長岡亮介のよもやま話239「みんなちがって、みんないいい」

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 「当たり前と思っていることの中に、実は当たり前でないことがある」ということを発見することは、学問的な発見と同じく、その発見をした人にとっても、またその発見に関連する事柄を抱えた人にとっても、非常に重要なことだと思います。私は今日取り上げたいと思うのは、子どもの成長ということについてです。私がまだ現役だった頃、いろんな高等学校に講演に行くと、その高等学校の先生から「うちの子どもたちには、それは難しくてわからないから」、という話を聞かされました。確かに、一番勉強が得意でない子どもたち向けに書かれた本には、決して書かれてないことでありますが、決して難しい、難解難渋という意味で難しいわけではないから、ちょっと教科書に書かれてあることを発展させ、理解させれば良い。あるいは発展させてくれれば理解できる。そういうレベルの問題だと思って、私は取り上げたのですが、「こういう問題は、うちの子どもには難しい」という表現に、もう本当に何回か数えられないくらい出会いました。

 「うちの子どもには難しい」という表現は、うちの子どもを謙遜して守っている。そういうふうにも聞こえるのですけれども、ある意味で馬鹿にしているようでもあるんですね。本当のところは、「自分自身はわかるんだけれども、先生わかるんだけれども、生徒はわからない」という表現であるということに、あるとき気づきまして、なんと傲慢なことだろうと思ったんです。きっとその先生にとって大変難しいという意味で、一度もそれを自分の子どもたちに「難しいけど頑張って勉強してみようよ」と教えたことは一度もないんだろうなと、邪推するふうになりました。なぜならば、そういうふうに「うちの子どもには難しい」と言っている人に限って、ご本人が全くわかってないという傾向がはっきり見て取れたからです。こういうようなことをやがて言うということを当時予想したならば、ちゃんと統計的なデータとして残しておくべきだったと思いますが、未だに日本の中には、特に私が括弧づき「進学校」っていうふうに呼んでいる、つまり有名な進学校の末席に自分の学校の名前を載せたい学校の教師であるということを世間に名乗って歩きたいと思っている先生方の中に、特にその傾向が顕著に存在するのですね。括弧づき「進学校」、進学校であることを売り物にして、子どもたちのためではなく、自分たちのために学校を運営している。そういう学校が誠に残念ながら、日本には数少なくない。本当はそんな例外的な学校はない方がいいと思うくらいでありますが、子どもたちのためではなく、先生たちのために運営している学校が少なくない。同じことは、患者のために運営している病院、あるいは村の人の平和な生活のために運営されている警察署が実際は少ない。病院や警察の問題について、これ以上語ると危険ですからやめましょう。学校の問題に絞ってお話します。

 ともかく、自分の生徒を守るふりをして、自分が無能であるということ、自分ができないということをごまかす。これは、最もやってはいけないことではないかと思うんです。子どものためには、ありとあらゆる可能性を試す。そういうチャレンジャーの心、それに関しては私は負けません。そういうふうな先生でいてほしい。もちろん、子どもに無理強いをするということは、いじめと同じですから、それは無理です。しかしながら子どもの持っている可能性というのは、本当に上手に育てると、まるでありえない奇跡が起こるように、奇跡的に起こるんですね。どんな人でも、例えば植物の種に水を撒いて植えて日を当ててやるだけで、すくすくと大きな木になる。本当に奇跡的ですよね。想像もできません。しかし、想像ができないことが日々毎日自然の中で繰り広げられているわけです。植物でさえそうなのですから。人間の成長には、ものすごい可能性が秘められている。でも多くの人がその可能性を信ずることができなくて、そして子どもたち自身も自分たちの可能性に気づくことができなくて、その可能性の芽を、せっかくの可能性の芽を摘んでしまうということになるのではないかと思うんです。ですから私は、子どもたちには、自分たちの可能性を信じて頑張ってほしい。その可能性が何か甲子園の球児なるというような、テレビドラマの延長上に自分の未来を見るというようなものではなくて、もっともっと実直なものであってほしい。そういうふうに願います。

 昔私の子どもがまだ小さい頃に、5,6歳だったと思いますが、公園で行われる何とかレンジャーというのを、余興の番組で、番組といってもテレビでやるんなくて実況なわけです。そういうのを見ていたんですが、そのリーダーである人が、「そこに座っているお前、お前いったい何歳だ」と言ったら、その子が6歳だとか7歳だとか答えたんだと思いますね。多分7歳と答えたのかな。「だったらもう小学校に行っているじゃないか。小学生にもなって、こんな番組見ているんじゃない」というふうに叱ったのが、みんなの笑いを誘って、大変に面白かったですけれど。今、子どもたちの成長を早くする。どんどんどんどん勉強が早く進むということを喜ぶ反面、子どもたちはいつまでも幼稚でいてほしいという気持ちがあって、子どもたちの心の成長をむしろ押しとどめている。子どもたちに成長しないでいてほしいと思いたがっている。そういう傾向が強くあるのではないかと思います。

 金子みすゞの有名な詩なので、いろんな人がいろんなコンテキストで引きます。私は、おそらく多くの人が引用する意味とは全く違う独特の読みをしていると思うのですが、彼女が人が「みんなちがって、みんないい」っていう。「みんなちがってみんないい」っていうところは、重要なのは「違っている」ということ。「人々がみんな違っている」ということ。いろんな意味でものすごく多様性に富んでいるということ。その多様性に富んでいることでもって、それで人としていいんだということ。違っていることが素晴らしいとまでは言ってない。でも、「人が違っている、そういう多様性を持っていることを認めることが大切だ」と言っているんではないかと、私は思うんですね。そして多様性を豊かに認める文化、それが豊かな文化だと言っているんではないかと思うんです。

 美味しいものは誰が食べても美味しい。まずいものはみんなまずい。私達はそのような画一性でもって人々をすぐ分類しがちです。でも、「美味しいものを美味しい。まずいものまずい」と言うときにでも、人は無限の多様性を持っているんではないかと私は思います。同じように、勉強なんかしても全然面白くないという人もいれば、この勉強のこの部分がものすごく面白かった。この一言で私は目が覚めた。そういう子どもがいるはずだと私は思うんです。そういう子ども持っている多様性を、「みんなわかったかい。いいか、宿題だよ。」こういうような一斉事業についてくる。そういう先生の授業の指導に喜んでついていく子どもたちだけが優等生であるというのではなくて、この行1行に書かれているこの意味が、私は本当に意味がわかった。そういう子どもたちも、きっといるに違いない。そういう子どもたちに、「みんなちがって、みんないい」と言えるような先生がいてほしい。と思うんです。

コメント

  1. Leo.橋本 より:

    “365” days went by so quickly!
    Wish you the Best for the next “365” days!

    今年のよもやま話も、楽しみにしています。

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