長岡亮介のよもやま話245「古楽器のもつ力」

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 今日は皆さんもよくご存知のお話をしたいと思います。それは、現代では洋服、家といった私達と非常に身近なものから、趣味の世界、例えばスポーツその世界にまで、科学的な思考というものは取り入れられてきて、私達の暮らしを快適にするというだけではなく、言ってみれば競技、スポーツ、それがより上手くできるようになってきているということですね。

 印象的なのは、球技におけるラケットとかバットの開発ですね。高校野球の選手たちが金属バットを振り抜くそのバッティングの有り様は、かつてはプロ野球の名選手と言われたような人たちのバッティングの型以上に優れているという印象さえあります。スキーも私が若い頃からやってきた古典的なものから、随分進化して、最近のカービングスキーというのは、言ってみれば本当に簡単に乗りこなせる。私自身に関して言えば、ちょっと技術が新し過ぎて、あまりにも簡単にくねくね曲がるので、かえって不安定な感じがするというくらいでありまして、ターンが難しい技術であったのは、本当に昔の話、そういう気がいたします。ゴルフのクラブに関しても、昔は曲がらない球を打つということが奇跡的に難しいことだったのに、それが本当に簡単になってきている。道具の素材に関しても、本当に皆さん若い人は知らない昔の世界では、スキーは木でできていました。スキーの靴は革でできていたんですね。今やスキーは、グラスファイバーの時代を経て、カーボンファイバーの時代を迎えている。ゴルフのシャフトなんかも典型的ですね。スチールシャフトの時代、昔は本当にスチールシャフトだったわけです。その前は木のシャフトだったわけですね。そういった時代から、カーボンファイバーが当たり前だという時代になってきています。そういうふうに自然科学的な技術、それが道具の中に実装され、しかも、それによってより合理的なプレーができるように、繰り返し練習して、あるいは試してみて、その実験結果を蓄積することによって、より良い道具を開発する。昔だったら考えられないことだと思います。今や、そういう遊びの世界にまで科学的な思考が入ってきている。そのことは、普通に考えれば素晴らしいことでありますね。特に義足の選手が、パラリンピックで出す記録が、オリンピックでスーパースターが出す記録以上にすごいということ、これは、まさに人間の自然の体よりも優れた身体能力を科学的に作ることができるということで、ある意味で、現代という時代を象徴するような出来事ではないかと思います。

 実は音楽の世界でもそうでありまして、いわゆる中世の音楽の時代の楽器、それは今では古楽器というふうに呼ばれている。典型的なのは、木管とか金管という言い方が今でも残っていることでありましょう。フルートは、今では金属で作られている、当たり前だと思います。そういうフルートしか見たことがない人が多いと思いますが、木管楽器というふうに呼ばれることも、現代では常識でしょう。木管楽器の一つなわけです。木で作られたフルートって現代では存在しない。本当にフルートは金管楽器ではないかと皆さん思うと思いますが、実は木管楽器である。それはフルートが木で作られた時代が、長くあったわけです。そういう古い楽器、その古い楽器を集めて、バッハ以前の音楽を演奏する、いろいろな試みがなされていますけれども、これがスポーツで言えば、古い道具を使って新しい道具と勝負する。絶対古い道具を使った方が不利。例えば、アイスホッケーなんかもう典型的ありますけれども、昔のホッケーのスティックで飛ばせるスピード、それと今のホッケーのスティックで飛ばせるスピードは桁違いなんですね。ですから、現代のものの方が優れているに決まっているとみんな考えがちです。

 ところが、合理的にできているという意味では現代のものが優れているわけでありますが、音楽の世界では、特に古い楽器の奏でる音の良さ、その深さ、その面白さ、それが生き生きと生きているということ、このことは私達が合理的な精神だけで物事を進めるのでは、実は私達にとって本当に大切なもの、本当に大切なものというのは、例えば音楽で言えば美しいもの、あるいは心を揺さぶるもの、あるいは、ときには肌が何ていうんですか、感動で何とかと言いますね、私はその表現を忘れてしまいましたが、思わず感動で肌が変化する、そういうような心や体をも動かすような、音楽の持っている美しさの力、そういうものが、上手に音が出せる、綺麗な音が出せる、ということ以上に大切なことがあるということを私達に思い出させてくれる、と私は思うのです。

 合理的に考えることは大切なことであり、合理的でない不合理なもの、不合理なものと戦わなければいけない、封建主義のようなものと戦わなきゃいけない、これはある意味間違っていない基本的に正しいことであると私なんかは今でも思っていますけれども、本当に深い世界では、合理的な精神は通用しないということを、私達は時々忘れがちではないかと思うんですね。私達は、たまには不合理なものの持つ深い感動、不合理なものの持つ深い英知、不合理なものを持つ深い人間的な温かさ、そういうものもあるという可能性について思いを馳せるという程度のことは、是非ともすべきではないか。古楽器の演奏を最近聞いているのですが、そう言うふうに感じた次第です。

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