長岡亮介のよもやま話241「近頃の風潮について:英会話をめぐる体験から」

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 今回は、ちょっと物事がわかりかけてきている人、そういう人たちが陥りがちな間違いを、英会話というポピュラーな話題、それを元に考えてみたいと思います。今インターネットの広告には、「日本人は英語が苦手である。それは英語教育が悪いせいである。」こういうようなキャンペーンが、あるいはそういうような広告が満ち溢れていますね。中には、外国人が使わないような、アメリカ人やイギリス人、外国人っていいましたけれどもネイティブスピーカーが使わないような英語、それを日本で未だに教えている。だから英語得意にならないんだ。と、こういう議論があります。英会話のように実用性が高い技術、それを教えるのに、日本の英語教育のやり方、これはあまりにも古すぎて、非効率である。こういう勇ましい議論が巷に、溢れかえっているわけです。

 しかし、ちょっと考えてください。例えば、日本語を例にしてもいいと思うんですよ。日本では、使わなくなっている表現、それがもし海外の日本語会話の本に載っているとしたら、それは異常なことでしょうか?  例えば、朝起きたときに「おはようございます。お目覚めはいかがですか。」こういうような言葉を日本人で使ってる人、もうほとんどいませんね。家庭の中では、おはようという言葉さえ交わされないかもしれません。友達同士の場合は「オス!」というような言葉だけで終わりかもしれません。あるいは、若い人たちの間では、「それは本当ですか。」というような表現は、もう使われなくなって久しいですね。昔は「嘘!」とかっていうような言い方があったことがありました。今から三、四十年前でしょうか?  人の話をしてるのに、相手から「嘘!」って言われるのはあまり気持ちのいいものではありませんが、まさか悪意を もってそう言ってるわけではないとは思いましたけれども。そういう馬鹿みたいな日本語が流行ったものであります。そして最近は、もっとひどいですね。「まじ?」っていう言い方があります。「まじ」ってどういう意味なんでしょうか。それはおそらく最近は日本語の形容詞・形容動詞の活用ができないので、「真面目ですか。」というよう な、「それは真面目な話ですか。」というようなものの短縮形なんだと思いますけど。若い人たちの中に「まじ」って言葉を連発する人がいます。もし、そういう日本語を外国人が学んで日本に来たとしたら、もしかしたら大衆の間に入ったときにはなかなかこなれた日本語知ってますねというふうに笑われるかもしれませんが、それを教えた日本語学校があるとすれば、かなりレベルの低い学校だったんだろうなと。そういうことを想像してしまいますよね。

 英会話に関しても同様で、日本で行われている英会話教室のほとんどは、私から見ると、折り目正しい英会話を教えてるとは言えない。むしろ、本当に昔はスラングっていう表現をよくしましたけどもスラングっていう侮蔑的な言葉ではなくて会話言葉、colloquial、そういうふうに言っていいと思いますが、そういうのは一般的である。最近聞いた話では、「How are you today?」「I’m fine thank you.」って そんなふうに言わない。「I’m fine thank you」って、これは折り目正しい言い方で、「Good.」これで済ませてしまう。普通ですよね。ごく普通だと思います。しかし、それをわざわざ覚えたからといって、本当にそれを使うことが良い場面、非常に礼儀作法を大切にする場面、例えば、イギリスであるいはアメリカで、立派なアカデミシャンの集まる会合において、そのように挨拶されたときに、私がもし「Good」というふうに答えたとしたら、「何て馴れ馴れしい奴だ。」と思われて、すっかり私の品性まで疑われることになるのではないかと思います。よく TPO 、Time Place Occasion という言葉がありますが、やはり会話というのでは、TPO が極めて大切であり、私達日本人は、いかなる場所においても尊敬してもらえる英語、それを身につけるのは特に若い頃は大切だというふうに思います。若いうちは若い人たちの表現、それをマスターすればいいじゃないか。という言い方、コミュニケーションが取れればいいじゃないか。そういう言い方がありますが、コミュニケーションが取れるということは、自分の言いたいことをきちっと相手に伝える。また自分の言いたいことがとても大切だということを相手にまず理解して、相手がきりっとして聞いてもらえる。そういう英語を話すべきですね。

 これは私自身の経験でありますが、ある大学の有名な教授とインタビューするという機会がありましたときに、たまたま同時通訳の人が、同席してくれました。日系と言っても、向こうで生まれて育った人で英会話がペラペラで, なかなか流暢だなって私も感心しましたけども、私がその教授と、いろいろと話をしているときに、私は非常に複雑な問題、大学における教育、つまり高等教育とアメリカですっかりトレンドになっている、学生たちに対して、私から見ると、迎合的とも見えるような態度、例えば大学受験というバリアって、それを突破するために、日本ではかつては必死に勉強するということがありましたけれども、そういう大学受験、大学入試ということさえ、あまり時間をかけて厳しくやっていない。そういうアメリカの状況を見て、果たしてそれで高等教育に対する学生たちの準備、それが十分にできているという保証は、何にあると考えるんですかというような質問を英語でしました。私は英会話得意でありませんから、そういうときに、まるで本当に文章に書くような英語で喋るわけですね。私は海外の学会でスピーチするときもあなたの英語は難しくてわからないのでできたら原稿もください。というふうに頼まれることがよくあります。しかも私の英語はアメリカ英語なのか、イギリス英語なのかニューヨークの英語なのかロサンゼルスなのかシカゴの英語なのか。オクスフォードの英語なのか、それともウェールズの英語なのか。ですけど, そういうのが全部混じってるわけですから、聞く方も当惑するのは当然でありますが、それくらい英語が下手なんですけれど。そのアメリカの有名な大学の有名な教授と話しているときに、同時通訳の人が見るに見かねて、私が言いたいことはこういうことに違いないと思って、流暢な英語で訳したんですね。私はそれを聞いて、ちょっとニュアンスが違うんだけどって。ニュアンスというより、本当に重要な趣旨が伝わってないんだけれども、というふうに思いながらも、やってくれてるんだからと思ってそれを止めなかったんですが、なんと聞いている向こうの教授が、お前は黙ってろ。言ってることが意味が違うんだと。というふうに指摘してくれたのは、とても嬉しかったですね。

