長岡亮介のよもやま話238「科学の進歩の意味」

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 今回は、科学の進歩と言われている人々の常識について、考えてみたいと思います。多くの人は、科学が進歩すると、今まで迷信のように信じられてきたことの背景に、「科学的にしっかりとした原理があり、その原理に従って、今まで神秘的に見えてきた現象、あるいは宗教的な祈り、あるいは呪術のようなものによってしか解決できなかった問題が、科学的に解決できる。」そういうふうに信じるのではないか。つまり、科学の進歩というものが、今まで全くわからなかった世界に、新しい光を当て、それを白日のもとにさらす。今まで暗黒の秘密であったものは、白日のもとにさらされて、誰にもがわかりやすいものになると、素朴に信じられているのではないかということについて、ちょっとお話したいと思います。

 科学の進歩について語るためには、皆さんがこれから大学院以上に行って誰もが直面するように、その最先端に行けば誰でも直面することでありますが、最先端を切り拓く仕事というのは、決して昔の啓蒙主義者が考えたように、その「啓蒙主義」はEnlightenmentと言いますね。光を当てる。明るくする運動ということです。人々の無知の暗闇の中から、人々を明るい世界へと導く運動です。その「明るく導く」というのは、科学的な知識によってという意味が裏にあったわけでありますが、自然科学的な知識というのが世界を理解するうえで決定的に重要であるということが、初めて認識された時代の思想と言ってもいいと思います。私達の今生きている時代は、科学の進歩に関して、私達がもう少し慎重にならざるを得ないというところまで科学が進歩してきている、ということをお話したいと思うのです。

 つまり、私達があまり科学的な知識を持っていなかった頃は、全てのものほとんどのものが、非科学でしか説明できなかった。非科学で説明するということはおかしなことでありますけれども、一種の原始的な宗教とか、あるいは呪いとか、あるいは神々の間の闘争とか、そういう神話的な世界の中で、世界の動きを解釈せざるを得なかった。神々の動きが天の不規則な運動に表現されているに違いない。そういうふうに考えた人々は天空の星空の不規則な動きの中に、その現象の予兆なり、あらかじめの予告、天からの知らせを読み取ろうとしていたという歴史があります。今そんなことをする人はいません。それが今でもいるかもしれませんが、それが力を持っていた時代とは遥かに違う桁外れに多くの知識を私達は持っているからです。いわゆる占いというのは、天文学の父と言ってもいいような、非常に重要な貢献をしてきているわけですが、その天文学が相手にしているのは、所詮は太陽系の中の惑星であり、その太陽系の中の惑星がたまたま太陽と同じ軌道、軌跡上にある恒星、魚座とか、獅子座とか、ふたご座とか、有名な星座、他にもいろんな星座があるんですが、太陽の道、黄道と言われる黄色い道、そのところにあるものは12個っていうことで、12ヶ月なので適当に分類してちょうど12個になるようにしたということなんでしょうけれども、その恒星に関する知識は全くもっていない。つまり、恒星、動かない星という理解のもとで、その恒星が天球に張りついていて、その天球の中を不規則に惑星が動いていく。その惑星の動きを見て、ただならぬことが起きているんではないかと、そういうふうに理解しようとしていたわけです。

 我々の知識がせいぜい太陽系までしか届いていなかったという時代。懐かしい時代でありますね。Copernicusにしても、Galileo Galileiにしても、そのレベルの天文学的知識しかなかったわけです。しかし今や小学生でも、太陽系は銀河系の中の一つの星に過ぎない。太陽系の中でさえ太陽のような星はいっぱいあり、そして太陽の周りを惑星を持っている星がもういくらでもあるということを、小学生でも知っているんじゃないでしょうか。そして、その銀河けが渦巻いている。太陽系はその渦巻く銀河系の端の位置を占める一つの太陽系でしかない。太陽系のようなものはいっぱいある。銀河系の中のたった一つの太陽系にすぎない。しかし、銀河系の中にはものすごくたくさんの太陽系があるはずですから、その中に知能を持った生命体が存在するに違いない、いやいやとんでもない。もう20世紀になって明らかになったことでありますが、太陽系の外にある銀河系、太陽系を含む銀河系、銀河系のような恒星集団がいくらでもあるんだと。星雲っていうふうに昔は言われていました。まるで雲のようにしか私達から見ると見えないからです。その雲のような星がいくらでもある。

