長岡亮介のよもやま話261「才能で商売ができる危険な時代」

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 当たり前の話ですが、人は様々な本当に多様な可能性を、それぞれの人が持っているんだと思います。中には自分は全く才能に恵まれていないと嘆く人もいますが、そういう人たちの中にも、本当に隠れた才能が眠っている。私はある意味で、才能がないということは、本当にわかって自覚しているならば、それ自身が一つの才能ではないかと思うんですね。なぜならば、自分がその種の才能がないということがはっきりしているならば、その才能の不足を補うために何ができるか、ということについて真剣に考えると思うんです。そして、その真剣な努力が、次第次第に実ればひょっとすると、自分の才能がなかったことによって、むしろ自分の中に眠っていた才能が目覚める。そういうこともありうるんではないかと私は思うんです。

 前にちらっとお話した話ですが、アフリカの人が一般に非常に体操能力が高く、またリズム感も優れていると、よく言います。やはり外国人には敵わないねということを日本人はよく言います。確かに私が子供の頃、外国人のスタープレーヤーと日本のスタープレーヤーとの体型の差は、見るも哀れというくらい違っていました。そういう体型も違う日本人が、美しい体型を持つ外国人の中で一緒に競技する。それだけでも大変なことであるなというふうに思っておりましたが、私の知人から聞いておかしくておかしくてしょうがない話なので、ついついこのよもやま話でも何回も間接的に取り上げてしまうんですが、アフリカ人の中にもやっぱりリズム感が悪くて、運動神経が良くない、走るのが遅い、そういう人がいるんだそうで、日本に来て、「アフリカの人はみんなリズム感がいいからとか、アフリカの人はみんな運動が得意だからと言われて、いや自分はそうではないんだけどなんと答えたらいいかなと悩んでしまう」という話を聞いて、本当に思わず笑ってしまいました。確かに人種的な統計的データの差はきっとあるに違いないと私も思うんですけれど。やはり、アフリカ人あるいは黒人と言われるふうにひとくくりにされる集団の中にも、ずいぶん差があるんだと思うんですね。私達はそういう差をきちっと理解しようとしない、あるいはあえて無視するという傾向が私たちの国民の中に一般にあるのではないかと思うと、その傾向は少し心配です。

 あの人は頭がいいからとか、あの人は数学が得意だからと、そういうふうに人を分類する。そういうことをすぐするんですが、頭がいいということは、何をもって頭がいいというのか。なんでも記憶している、記憶力が抜群である。あるいは記憶している分量が膨大である。いろんな意味があると思うんですね。私の知り合いの中にも、本当にどうでもいいことをたくさん知っている人がいます。いわゆるオタク族っていうんでしょうけれども、鉄道に関する情報はやたら詳しい。私と彼がたまたまある電車に乗ったときに、「長岡先生ついていますね。これは何とか系という電車なんですよ」というふうに私の友人が嬉しそうに言うのを聞いて、私はだから何なんだっていうふうに思ったんですけど、やはりその世界の人にとっては、その情報がとても大切なことなんでしょうね。そういうことを知っているというと、鉄道オタクっていうふうに言われるんですが、鉄道オタクとひとくくりにするのも実は失礼な話で、非常にバラエティーに富んだ鉄道オタクがいて、電車と電車を繋ぐいわゆる連結器にもいろんなタイプがあるんだそうで、そのタイプ中で珍しいものとかって、そういうことについて詳しい人から、運転を制御するときの、車で言えばステアリングに相当する、だけど電車の場合には軌道を回るっていうことは簡単にできるわけじゃありません。電車の場合はスピードを制御するっていうことができるだけでありますね。そのスピード制御の方法にも、あるいはブレーキの仕方にもいろいろなものがあるんだそうで、そういうものに詳しいっていう人もいるそうです。いやとにかく、私たちはともすれば、鉄道オタクっていうふうにひとくくりにしてしまうんですが。そのひとくくりにすることができないくらい、その趣味も多様であるという話です。こういうことは、人生においてどうでもいいことと言ってもいいようなことですから、どんな違いがあってもいいんでしょうけれど。やはり、音楽がよくわかるということ。演奏が上手にできるということ。素晴らしい曲が作曲できるということ。音楽に関して言えば、そういったことを取ってみても、やっぱりそれは楽器によりますよね。この楽器に合うものだったら、この人に作らせたらすごくうまい。しかし、その楽器が違ったりすると、何となくピンとこないということも、あるんではないかと思うんです。大作曲家というふうになると、そういう楽器を超えた普遍的な音楽性の豊かさでまた勝負ができるんだと思いますけれども、それはそれなんですね、またきっと。

