長岡亮介のよもやま話243「共産主義という名の理想主義」

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今回は、私の若い頃に関連して、私自身にとって重要だと思ってきた問題、それを取り上げたいと思います。重要だと思ってきた問題であるから、非常に真剣に体系的に論じなければいけないと思いつつも、このよもやま話の性格からいって、そのように本当に厳密に、また体系的に論ずるということには向いていないので、出たとこ勝負ということでお話したいと思うのですが。

プーチン・ロシアあるいは習近平・中国、その動きに対して、今まで左翼だった人たちが沈黙しているというような言い方を平気でする人が増えているということに対して、私はあまりにも無教養が過ぎるのではないかと感じ、腹立たしいというより、情けないという気持ちでいっぱいになります。というのも、ロシアは既にゴルバチョフ大統領の後、エリツィンがクーデターを利用して、民衆の力を先導して、政権を奪取した。そのときから、実は、社会主義国でも何でもなくなっている。エリツィンの時代のロシアの混乱というのは、それはそれはひどいものでした。私はあまりいわゆる経済データのようなものに重きを置いてないので、その数値をきちっと覚えていませんけれども、本当に年率何

そういう時代がやってくるということに対して、警鐘を鳴らしたのは、マックスウェーバーという学者でありました。彼は『職業としての政治』という有名な本を書いておりますが、政治が職業として成立するようにならないと駄目になってしまう、ということですね。政治家が賄賂をもらうということを目的として、あるいは権力を握りその権力を利用して、自分たちに利益を誘導する。そういうことから自由にならない限り、政治が動くものではないということ。政治の重要性、そして政治を見張ることの重要性を警鐘していたのだ、警鐘を鳴らしていたのだと、私は思っているのですけれど。私達はマックスウェーバーのその言葉の重さを真剣には受け止めてこなかったように思うのです。

ロシアが、というよりソ連邦が崩壊したとき、多くの人は、ソ連がいくつかの共和国に解体され、それぞれの共和国が資本主義的な西側のロジックに目覚めて世界平和が達成されると、少なくとも東西冷戦と言われているものに終止符が置かれると、そういうふうに期待したものでありました。東西冷戦の終結は既にゴルバチョフの時代に、ベルリンの壁の崩壊という事件で、私達はそれをよく理解していたわけですが、ソ連邦の崩壊、それは一部の権力者の野望によって実現したわけでありますけれども、その代償は、それはそれは大きかったわけです。本当に貧しい人たちが、とことん貧しくなり、富める人たちがより多くの富を得た。そして海外へとその富が流出していった。エリツィンの後に、政治の権力を握ったプーチンが、あの小さなプーチンが、なぜあれほど強大な権力を握っているのか。私達はプーチン独裁体制というふうに、すぐ思ってしまいがちであると思いますが、プーチンは選挙で選ばれているわけですね。選挙で選ばれているのは、プーチンが国民の支持を得ているからです。なぜ国民の支持を得るか、それはプーチンが、金持ちが自分たちの資金、自分たちの財産をより大きくするということに歯止めをかけて、それを国民に配っているからです。ある意味ではバラマキですよね。プーチンは、エリツィンたちの私腹を肥やす政治家から、国民に最低限の生活を約束する、という路線に大きく舵を切ったわけでありまして、それは習近平の路線と似ています。

それまでの中国は、金持ちは野放し、今でも日本にいる中国人の中に、非常に横柄な人たちがたくさんいますけれども、それは要するに、自分たちが富を得たということによって、偉くなった、権力を握ったと、そういうふうに感じているからではないかと思いますが。習近平時代になって、そういう共産党幹部の不正、それに厳しい処罰がくだされることになった。それによって失脚した元幹部というのもたくさんいるわけです。しかし、ああいう大きな国ですから、不正の温床というのを断つのは容易なことではないと思います。習近平の軍拡路線、軍事拡大路線ですね、軍事力の拡大、それに恐怖を抱いた人は多いと思いますが、中国は大きな国で、しかも、社会主義というのを名目は掲げていて、実際は日本以上に資本主義的な国だと私は思っているのですけれど、やはり、教育に成功しているわけですね。優秀な人間を輩出する。その優秀な人間というのが非常に競争的な環境で育ってくるので、ちょっとえげつないところがあり、それは、孔子が大切にした教育の精神とはだいぶ違う、と私は思っていますけれども、少なくとも、私の関係する数学あるいは近い関係にある物理とか、理論物理ですね、そういう分野に関しては、あるいはエンジニアリング世界においては、そして最近ではウイルス研究のような本当に基礎研究に時間のかかる分野においても、世界の最高水準に肉薄するという水準にまでいっているということを明らかにしました。それは教育がうまくいっているからですね。社会主義の国というのは、大体教育がうまくいく。旧東側諸国、昔であればソ連も含めてでありますが、教育に関しては非常に成果を上げてきたということが、概して言える。西側の国、特に欧米は、自然科学の教育において決定的に失敗していると言ってもいいくらい。アメリカは盛んじゃないですかっていう人がいるかもしれませんが、アメリカの大学の大学院生の優秀なのは、ほとんどは海外からの留学生で占められているわけでありますから、そのことを考慮すると、アメリカ社会が教育に成功しているというふうには全く思えないわけですね。そしてアメリカの分断というのも、実は教育における失敗、それから由来して出てきている現象なのだと思うのです。