 そして、雲のような星がなんと距離をどんどんどんどんえらい勢いで増している。遠ざかりつつある。これが大天文学者Hubbleの大発見でありまして、そのHubbleの計算から逆計算して、宇宙にはbig bangがあったに違いないということ。それがわかり、その今やBig Bangというのは単なる仮説ではありますけれども、その仮説に基づいて計算すると、わからないこと、わかることいっぱいあって、わからないこともどんどん出てきているわけですね。Big Bangだけでは説明することができない。そのために新しい理論が提唱されたりしてる。Big Bangが始まってから10-30秒というような短い期間の中に、インフレーションと呼ばれるものすごく巨大な爆発があったんだというような理論も提唱され、その理論の中心人物の一人が日本人であるということは、私達日本国民として嬉しいことでありますが、言ってみれば、本当につい100年前まで全く想像もできなかったような世界が、今や天文学者の常識としてなっている。

 科学が進歩することによって、私達の得られた知識がものすごく増えたように思います。ものすごく増えたように見えまして、宇宙がどのようにして生成されてきたか、その本当の最初の最初にまで迫ることができる。そしてそこからのコンピュータシミュレーションによって、このような宇宙が出来たに違いないというもの。「我々の宇宙は言ってみれば、Big Bangの結果である」ということも最もらしく説明できる、というところまで来ていますけれど、それで全部できたのかというと、全くそうでないですね。我々の住んでいる宇宙のようなものに近いものが、数学的にシミュレーションできたということであって、それは現在の私達の現実の宇宙と全く違うわけです。私達のような生命体が生まれる。そのいろんな仮説があります。おそらく、この大きな大宇宙の中にはきっと生命体を擁する天体が存在するに違いないと言う人がいますが、一方で、これほど奇跡的にうまくいかない限り成立しない生命体が、確率論的に考えて他の宇宙にあると考えることの方が確率的に見ておかしいという議論もあります。私はどちらかというと数学的にはそちらの方にだいぶ軍配が上がるなとは思いますが、生命探査っていうのは宇宙科学者にとって、予算は集めるための切り札のようなものでありますから、それを彼らが手放すことは決してないと私は思っています。その生命探査とは別に、やはり宇宙の起源というのは、私達の好奇心を刺激してやまない。これは大いにやってほしい。そして研究成果を発表してほしいと思います。

 そのように知の世界が大きくなったことによって、私達の知識は増えていますけれど、本当に増えているのは、私達が知らないという世界が広がっているという点であるということが、あまり知られていない。科学が進歩すれば進歩するほど、科学で迫れない世界、今まで全く科学的な議論としてまな板の上に上がってこなかった、討論の舞台に上がっていなかったものが重要な問題として、討論の議題となっているということです。研究テーマとして増えているってことですね。言い換えれば、私達がたくさんのことを知れば知るほど、私達が知らない世界が増えているということです。誰が言ったのか私は忘れましたが、昔聞いた言葉でとてもうまい例えがあったと思います。かつて膨張宇宙論とかあるいは反復宇宙論とかいろいろなものがありました。そのときに唱えられたものの一つだったと思いますが、膨張宇宙論を唱えた人が、宇宙が膨張していくとどうなるかというような議論のときに、宇宙が膨張してくというのは風船が膨らむようなものであると。風船が膨らむと星と星との距離がどんどんどんどん離れていく。そういう世界で、現在の我々の観測する宇宙というのは、その膨張宇宙論にぴったりである。というこういう話が物理の世界で一般にあるのですけれど、風船に私達が息を吹き込みます。その息を私達の知識に例えるとどうなるかというと、私達の知識が増える、私達の知識が増えて、風船に吹き込む空気が増えれば増えるほど、風船は膨らんでいく。つまり私達の吹き込んだ息の境界線である風船の表面、それは増えていって、実は私達の知らない世界との接する面が巨大になっていくことですね。知識が増えれば増えるほど、無知の領域が広がっている。私達にとって全く理解のできない暗闇がその外に広がっているということがわかるという言葉です。