 こういう問題に関連して、最近歌も上手で踊りも上手な少年少女のグループを組織するという会社の大変な不祥事がありました。要するに、そういうことを事業としてなりわいとしている人の中にとんでもない人が存在した、ということは事実であるに違いないと私は思うんですけれど、今はその人だけが、もうその人が亡くなっているようですが、それが悪逆非道の罪人ということでレッテルを貼られ、その人の名前をつけた会社が存続すること自体が許せないとかっていうふうに、いわゆるバッシングっていうのが流行っていると聞いて、そういうことは依然として日本人は好きなんだなと改めて思いました。戦時中あるいは戦前に、非国民というようなことで、みんな国民と同じ方向に向かって動かない人に対してその人をバッシングしたという非常に情けない文化が、私達のごく近くに本当に100年もたたない前にあった。私達はそういう国民の子孫であるっていうことにものすごく恥ずかしい思いを感じているわけですが、基本的にそういう国民性のいわば品性の卑しさっていうのは、今でも伝染しているんではないかと思うほど、私は嫌な気持ちになりました。

 それは、そういう罪を犯した人間を許そうというのでは決してありません。そんな破廉恥な人間を許していたなんて、なんてことだっていうふうに思いますけれど、まさにそういう会社の人たちをスターとして扱い、自分たちの番組の視聴率を上げるために、その会社の人と連携をしてきた。その人たちの協力を利用して、自分たちが利益を得ていた。そのテレビ局の人たちが、今度はそれをバッシングする側に回るということに、私は強い抵抗感を持ちました。まず、自分の罪を悔いよ。自分がやってきたことを恥よ。と、私はまず最初にそういうふうに思うんですけれど。なぜならば、そういう少年や少女たちは、本当にかすかな分野ではありますけれども、ある種の才能を持っていて、その才能を見抜き、その才能を生かそうとした、その人の中に眠っていた犯罪性が、今や明るみに出ているということであります。その人がとんでもない犯罪性を持っていたということ。それが維持できたっていうことの背景には、私達がその人たちと結託してきたという現実があるからなんだと思うんですね。

 私達は、最初述べたように、人がそれぞれ才能を持っている。その才能を生かすということが大切だと思うんですが、その才能の一部を見抜いて、それを育てる。そのことに集中してしまうと、それ以外のことが見えなくなってしまうという危険がある。「才能は、人間の持つ多様な才能といわれるものの中の本当の一つにすぎない」という当たり前のことを忘れると、とんでもないことが起きてしまうということではないか。今回の事件は、結局のところ、とんでもない人間がいたということ。あるいはとんでもない会社があったということ。それが本質ではなく、そのとんでもない会社を利用し、金を儲ける。自分たちの生活を維持してくる。そういう中にいた人が、手のひらをパーっと返すように、自分には何の責任もなかったと思うように振舞っているということが、結局のところ、人の才能を生かすとか才能殺すとか、そういうことが全然理解できてない。人の才能を自分に利益に結びつける。そういう感覚しかないということを、私は申し上げたいわけです。

 ちょうどアスリートの能力高い人を集めるとお金になると、そういう時代になってしまいました。そういう運動の得意な人を集めたグループあるいはそのグループを組織したグループ、そういうのを組織することによって莫大な利益が今生まれているわけです。しかし、そのことは本当にそんなに素晴らしいことなんでしょうか。才能を持っている人がますます才能を磨くということはとても大切なことですが、それが言ってみれば、別の人たちの金儲けの手段となるという今の世の中の仕組み、それを無視して、そのことについて語るのは、実に愚かしいことだというふうには思います。私達は、人間の持っている才能というものをもっともっと深く理解する必要がある。アスリートが持っている力は、アスリートが持っている力がアスリートで発揮される。それ以上にもっと驚くほど別のところで発揮される。そういう可能性もあるんだ。こういうようなちょっと寛容なものの見方っていうか、弾力的なものの見方、それがあるべきではないかと私は思います。そんなときに、アフリカの出身の人が、アフリカ人でもリズム感が悪い人、体操能力が低い人、それはちゃんといるんですよって言っていた言葉。それはとても大切な言葉だなっていうふうに思う、ということをお話したいと思いました。

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