長岡亮介のよもやま話264「理解も発見である」

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 多くの私達平凡な人間にとって、偉大な発見をする人は、あるいは偉大な作品を作る人は特別の天才で、自分たちには縁がないと普通は思っていますね。私自身も全くそのように感じているものの1人です。しかしながら、ここでとても大切なことは、私達平凡な人間も、実は偉大な人と違うけれども、それと類似した発見とか、創作という経験を、日常的にしているんだということについて、今日はお話したいと思います。

 偉大な発見というのは、あるいは偉大な作品というのは、本当にとんでもない発想で、悪く言えば奇抜な発想というんでしょうか、本当に独創的なよくこんなことを考えついたもんだと、後になって考えてみてもつくづくそういうふうには思うものであります。こういう作品であったならば自分でもできたんじゃないか、というふうに思う作品がないわけではありませんけれども、それはかなり傲慢な話で、やはりそれぞれの時代にそれぞれの天才たちが独創的に発見したことというのを、私達は今聞いても本当に何百年もの時間を隔てていても、その発見や創作の喜びに感動するんだと思うんです。そして、私が今日お話したいことは、そのような感動するということも、私達の私達なりの平凡な人間ならではの発見ではないかということです。あるいは、創造と言ってもいいかもしれません。つまり私達は、天才的な人たちが発見したことを理解する、あるいはその発見に感動するというときに、その作品を作った天才たちのインスピレーション霊感を、自分なりに小さなスケールではあるかもしれないけど、再発見してるんではないかということです。言い換えれば、理解の発見あるいは感動の発見、そういうふうに言ってもいいと思うんですが、私達はそのような再発見と言われてしまうかもしれませんが、自分自身にとっては初めての発見なんですね。それまで全く見えていなかったことが「なんだこんなことだったのか」っていうふうにわかる。それは天才たちの発見ととてもよく似たものではないかと思うんです。偉大さという点では比較にもならないかもしれませんが、しかし喜びという点では、似たり寄ったりって言ってもいいんではないかと。ちょっと図々しい言い方だと思いますけれども。そういう再発見をする喜びの中で、私達はいろいろな過去の作品、過去の論文の中に盛り込まれた発見の叡智、そういうものを自分のものとして取り入れている。それがやはり素晴らしいことではないか、と思うんです。

 人が発見したことをもう一度発見するなんて意味のないことだ。確かに歴史的に考えればそうでしょう。もう一度、二度目の発見というのは、科学においてはあまり意味がないとされています。しかし、人間の一生の中での勉強ということで言えば、その偉大な発見が真に偉大であるということがわかったときには、ある意味でその偉大な発見をした人と同じような発見の喜びに浴しているんだと、私は思うんです。最近のいわゆる学校教育がやはりつまらなくなっている。不登校の子供たちが多くなってるという話を聞くと、やれいじめ問題がいけないんだとか、先生の指導がいけないんだとか、人の責任を追及する人がすごく多いんですけれど、私は結局のところ、今の学校が何がつまらないかと言えば、勉強を通して再発見の喜びに浸る、という経験を子供たちが奪われてしまっている。つまり、先生たちはよく言えば、丁寧に教えすぎている。「子供たちが発見する喜びを発見する」ということを待っていることができない。「ここはね、こう考えるのが正しいんだよ。ここはこうやるとすぐわかるんだよ。それをすぐわからない人は損するからね」って、そういうような教育になってしまっているんではないかということですね。

 子供たちはみんな偉大な科学者、偉大な芸術家と同じように、そこに感動を再発見するという、言ってみれば人間として最も大切さ権利を持っているはずだと私は思うのですが、その感動の権利を奪われてしまっている。だったら勉強なんか楽しいはずはないと思うんですね。もちろん、再発見の喜びというのは、最初の発見の喜びとは違ったものでありまして、その再発見の喜びを何らかの仕方で実現する。そのために学校っていうのはあるんだと思います。もし学校がそういうことが全くなくなって、本当につまらない知識の詰め込みになったらば、その学校の詰め込み教育を通して、結局人間は堕落していく、あるいは発展を阻害されていくということでしかないわけで、そういう学校だったらつまらないに決まっていますね。しかし、重要なことは、学校がつまらないというのは今に始まった話ではなくて、アインシュタインの言葉をいろいろと聞くと、やはりアインシュタインにとって学校は本当につまらないところだったんだと思います。しかし、つまらない学校ではあるけれども、その学校を通じて人間が何らかの意味で成長する。そしてその何が成長したのかがわからないというくらい不思議な成長を遂げている、ということがアインシュタインが言いたいことだったと私自身は思っているのです。人間自身が不思議な成長を遂げる、人に教えられたわけでもないんだけれども、いつの間にか気がついてみると成長している。そういう人間の成長があるんだということを、特に子供たちの時代、若い時代にはあるんだっていうことを、アインシュタインは言ってらっしゃるんだと思うんです。私もアインシュタインのように聡明ではありませんけれども、小学校の頃の勉強というのは、おそらくそのようなものだと思うんですね。中学校・高等学校、その中等教育の段階になったら、次第しだいにそのような人から教えてもらう教育ではなくて、自分自身で発見する、自分自身で再創作する。そういう喜びに浸ることができるんだと思うんですね。再創作の喜びって言うと、皆さん違和感を感じたかもしれませんが、演奏家が「音楽っていうのは素晴らしい」というふうに言うときに、「楽譜が決まった曲について演奏して、何が楽しいんだ」と、音楽を知らない人はそう思うかもしれませんが、楽譜に込められた作曲家の気持ちを自分なりに理解して、そしてそれを再現する。そのときに作曲家と同じような創作の喜びの中にいるんだと思うんです。

