長岡亮介のよもやま話237「卑怯な男、堂々とした女のパラドクス」

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 今回は私達が普段日常的によく使っていながら、その意味を、あるいはその深い意味を想像せずに使っている、そういう言葉について反省してみたいと思うんですね。というのも、私は、例えば「水に落ちた犬は打て」という、そういうアジアの国にある諺は、一旦社会的に失墜した人がいたら、それを徹底的に叩け、いじめろ、もう二度と立ち上がれないようにしろという、人生の戦略というか、人に勝ち抜くための技というか、そういうと少し聞こえはいいですけど、結局のところ非常にアンラッキーな人に対して、そのアンラッキーなこと、それを徹底的に利用して追い詰めろ、という考え方でありますから、卑怯といえば、まさに卑怯ですね。

 “卑怯”という言葉、これは難しい漢字で書きますけれども、その卑怯という言葉が元々どういう意味を持っていたのか、私も実は知りません。でも卑しいという言葉、そして怯えるという言葉がついていることから見て、これは勇気を持った、或いは実力を持った堂々としたタイプの人が当てはまる言葉ではない。何か卑しい、そして実はおどおどしている臆病な人、そういう人が使う、そういう手段ではないか、そんな感じがその卑怯という文字から想像されるわけですけれども、私達の文化の中で卑怯という言葉、これが持っている意味は非常に大きいですね。卑怯というふうに判定されたら、もう後はない、そう言ってもいいくらい、人間に対する断罪の言葉として、すごく強いわけです。

 しかしながら、他方をこれまで何回か申しましたが、人間存在あるいは生物存在というのは、他の生物、あるいは他の生命、それを犠牲にするという逆説の中で自分の生命を維持する、非常に深遠な謎の世界なのですね。そういうことを考えると、卑怯というものは、本当はない。生物としての言わば与えられた宿命に従って、よく言えばその宿命に誠実に生きている、というふうに言えなくもない。私は、人間はそういう生物としての論理、あるいは生物としての倫理とは、やはりちょっと別のところに生きているのだ、生物としての倫理、生命としての倫理を超えたところに人は生きたいと考えているのだということをお話したいと思うのです。つまり卑怯だったら絶対にいけない、ということでありますね。やはり、堂々としている、あるいは姑息でない、小狡くないということが、人間として大切なことだ、そういうふうに思っている。

 しかし、今の世の中はだんだんだんだん、その姑息な生き方というか、狡い生き方というか、堂々としてない卑怯な生き方、そういうものが得する生き方のように思うようになっていますね。人々が次第次第に古い伝統的な人間としての美意識、それをかなぐり捨てて、生物としての論理、生命としての論理、そちらで生きることがいいのだ、そういうふうに言い始めているように私は感じるのですが、そのときに、私は昔の言葉で言えば、男らしいというような表現、雄々しいという表現、男という言葉がすごく強調されていたと思います。それに対して、姑息という言葉、これはまさにその漢字がそうですけれども、女偏がついている。女は、姑息だという言い方は、現代では全く通用しなくて、むしろ私が現代で風景を観察していると、姑息なのは、むしろ男性と言われる人たち、本当に男の人は情けないことに、地位や立場、それをちゃんと築き上げてきたはずの人が、実にみっともない姑息なことをやっている、そういうふうに感ずることがあり、反対に女性は実に堂々としていて男らしいなと思う。女性に対して男らしいですね、と言ったら、それはハラスメントであると、そういうふうに騒ぐ人がいるかもしれませんが、私はそこで男女の性差というのを問題にしているのではなくて、一昔前、男女の性差を使って説明されてきたような人間としての生き方、それが今や性差どころではなくて、それを逆転して使うことの方がむしろふさわしい時代になってきている。男性が女々しくなり、女々しいは女女しいと書きますね。女性が実に男らしい、そういう時代になりつつあるのではないか。

 こういう時代的な変化が何によってもたらされているのか、私にはその理由や原因は、まだわかりません。その一端にも触れることができておりません。しかしながら、一つ分かることは、かつて男らしい潔いと言われていた、そういう生き方というのは、言ってみれば、生死、生きる死ぬ、それをかけた戦いの舞台に立っている人たちに対して使われていた。戦争が日常的にあった時代、その時代には兵隊として、あるいは武将として活躍することを期待されていた男性、それに対して自分の命を投げ出すことさえ躊躇しないということで、男らしいという表現が使われていた。それに対して、命にこだわる、自分が生きていくためには物乞いをする、自分の子供を守るためだったら何でもする、そういう女性の生命に対する誠実さというか、生命に対する忠実さについて、それを女々しいと言ったのではないかなと、そんなふうに想像します。

 いわば、中世以前の武家社会、日本で言えばですね、ヨーロッパで言えば騎士世界とか、いわゆる戦争の時代、その時代にもてはやされてきた男性の戦士に求められる価値観、それが今もその男らしいとか、毅然としているとか、そういうものに活きているのだと思うのです。ところが、戦争というような人生の一大事を決定する、そういう場面が減ってきて、日常的な毎日の中で、仕事をするということしか期待されてない、そういうふうになってくると、人間はしばしば、自分が責任を持って決心をするということは、本当は嫌なのだと思うんですね。そして、そのような決定を下すという仕事を主に任されていた男性たちが、そういう責任から逃れ始めた。これが、男性が、男らしくなくなった、あるいは女々しくなった、あるいは姑息になったという社会現象の最初のきっかけだったと思うのです。このような傾向がはっきりしたのは、戦争が目に見える形ではなくなった、日本で言えば、太平洋戦争の敗戦後でありましょう。

 本当の意味で、人生の決断をする、そして自分の命を場合によっては差し出す、そういうような厳しい生き方から、離れたときに、男性が男性に期待されていた美徳、そういうものを失ったのですね。そして女性たちに求められていた、あくまでも自分たちの命を守る、次世代を育てる、そういう女性たちに、主に期待されていた人間の美徳、生命に忠実だということですね。生命倫理に忠実、このことが男性の方にも移ってきた。男性が自分自身の生命、自分自身の家庭、それを大切にするために時には姑息に生きる、ということが恥ずかしいことだと思わなくなってきた、という大雑把な歴史認識は、あまり外れてないのではないかと思っています。しかし、それを私はきちっと証明しているわけでは全くありません。ただ、何となくそうなのかなと想像するだけです。なんでそんなことを想像するか。それは一言で言えば、最近の男性が、自分自身の成した決断に対して、あまりにもみっともない行動をとるからですね。そして、他人の失敗した行動に対してあまりにもみっともない行動をとる。このみっともなさに対する感覚を男性が失ってしまっている、ということは、私としてはとっても残念な気持ちもあります反対に、女性たちが男性に代わって、そのような勇気ある決断をやっていく、そういう責任を担う、そういう姿を見ると、実に立派だなというふうに思い、姑息という言葉を女偏で使ってきたということの長い歴史の大きな転換点に、今来ていると私は思います。

 若い皆さんには、男偏が付くか、女偏がつくか、ということと無関係に、やはり昔、男性に求められていた、自分の生死を賭けた厳しい決断、それをやっていくということが、実は人間としてとても大切なことだ、そういうことを時々思い出して、姑息な生き方、卑怯な生き方、これだけはしたくない、そういうふうに思う人たちの輪に加わってほしいなと思います。姑息な人間は、短期的には得をするかも知れない。しかし、そういう短期的な得は、人生の巨大な損に繋がる、ということです。私が、少し最近は年を取ってきて、人生一般というのを考えるようになったということもありますが、結局、姑息な人間は、人生の最後にそのツケを払わされる、ということです。

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