 つまり、彼は私が言っているのは、英語としては非常にとつとつしたものであっても、普通のアメリカ育ちの日本人が喋ることもできるような、内容とは全く異なる。非常に厄介な問題であるということに気づいてくれたわけです。つまり、こちらがきちっとしたことを言おうとすれば、向こうも本当に姿勢を正して聞いてくれる。一生懸命理解しようとして聞いてくれる。その辺の若い兄ちゃんが喋るっていう内容だったらば、彼は黙れ、あっちに行けというふうに言うだけなんですが、そうでない、という経験を実際にして、やはり若い人たちに、英会話ができるっていうこと、それだけを重視する。という風潮に、私はブレーキをかけたいなっていうふうに思いました。それは、日本に来た観光客に道案内をするとか、美味しいものの食べられる店。それ案内するとか、買い物を案内するとか、そういうことであれば、そういう程度の英語でも十分なのかもしれません。しかし、きちっとした主張を持った内容のあるメッセージ、それを相手に伝え、相手のメッセージをきちっと受け取る。そういうためには、やはりきちっとした英語を理解することが必要で、「それマジ?」とかって、いうような、最近は、「これやばくない?」とかっていう言い方。やばいというのは、元々ヤクザ言葉で、全然今とは違った意味を持ってるんですが。最近の若い人が、5 分に 1 回ぐらい発するやばいという表現は、全く私には理解できません。

 そういういわばこなれた日本語というのでしょうか、よく言えば。でも悪く言えば、語源すら知らない人たちを全く曖昧な意思疎通に使われているそういうときに、意思っていうのは何だかよくわかりませんけれども、そういうものをいくら勉強しても、本当は何の役にも立たない。と思うんですね。よく役に立つ、役に立たない、実用的である、実用的でない。こういうことが叫ばれる世の中ではありますが、本当の実用性ということを考えるならば、それは卑俗な実用性とは全く異なったものである。ということを忘れてはならない。と私は思います。文学なんかいくら読んでもしょうがない、あるいは数学なんかいくら読んでも実用性がないという人がいます。確かに勉強の仕方によっては、あるいは読書の仕方によっては、そういうことも可能性としてはあるでしょう。しかしながら、本当に読書をする。本当に数学を勉強するということは、実用性がないように見えて、実は、深い教養の形成、それに直結するという意味で、とても実際には、実用的なことであるわけです。残念ながら、多くの人が文章を読むあるいは勉強をするといったときに、文章をただ目で追っているだけ。あるいは、そこから ChatGPT で吐き出されるような、そういう気の利いた。セリフ、それを目で流してるだけ。あるいは勉強しても、試験のために勉強してるだけ。そういうふうに、終わってしまっている。それは 実用的な価値がないだけではなくて、何の価値もない。時間の無駄だった。ということを申し上げたいと思うんですね。ちょっと物事がわかってくると、なんていうか、そういうちょっとわかった人で本当にわかってない人に対して甘いささやきが溢れかえっている世の中になりました。であるからこそ、私達は、ちょっとわかってきたならば、もっとわかるために、慎重に進む。ということが大切で、ちょっとわかった人を詐欺に引っ掛ける。というようなものに、手を出すべきではない。と思います。こうすれば儲かります、こうすれば幸せになります、こうすれば痩せられます、こうすればモテるようになります。そういうようなことを謳う商売は、全て詐欺と言っていいでしょう。昔は詐欺広告は、新聞や放送では禁止されていました。しかし最近は、それが堂々とまかり通る世の中になってしまいました。広告資本主義と私は呼んでいるんですが、会社が利益を上げるためには、どんな広告も許される。これが今の風潮ですね。全ての人がお客様の満足を達成するために、なされるべきである.ちょっと聞くと、なんか当然のような気がするんですね。

 しかしながら、病院で長岡亮介様、おまたせいたしました。いよいよ受診の時間が迫ってまいりましたので、何々診察室の前にお越しください。そんなふうに丁寧に呼び出されたら気持ち悪いですね。最近は病院では名前を呼ぶということをやめて、番号で患者様を呼ぶ、何番の患者様とか言われますけど、患者様っていうふうに言われると、結局客商売の相手になったのかと思うと、情けない気持ちになります。同様に学校でも、もし学生に対して何々様、今回の勉強はとてもご苦労様でした、よくできてましたね。こんなことを言われたら、つまり顧客として扱われているということが露骨にそこに出ているとしたら、嫌なことですね。たとえ表面的にはそういう言葉遣いが使われなくても、結局、カスタマーズ Satisfaction、顧客の満足度を上げることが病院や学校の第 1 目的ということになったならば、そんな病院や学校には行きたくないと思うのは私だけでしょうか?

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