的な詳細はエンジニアが全部用意してくれるからと考えると、とても便利だなというふうに思いますけれど。一方で、その裏で何が行われているかということが全く理解されないまま、その利用するという可能性に対してだけ開かれているというのは、私から見ると、狭い狭い道に誘導されているような気がするんですね。やっていることがどういうことであるのか、ということをきちっと理解した上で、「その部分はもう用意してありますからやらなくて構いませんよ」という情報がはっきりしているならば、それはそれでありかなと思いますけれども。やはり道具を使うときには、その道具がどのように機能しているかということを、最小限はわかるようにすべきではないか。このことを、私はもう既にいろいろな技術がいわゆる「ブラックボックス化」という流れに乗ってきたときに、感じておりました。

 典型的には、私が子供の頃、男の子の趣味はと言えば、切手を集めるとか、鉄道模型に凝るとか、そういう子供っぽい遊びもありましたけれども、やはり、子供たちの一番の中心は、ゲルマニウムラジオを作るということでした。非常に素朴な半導体を組み合わせてラジオを作るわけですが、そのラジオで周波数を変える。当時はVariableコンデンサ、コンデンサの容量を機械的に変えるんですね。そのことを通じて電波を拾う、そういうものをいじっていました。テレビも真空管なんかがいっぱいあって、本当に古き良き時代であったと思いますけれども、したがってテレビが故障したときに、どの真空管が悪くなったのか、どこの抵抗がショートしてしまったのかということを、ちょっとテスターなんかで調べて、部品を交換するということができた。そういう古き良き時代がありました。その頃は自動車とかオートバイといっても、本当にローテクで、エンジンを分解して、その中のシリンダーについている非常に重要な部品、シリンダーがピストンの中を動くときに、言ってみればシリンダーはピストンぴったりであると摩擦が大きいですから動かないんですね。ちょっとだけ緩いわけです。ちょっとだけ緩いんだけど、本当に緩いと、そこからせっかく爆発したエネルギーが空気となって漏れてしまう。でもこれではエンジンとして役に立ちませんから、ピストンリングっていうのがありまして、そのピストンリングっていうのはシリンダよりもちょっと広く広がる。そのリング、バネの力でエンジンを効率よく動かすという仕組みなんですが、今はエンジンを分解するなどということは、とても素人ではできない。そういう世界になってしまっているのではないでしょうか。当然、エンジンにいろんな部品が重なって組み合わさっているわけですから、そこからオイルが染み出してこないために、パッキンっていうのが非常に重要な装置でありました。エンジンのパッキンを交換するということは、スパークするプラグを交換すると同じくらいよくやっていたことであったわけです。

 つまり、中身が見えていた時代には、それをいじることによって、その中身を「なるほどそういうふうになっているのか」と、納得し理解する。そのことを通じて、この設計をした人は本当にうまいことを考えたもんだということを、味わうことができたわけですね。言ってみれば理解の楽しみがあったわけです。今の自動車あるいは電化製品にはそんなこと何も知らなくても、家に持ってきて繋ぎさえすれば、インターネットに繋がりますというふうになりました。自動車も買ってきて然るべく方法でスターターを回せば、あるいはボタンを押せば、車は動くというふうになりました。そういうふうにすることによって、余分な知識をつけなくても、車の運転ができるようになった。あるいはテレビを見ることができるようになった。あるいはインターネットを楽しむことができるようになった。というのですが、それは私達が世界を理解する上で、前進になっているのかどうかということについて、私はちょっと心配になるわけです。つまり、私達が何もわからなくてもいい方向に、知らず知らずのうちに誘導されているのではないかということです。少なくとも最小限、「このようなシステムは会社の方で用意しますから、お客さんはご心配なく」というふうに言ってもらえば、それはそれでいいですけれども、全部自動的であるということはありがたいようでいて、私は余計なお世話ではないかと感じてしまうんですね。これは私がゲルマニウムラジオなどという古い時代に育ったということが影響しているんだと思います。やはり物を手作りで作ったということの経験が生涯生きるわけですけれど、今の便利な世の中、私はこの「便利」っていうのを括弧付きで使いたいわけですが、括弧付き「便利」な世の中というのは、結局メーカーの人が「あなたに便利ですよ」と押し売りしているだけで、サービスの押し売りですね。本当に誠実にユーザーに向かい合っているのとはだいぶ違うんじゃないか。メーカーの人にそういうことを言うと、「いやユーザーさんはそういうことに興味ありませんから。ユーザーさんは使えればそれで満足なんですから。ユーザーさんの満足を最大にすることが私達の使命です。ユーザーファーストです。」こういうふうに言っちゃうわけですね。

