長岡亮介のよもやま話235「核武装という威勢のいい意見について」

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 最近、音楽やバレエを楽しむ、そういう希望をもつ方もYouTubeが意外に使いやすい、また、広告宣伝が強引に入ってくるのは不愉快だという方がいらっしゃいますが、実は広告宣伝をカットするそういうツールもいろいろと出ておりまして、YouTubeの広告宣伝をカットすることは、私自身はできているのですけれど、そのYouTubeを見ていて、あまり愉快でない対談もたくさんあります。その中にも勿論傾聴に値するもの、自分と意見が違うからといって、それは不愉快だというふうにして切ってしまうのは勿体ない、とても勉強になるなというふうに思うものも少なくありません。

 しかし一方で、何を言っているのだか、どうしても意味がわからないというもの、これが特に日本発の情報というのは多いのですけれど、例えばウクライナ問題1つ取ってみても、あるいはロシアとの関係、あるいは米ロの関係、そういうものを取ってみても、日本を中心として議論を進める、そして自分たちこそが保守本流であるというようなことを主張している人たちの論理は、いくら耳を澄ましてもどうも腑に落ちません。どうやら日本が核武装を禁止されているということ、自分たち自身が核武装を自主規制している、そういうふうに信じ込んで、憲法を改正して核武装をすべきであるというような議論を組み立てているようなのですけれど、私はさっぱり意味がわからないんですね。なぜならば、日本は敗戦国であるわけです。日本は今、敗戦からそのことを忘れるくらい復興しているかのように見えますが、日本人の精神構造は、私から見ると、完全に敗戦国根性でありまして、同じ敗戦国であるドイツと比べても、日本人の敗戦者意識というのでしょうか、きちっとした敗北感を受け止めていないという意味では、無自覚な敗戦者意識というものが、日本を支配しているように私は感じています。

 私が最も強く感じるのは、日本が言ってみれば、国を強くするための戦略、それを国民が合意して、一つに向かって邁進していくというような気持ちを忘れていることです。例えば、核武装、私はそれに決して賛成なわけではありませんが、それをきちっとした戦略として作るためには、核弾頭を作るだけではなくて、当然、核弾頭を運ぶミサイルそれを命中させる精度上げるための研究、周辺的な技術研究がたくさん必要です。日本は核弾頭を上げるだけのロケットの開発には成功しておりますが、そのロケットですら、しばしば打ち上げを延期する、あるいは失敗する、ということを繰り返している有様で、とてもじゃないですけれど、いざというときに必ず利用できるというようなレベルに鍛え抜いていない。それは、それを請け負っている会社がいけないというのではありません。私達は、そのために巨大な予算が必要なはずですが、その予算を払う準備ができていないということです。私達はたった10%の消費税でさえ酷税だと言っているのに、日本がもし再軍備しようとしたならば、莫大な経費がかかるわけですね。その莫大な経費というのは、福島原発の問題など比較にならないくらい大きな費用がかかる、それが見込まれるわけです。

 多くの第2次世界大戦の戦勝国は、核弾頭あるいはミサイルを持っていますけれども、それは国がそれを開発するために莫大な資金を投与するということができたからでありまして、私達はそれができるのだろうか。例えば私達は、原子力政策というものに対して、果たして毎年どれだけのお金を1人1人が払っているのだろうか。私達はそういうエリート的な科学技術者、それが活躍するために必要な予算を、私達の生活費の中から、それを削って出費する余裕、あるいはその気持ちが十分できているのだろうか。そういうことを考えるのに、実はYouTubeで気楽に、日本は再軍備すべきだ、これは国際常識だというふうに言っている人たちは、その軍備を整えるために、日本がどれだけ財政出動しなければならないのかということがわかっていない。そもそも国民の科学的なリテラシーがどれ程高くなっていなければいけないのか、そういうことがわかっていない。「基本的に核武装をすべきである。それは国の外交において一人前の顔をするための方法である。」そういう論理それ自身は非常に簡明でわかりやすいですけれど、それをどのように準備するのか、ということについての戦略論がないですね。このような議論を聞いていると、インパール大作戦という馬鹿げた作戦を立案し、それを断固として遂行しようとした帝国陸軍、その参謀たちのことが頭をよぎります。

 何か日本人は、無謀な作戦を強行するときに、それに反対する議論に対して、「臆したか」というような言葉で片付けていたみたいですね。「それはお前が臆病だから、この制す作戦ができないと思うのだ。日本の魂、力強さを信じていれば、何事も困難を乗り越えることができる。」そんなこと作戦の本部で言いますかね。作戦というのは、ありとあらゆる場面を想定し、そしてそれがどんなにうまくいかない場合でも、最低限この目標は達成できる、というようなことをきちっと計算して、計算するというのは数学的な計算というだけではないですね、もっと複雑なシミュレーションでありますが、それをして初めて立案できるものであるのですが、それをたった一言、反対意見に対して、「臆したか」、というような議論で済ませたというのは、本当に単純な頭脳というか、はっきり言えば頭が悪い、よく言えば勇気がある、そういう勇気というのは蛮勇といって、本当の勇気ではないはずなのですが、そういうものが勢いを持つ社会というのは、私は非常に危険で個人的には好きになれません。

 元気がいい意見だけが通るというのではなく、静かな知性の意見、それにみんなが耳を傾ける、そういう知的な日本でありたいというふうに思います。もし、日本が再軍備すべきである、これは容易なことではないと思いますけれども、もし仮にアメリカが日本の再軍備に賛成したとして、それはありえないと思いますが、そして持っているテクノロジーの一部を日本に供与する、ということをやったとして、果たして日本が再び世界の最先端の核軍備を持つために、国民1人当たりいくら負担しなければいけないのか、国民1人当たりいくら勉強しなければならないのか、核エネルギーに1個取ってみても、それは決してやさしい学問ではない、それを、核弾頭という形で実装するのに、どれ程の時間がかかるか、単なる核爆発とは桁が違うわけですね。そういうことを、人々が考える知的な余裕、あるいは余裕というより知的な能力、もっと明白に言った方がいいですね、そういう知的な能力を持たない限り、私達は核武装できるはずがない。核武装をするその費用をかける代わりに、それを経済活動に回す方が得だ、というふうに戦後の日本の官僚や、戦後の政治をリードした自民党の首脳が選んだ選択というのは、確かに敗北主義的だ、という非難はあるかもしれませんけれども、実は多くの日本人を表面的には幸せにしてきたんだ、ということを私達は忘れてはいけない、と私は思うのですけど、いかがでしょうか。

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