長岡亮介のよもやま話246「守るべき大切なこと」(TALK9/24)

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 今日は自分にとって大切なものをしっかりと守り抜く気持ちの大切さ、ちょっとこういう老人めいた話で、よもやま話を始めたいと思います。最近、ウクライナに対する支援の気持ち、これが国際的に衰退しているということがニュースになります。あれほど武器援助に熱心であったポーランドが、ウクライナ支援に対して消極的になってきたという話がその象徴かもしれません。日本においては、遠く離れていて、とりあえず自分にできることがほとんど何もないからということで、ウクライナ支援の気持ちを反ロシア反プーチンの感情をあらわにすることで表現してきたつもりの人も多かったと思いますが、私がだいぶ前からお話してきた国際情勢についての世界常識、つまり、ロシアがウクライナ侵攻を決断せざるを得ないという不幸な歴史があった。とりわけ、NATOあるいはアメリカがロシアに対して行ってきた裏切りの数々。「NATOをドイツから1センチたりとも1インチたりとも東進させることはない」といった言葉を裏切り、ウクライナの中での様々なクーデターを企て、というような、日本ではあまり知られてない、しかし、海外の国際情勢の専門家の間では当たり前になってきている常識。それが、日本人の間にも広がってきたということがあるのかもしれません。

 どんな理由があるにしろ、軍人でない民間人それを殺傷するということは、許されないことでありますし、それが軍人であるとしても、軍人と軍人が戦場で戦い合う、これは最も愚かしい国家主義の過ちであって、私達はそういうものから少しでも自由の世界を築きたいと思って20世紀の100年間を過ごしてきたんだと思います。つまり、戦争は、決して許してはいけないことなんですね。戦争を起こさないために、軍拡競争、軍備を拡張するという競争、とりわけ核兵器のような巨大兵器の開発がある意味で抑止力になってきたという分析は、充分聞くに値すると思います。実際、使ったらおしまいだというくらい大きな軍備を備えていたら、簡単に戦争には自分たちも巻き込まれたくないし、自分たちが人を巻き込む。それもやりたくないと思うのは当たり前の話でありますね。しかし、そのような軍備の拡張の時代にあっても、危機的な状況は今まで何回もありました。そして今回も、核兵器を使うことを辞さないという勇ましい発言がいろいろと聞かれます。

 しかし、ちょっと冷静になって考えてみてください。核兵器を持たない国を、核兵器を持つ国が一方的に核兵器で脅すとしたならば、その国は他の核兵器を持つ諸外国に対して、いわば「ならず者」の烙印を自ら押すようなものでありまして、その後自分たちはこの国に対して核兵器を使ったのであるからというだけの理由で、他の核兵器所有国がそれを黙って見ているということはありうるのでしょうか。私は、「日本が核武装をすべきである」という議論は一理あると思います。日本が国連で安全保障理事国になりたくてなりたくてずいぶんお金を撒いている。それでもなれないのは、やはり核軍備を持ってないからというのが一つの理由ではないかと思うんですね。しかし、核を持たなくても、多くの国々の中で十分大きな存在感を示すこともできる国、それはたくさん存在するわけで、ドイツも日本と同じように、第二次世界大戦の敗戦国として核軍備することが禁止されています。それでもEUの中で、他のものをもっては代え難い大きな存在感を発揮してきていますね。日本はそれに比べるとどうなんでしょうか。アジアの国々の中で日本のことを、ヨーロッパにおけるドイツのように、尊敬し、その意見に耳を傾けるという国々がどれほど存在するのでしょうか。私は、日本が軍隊を巨大化して、軍拡によって軍事的な対立を避けることができるという世界戦略は、そもそもひどく古臭いものではないかと思うんです。