 私は誠にその通りではないかと思います。自然科学というのは、18世紀の啓蒙主義者たちが楽観していたように、科学的な知識が人々の間に広まれば広まるほどそれまでの不合理な思想を駆逐して、みんなが知識の明るさの中に出るんだと。「知は力なり」と言う有名な言葉、その知というのは、科学的知識のことなんですけど、scientia est potentiaという言葉でscience is the powerと英語に訳してもいいでしょう。それはやはり科学に関して、あまりにも少ない知識しか持ってなかった時代の哲学者の言葉としてふさわしいと思います。今のように科学が巨大に進歩した時代、私達は科学を通して、いかに私達が本当にほとんどのことを知らずに過ごしているか、全く知らずに過ごしているのにうまくうまく均衡がとれる、そういう不思議な世界の中に、私達が生きている。正確に言えば、生かされているというふうに言うべきではないかと思います。私達はまだまだ決して一人前の存在ではないということが、科学の進歩を通じて明らかになりつつある、と私は感じます。

 例えばわかりやすい話で、ダーウィンの進化論に関しては日本では誤解している人が非常に多くいます。様々な種が環境に適応して変異を繰り返してきた。その結果が現在であると。人というのも環境に適応して変化してきているんだと、私もつくづく思います。現代の青年を見ていると、やはり現代という時代に適応してこういうふうになってしまったんだというふうに思います。本を読まず、携帯電話を見ている時間ばっかりが長くなる。私達から見ると、これは人種的な一種の変異が起こったとしか思いようがないようなところありますが、生物学者はそれをきっと否定するでしょう。そんなもんではない、遺伝子的な配列は変わってないと言うかもしれません。私も議論に面白くなっていってるだけで、そんなに真剣に話してるわけではありません。でも、環境に適応しながら、種は生きている。それが種の変異に繋がるかどうか、新しい種の誕生に繋がるかどうか。私は依然として謎ではないかと思うんですね。ダーウィンの言ったことは、その謎があるということを指摘したことであって、その謎を解明できたわけではない。例えば環境に適応するということはそもそもどういうことか。こんな簡単な言葉を一つとってみても、非常に難しいことだと思いますね。

 例えば、保護色という機能を身につけることによって、分の命を守ろうとする。そういう種がいるというんですけど、種の中には、私達の目から見るとえらくケバケバしく着飾って、そんな派手にしていたら敵に狙われるだろう、あるいは自分の種の他の雄たちに狙われるだろう。そういうふうに思ってしまうこともあります。大きな角をつけて、そんな長い角だったら生存のために邪魔になるだろう、引っかかって逃げ損なうこともあるんじゃないかと思うこともある。やはり、環境に適応する適者生存というのはそんなに簡単に言えることではない。適者生存の原理を気楽に喋る人は、まるで天気予報士のように結果から原因を語っている。「昨日あんなに急に寒くなりましたのは、大陸から寒気団が噴き出してきたからであります。」こんなことだったら誰でも言えると思うんですね。結果論で言ってはいけない。結果論で未来予測ができるなら、それはそれでいいのかもしれませんが、結果論で、昨日のことを説明する、あるいは今朝のことを説明する。過去でもて過去を説明するというのはナンセンスだと。それは歴史に学ぶことにならない。自然科学が私達に教えたことは、「進歩すれば進歩するほど、私達の無知の領域が増えているんだ」ということではないかと思います。

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