 音楽もそうだし、絵画もそうだし、書道もみんなそうだと思うんですね。そして学問もそうなんです。それが、今、「知育偏重」という言葉が言われていますが、私は本当の意味での知育であったならば偏重するくらいしっかりと教えるというのは良いことだと思うんです。知育になっていない知育、つまりただのつまらない知識をこれが科学の先端的な知識だ、というふうにして教え込まれた子供たちは本当にかわいそうですね。知識なんかいくらあっても仕方がない。そういうことが明白になった今の時代に生きていて、それでも学校で教えることが依然としてつまらない知識だけになっているということは、やはりそれだけつまらない経験しか積んでいない先生方が多いということだと思います。しかし、注意していただきたいのは、私は、先生方が全員そうだって言っているんでは全くない。私自身が本当にありがたいと思っている恩師に、小学校の頃出会って、その恩師の後をたどって、75歳過ぎまで生きてきて、そのくらい恩師に出会うということはありがたいことだ、ありえないくらい素晴らしいことだ、感謝するべきことだと思っておりますけれど、残念ながら本当にそういう意味で、恩師と言える先生が少なくなっているということは、どうやら事実のようでとても残念に思います。その原因とか背景に迫るという話は、いずれ時間があったときに考えたいと思います。でも私は、信じているんですね。日本の中には、私が本当に今でも慕っている先生に、相当する先生が必ず存在する。数学で存在するというのは、少なくとも一つ存在すれば存在するというふうに言えるわけで、私は少なくとも1人存在するというのではなくて、私は0.1%1000人に1人は立派な先生がいらっしゃると信じています。他のどんな人から、今の先生はひどいんだという話を聞かされても、いや、あなたは全員の先生を知ってるわけではない。私は0.1%くらいには、本当に素晴らしい先生がいらっしゃるんだと、そういうふうに強調することにしています。そして私は、その0.1%であったとしても、その0.1%の先生が力を発揮すれば、それは残りの99.9%のつまらない先生たちの影響力を全部吹き飛ばすだけのパワーを持って子供たちに接し、子供たちの能力は本当に何百倍にも発達成長するんだ、とポジティブに考えています。

 教育というのは大変に不思議なもので、理解を発見するということを子供たちが本当に理解すれば、学校で教える程度の勉強、中等教育レベルの勉強あるいは大学の4年間レベルの教育、そんなものをマスターすることは本当は決して難しいことではないんです。でも、勉強が難しく見えるのは、発見をするということの意味がわからない。創造するということの意味がわかってない。だからものまねしかできない。だから何もわかってない人が、過去の知識を暗記しているだけでわかったような気になっている。これは、本当は無知蒙昧と言うべきなんですが、残念ながらそういう人たちは自分が無知蒙昧であるということにあまり気づいていない。自分はまだいい方だそういうふうに考えているんですね。よくできる人に限って、自分が本当にできるっていうふうに思っていることはない。そういう傲慢な人はいない。よくできる人は、自分ができないということをよく知っている。でも、それでもまだいい方だと、自分に甘えちゃうんですね。それが大変情けないことで、もっともっとやっぱり自分も向上しなければいけないと思ったとき、本当に優れた人がそういうふうに思ってくれれば、世の中は良い方向に向かって劇的に変化するということ。そういう可能性を、私は本当に祈るような気持ちで、いわば信じているわけです。

 そして、その私の信仰が決して嘘ではないということを、私はいくつかの出会いを通じて確信しています。つまり、私はそれなりの証明、お医者さんで言えばエビデンスというでしょうね。その証拠を持ってこれを語っているわけで、これは私のロマンティックな空想というわけでは全くなく、本当の現実の世界の中に潜んでいる真実、現実の世界は暗闇に包まれたどんよりした世界かもしれませんが、その暗闇の現実の中に、本当に光る真実が隠れている、ということを私は確信しているんですね。そんなものは年寄りの確信に過ぎない、と若い人はおっしゃるかもしれません。しかし、私の確信が、「いかにそれに目覚めたときには力を発揮するか」ということを、そういうしょぼい努力をしている人あるいはせこい生き方をしてる人たちの生き方で得られた成果を、一瞬にして追い抜くような成果を、若い人が上げていくという姿を見ることを通じて、「私の言葉の中に幾分かの真理がある」ということに気づいてくださり、そして、自分自身の努力・精進に対して謙虚になっていただくことができれば、こんな幸いなことはないと思っております。

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