 最近ではすっかり軍隊が武装するということに対する国民の、言ってみれば心配性というのでしょうか、不安感というんでしょうか、そういうものが消し飛ばされて、日本も一流の国家としてその国家にふさわしい軍備を備えるべきであると。そういう勇ましい議論が、一般化していますね。私はそのような風潮に、私達自身が本当に大切にしているものは何なのかということをきちっと思い出してもらいたいと思うんです。私達が、敗戦に伴って、アメリカ軍の占領をあれほど熱狂的に歓迎したのはなぜだったのか。私は戦後の世界史において、アメリカ軍が軍事的に局地的に勝利しても、最終的には常に敗北してきたという歴史を見ています。ベトナムでもそうでした。アフガニスタンでもそうでした。イラン・イラクでもそうでした。シリアでもそうでした。そしてウクライナでもまた同じ間違いを犯そうとしているんではないかと私には見えます。アメリカがそのように増長し、自分たちが世界の治安を守る、世界の自由の価値観というのを守る警察であるというふうに思い込んでいるその傲慢の根拠は、ただ一つの成功例、すなわち日本占領ですね。あれほど鬼畜米英と叫んでいた日本人が、アメリカ人を大歓迎し、アメリカ文化が日本に普及するということに対して、本当に無防備なほど、その傾向に日本国民全員が同調したわけです。

 日本国民が、世界中の人々の中でひときわ民族意識が低い国民だったからでしょうか。私はそうは思いません。日本人は、少なくとも明治の初期までは、ある志を持って日本の近代化に努力したし、そしてその後は、国家による洗脳教育ということがあったとしても、国民一丸となってまとまってきたその精神性の高さは世界でも類を見ないほどであると思うんです。その精神性がたった一晩にしてころっと変わったのはなぜか。それは、国民がそれほどまでに飢えていた。それほどまでに困窮していたという、戦時中戦前のその思いが一気に噴き出したということなんだと思うんです。アメリカの占領政策が成功したのは、その政策の合理性ではなくて、その政策を施行した対象となる日本の大衆、日本の民衆が、そこまで疲弊していき、本当に疲弊しきっていた。だからこそ、いわば地獄の血の沼に苦しんでいる罪人に対して、スルスルとお釈迦様の蜘蛛の糸が垂れてきたときに、その蜘蛛の糸に犍陀多(カンダタ)を初めとして多くの罪人がしがみついてよじ登ってきたという光景。芥川龍之介の有名な小説のフィナーレでありますけれども、要するに、そういう状況であったということですね。

 それはとりもなおさず、日本の人々が、戦前あるいは戦時中、これは大切しなきゃいけないと思っていたものは、本当は心からそう思ったんではなくて、そう思わされてきた、そういう風潮であったということ。世の中の空気がそうであったということに対して、自分がそれをに合わせていたということ。自分自身がこう思うということが言えない世の中であった。そう言えない世の中であった。だから、言わなくてもよかったということにはならないんですね。たとえ口に出して言わなくても、心の中では、これはおかしいってそういうふうに思う心の自由というのはあったはずなんです。私が思うのは、みんながこういうから、今こういう世間でつまはじきにされるから、そういうような本当に上辺だけの理由で、自分の考え、思想、そして最終的には言論、それまでも、自ら封殺するということは、本当はやってはならないことなんだ。本当に大切なことはしっかりと守らなければいけないんだということ。その当たり前のことを私達はやはり日々思い出すべきだと思うんです。

 今、ウクライナ地域で戦っている残酷な人間と人間との争い。それはどんな理由があろうと、正当化することはできない。どんな理由があろうと、一刻も早く終わらすのがいいに決まっている。終わらすことができないのは、終わらすことに対して、それでは自分が損をするという考えがあるからだと思います。私がそう言ったからといって、一方的にウクライナに降伏をしろと言っているんではありません。少し歴史をさかのぼり、どういうような経緯を経て今に至ったということを世界の人々が冷静に受け止めるべきである、というふうに言っているだけなんです。世論に流されるということは、戦時中、あるいは戦前の世論に流されることと同様、最も恥ずべきことであると思います。ジャーナリズム。あるいはマスコミといったものが流す情報も、実は戦前の大本営発表と、大差ない。ということに。皆さんは警戒心を持って、当たらなければいけないと。私は思います。

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