私がちょっと最近の風向きを見ていておかしいと思うのは、プーチン・ロシアにしても習近平・中国にしても、一応、中国は中国共産党一党独裁ということになっておりますけれども、しかしながら、実際に共産党が指導しているのは、いわば政策決定の部分だけで、経済活動については、本当に野放しというか、最近でこそ、いくつか習近平政権によってブレーキがかかっていますけれど、本当にすごいんですね。だから巨大なお金持ちが出てくる。日本では信じられないような、そういう本当のお金持ち、ロシアもそうです。日本は貧富の差があるというふうに、みんな思っていますけれど、私は貧しい人がどんどん貧しくなってくる、そういう傾向を感じていますけれども、貧富の差ということでいえば国際的に見れば極めて小さいですね。むしろ、日本が共産国家と思っているロシアや、中国、あるいは北朝鮮、それはものすごいえげつない競争が支配していて、みんなで富を共有するというような理想の社会とは程遠いわけですね。

共産主義っていうふうに日本で訳されていますけど、英語ではコミュニズムというわけで、コミュニズムは、何かというと、コミューンという言葉が難しければ、コモンという言葉でもいいですね。普通っていうことです。コミューンというのは共同体というふうに訳すのが、一番日本語らしくなると思いますが、コミューンというのを基本単位として、社会を動かそうと、社会はみんな共同体なんだと、人類みな共同体とこういうふうに言うと、かつてマルクスやエンゲルスが嫌ったいわば、理想主義なですね。ユートピアで、新しい社会が生まれるというふうに考える傾向が人間の中にあるので、それをマルクス、エンゲルスは随分攻撃しましたけれども、人類は皆兄弟、そういうようなのはキャッチフレーズになり得ない、と彼らは思ったわけですね。それはまさしくその通りだと思うのですけれど、やはり、コミューンを主とするというのは、ある意味で人類の理想主義であって、その理想主義が実際に実現するためには、本当に大変な努力が必要で、その努力の中に教育があるということ。これは、かつての共産主義者もみんな言っていたわけです。教育こそが未来を作る。何故かというと、私達は生まれたままではですね、ただの動物、ただの野卑な人間でしかない。人間が崇高な人間になるためには、教育が欠かせない。そういうふうに、言ってきたわけです。

そして今、日本はどうなのでしょう。学歴だけは立派ですが、教育は全く身についてない。そういうレベルであったと私は思います。私はその例として非常に良い例だというふうに思っているのは、今みんな4年制大学を卒業している。一昔前、戦前であれば、夢のような社会が来ているわけですが、4年生の大学を卒業したからといって、例えばドイツ語勉強したとして、定冠詞の活用がきちっと言える大人が一体何人いるのでしょうか?つまり、高等教育を受けながら、その高等教育の一番の基本である教養レベルで、もう脱落しているということですね。だったら、教養レベルで脱落するということは、専門性はもっと怪しいということです。そんな教養レベルでさえ怪しい、もっと怪しい専門を持った人たちが世の中の高等教育を受けているリーダーなはずはないじゃないですか。そういう中であって、私がやはり危機的と思うのは、そういう大人たちを見て子供たちが育っていくわけですね。私が子供の頃は立派な大人というのがいて、そういう大人になりたい、ああいう大人にはなりたくない、その二つのタイプの大人を自分たちの鏡として、時には反面教師として、子供は成長していきました。しかし、今若い人たちを見ていると、その子供たちが憧れるような立派な人、当時も憧れるような大人が本当にいたかどうかはまた別問題なのですけれど、憧れるような存在に対して、子供たちが自分をそちらに向けてですね、精進しようとしていた。そして、ああいう大人にはなりたくない、という大嫌いな大人、巧言令色鮮し仁という言葉を孔子で勉強しましたけれども、本当に言葉巧み、私の子供の頃からするとあり得ないような、流暢に喋る、まるで漫才師ではないかと思うくらい流暢に喋る、そういう人が、世の中にいっぱいいますね。しかし喋っている内容は全く内容がない、なんていうか、意味を成してないような言葉を平気で喋っている。そういう大人たちを見ている子供たちは、自分たちがこういうふうになっちゃいけないなっていうことも考えることができないんじゃないか、ということを私は心配しています。

今でも、やはり高尚な文化というのはあるので、若者にはその高尚な文化に触れてほしい。そのためには読書をしてほしい。その読書をする習慣を身につける上でも新聞を読むっていうことを習慣化してほしい。そういうふうに願っておりますが、新聞の売行きはどんどんどんどん落ちている、という話であります。これは文化の危機であるのに、それを喜んで受け入れている人がいる、これからはもう新聞の時代じゃない、SNSの時代だと、こんなことを言うような人たちまで出てくる。私は、それは最もまずい現象だと思うんですね。私達の文化が貧困化すると、その貧困化がより多くの、より大きな貧困を生む。問題がどんどんどんどん深刻になる。問題の深刻化の悪の循環、悪循環ですね。こういう悪い循環を何とか絶たなければいけない。そのために、私はできるだけ若い人たちに、本の面白さ、読書の楽しさ、それを伝えたいと思うのです。私自身は、実は、加齢黄斑変性という老人性の病気のために、もう文字を読むことが非常に困難になりまして、今は本を読むということができない。本を買ってきても、それをスキャナーで電子化して、そのスキャナーで撮ったファイルを拡大してディスプレイで読んでいるという非常に非能率なことを強いられているわけですけれど、そういうハンディキャップのない若い人には、「読むならば今のうちだ、魂が若いうちこそ魂は成長するんだ」そういう言葉を若い人たちに贈りたい。そして、残念ながら私と同じように若くない人には、できたら若い人たちに、読書の楽しみ、勉強の楽しみ、それを知るように、巧言令色鮮し仁のような人間を軽蔑するような立派な青年に育つように応援してやってほしい、そう願っています。

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