 しかし、ユーザーファーストに限らず、何とかファーストというキャッチフレーズは、私は全部怪しいと思うんです。つまり、その言葉のかげに、無視されているもの、ないがしろにされているものがたくさんある。そのことに目をつぶらせられている。そういう危険を私は感ずるわけです。やはり本当にユーザーのためということであれば、ユーザーがそれによってどれだけ楽をしているかということ。そのことの情報がきちっと開示されるべきですね。最近マニュアルというと、本当に分厚い膨大なマニュアルですが、ほとんど意味のないやり方について書いてあるだけですね。マニュアルというものは日本語で訳すと「取り扱い説明書」なんだそうですが、「取説」という略語も存在してるんだそうですが、要するに本質的にその商品についての技術的な情報がきちっと書かれているものでは全くなくて、そういうことを一切知らなくても、このボタンをこうすればできますよと。言ってみれば、そういう使い方に過ぎないわけですね。自動車も典型的であると思いますが、自動車がどうしてエンジンがかかるのか、エンジンがかかるとどうして動くのかというようなことは全然わからなくても、自動車を運転できるようになる。ステアリングを操作するとなぜ自動車が曲がるのか、そういうことがわからなくても、自動車で正しく道を走行することができるようになる。それはある意味でありがたい面もあるのですが、そういう走行ができなくなる場面もありますね。ものすごい雨の日、あるいはぬかるんだ道、あるいは雪道。それを、車で何とか安全に通ろうとすると、どういう原理で車は動くのか。どういう原理で車は前進するのか。あるいは、どういう原理で車は正しくステアリングの通りに動くのか。そういうことがわかっていてこそ、そういう普通の場面じゃない場面、例えば雪道に行ったときに、その知識が役に立つのだと思うんです。そういう知識を全く持ってない人は、雪道は雪道用のタイヤを履けば良い。こういうような発想にしかならないと思うんですね。それでは、メーカーの思いのまま、という言い方もできるんじゃないかと思うんです。やはり、私達は道具を使う、先進的な道具を使わせてもらうありがたいことだと思いますが、「その先進的な道具によって、何がなされているのか」ということだけは、きちっと理解する。そういうことをしたいというユーザーが増えるような方向に、世の中が動いていくといいなと私は期待しています。少なくとも、どんどんどんどんわからないという世界で、自動的に行くのでとても便利だという使い方が流行するのは、私は大変危険なことではないかと危惧しています。

 そして、それは単に危険なだけではなく、「私達がその原理を理解するという喜びから、遠ざけられてしまうことである」ということですね。京大霊長類研究所のお猿さんのように、ピーナッツをもらうことはできるかもしれませんけど、それによって、本当に人々の能力が開いている、可能性に向かってより開かれた方向に進んでいる、というふうには言えないのではないかということです。その結果が、こんにちのような、本当に馬鹿馬鹿しい情報がテレビやインターネットの情報として流通する。それに対して批判するという気持ちを全く持たない人が増えている。こういうこんにちの状況に結びついているのではないか、と私は思うんです。こういうのを老婆心ならぬ老爺心というふうに言うべきなのかもしれませんけれど、であるとすれば、私はたとえ老爺心とあざ笑われようと、私の懸念を皆さんに、後世の困難な世の中を担う皆さんに、真剣に伝えていかなくてはと思う次第です。

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