長岡亮介のよもやま話233「会話重視の?今時の英語教育」

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 実用性という問題に関連して、今最も若い人の間で語られる話題は、英語の学習に関してではないかと思います。英語やって何になるんだと。英語を通じて世界の人々とのコミュニケーションをとる。場合によってはビジネスに利用する。そういうことが大切ではないか。そういう実用的な価値のある英語教育がなされるべきであるということ。これを文部行政のトップの方でも、そんなことを言うようになってきています。「使える英語、これが大切だ。」使えない英語を教えることは馬鹿げていますよね。それは私に言わせれば、英語だけではなくて、使えないドイツ語、使えないフランス語、使えないロシア語、使えない中国語、どれを教えることでも意味がないと思います。語学の勉強というのは使えてこそ意味がある。これは間違いありません。

 しかし、以前、実用性に関する問題についてお話したときもそうでしたが、“使える”という言葉を平たく理解すべきではない。“使える”という言葉にも、いろいろな階層というのでしょうか、レベルの違いというのはあるわけですね。多くの人は、喋る言葉でコミュニケーションができる。それでもって“使える”という言葉を使っているのかもしれませんが、日本語の場合まさにそうですが、日本語として特に今若い人々あるいは日本に働きに来ている外国の人々が喋る日本語を聞くと、私は国外から来ている人がそういう片言の日本語を喋ると、「ずいぶん日本語上手ですね。何年日本で暮らしていますか」というような質問をすることで、彼らを激励したいという気持ちになる人間でありますが、そういう人たちの日本語が本当に素晴らしい日本語であるかというと、ほとんどとんでもないですね。日本人もそういうレベルの日本語を平気で喋っています。若い人の日本語はもう聞くに耐えないレベルですね。でも、いわゆる日常会話、コミュニケーションを取るというレベルでは、それでも済む。それは、誠に事実であります。

 日本語の勉強に来た外国人が、夏目漱石とか樋口一葉とかの勉強をしようとして日本に来ている人が、日本人の使っている日本語とそのあまりにも違いに当然驚くと思いますが、そういう外国の留学生が、「超マジ」「むかつく」とか、そういうような日本語を、もっと訳のわかんないのは、「やばい、やばい、これやばい美味しいよ」って、もう全く私にとって意味のわからない、外国語で喋ってもらった方がずっと意味が通じるとそういうふうに思うような日本語に出くわすことは、少なくありません。英語でもそうでありまして、日常生活で使われている英語、あるいはEメールで使われる英語、それは簡単な事務連絡のレベルで、心のこもったメッセージというわけではないわけですね。今では例えばお悔やみの手紙を書くのも弔電というのがあって、「弔電のexample弔電3番の例でやってください」と、こんなふうにして弔電を送る人が少なくないと思いますが、心のこもってないお悔やみほど虚しいものはないと思います。つまり、心のこもった物を送るという、もう習慣がない。心を込めた表現をすることができない。これがチャットアプリなんかでスタンプと言われるものがもてはやされている理由なんだと思います。

 日本人もほとんど日本語表現ができなくなっている。そんなもんだと思うんです。そして、いわゆる日常生活で必要となるような役立つ日本語のレベル、外国語でも全く同じですけど、要するに大衆が使う言語というのは、そのようなものでしかない。しかしながら、例えば非常に難しいビジネスを成立させるとき、そのビジネスのRiskとProfit、それをどのような観点からどのように見積もるか、その数学的な妥当性と経済的な動向、様々なものを要因に入れてまとめ上げるときに、お互いにとって合理性のある判断であるとなることが重要で、それを気楽にWin-Winなんていう言葉で言う人がいますが、そんな易しいもんではない。ほとんどWinかLoose。これをやったら、ひょっとすると自分の会社は負け犬になってしまうかもしれない。そういう厳しい選択をしてこそ、活路が開かれる。まさに自分の死を覚悟して活路を開く。こういうのがビジネスの世界なんだと思うんです。

 日本のもう本当に大企業、大企業中の大企業と言われてきた電機メーカー、いわゆる電気といっても弱電というんではない強電、発電を含む基幹部門を背負ってきた企業が突然経営がおかしくなるというのも、あるアメリカとの重要な契約、それでそれを契機として会社全体が傾く。そういう運命をたどっているわけでありますが、その契約を結んだ当時のことを考えれば、決して不合理な契約であったというふうに断ずることはできないと思いますが、しかし、やはり時代を見る眼差しに関して、ある種の甘さがあったことは事実であるわけですね。世の中の長期的な動きを読む力は、その経営陣にはなかった、あるいは経営陣がそのような責任を取るというだけの腹をくくっている人でなかった。要するにサラリーマン社長であったということだと思うんです。日本の資本主義も成熟してきて、大企業は、みんないわゆるサラリーマン病というものに侵されてきて、管理職あるいは経営者といえども所詮は雇われサラリーマンであるという体質がある。

 有名な自動車会社、日産が破綻して、そこにルノーの会社で大した役職でもない人間が派遣されてきた。しかし、彼の率いた革命によって一気に蘇る。会社自身は持っている力は極めて高かったですね。しかし経営陣が無責任で、改革というものに対して常に足を引っ張るっていうことしかしなかった。その体質にメスを入れたというだけで経営がプラスに好転するという、そういう世界があったということも、皆さんよく御存じの話だと思います。ついでに、最後にその経営者が自分の利益をごまかしてトンズラしたという、とんでもない破廉恥漢であったということも、また有名な話であります。そういうような破廉恥漢のレベルでさえない日本の経営陣というのは猛省をしなければならない、と私は思います。ともかく、私が申し上げたいことは、例えば、そのビジネスの世界で必要になる英語力は、流暢に喋ることが大切なのではなくて、自分たちの考えをきちっと述べ、相手の考えをきちっと聞く。そのことが非常に大切であるのに、どうしても流暢に喋るということが何より大切だと思ってしまう。流暢に喋れることはとても大切ですが、流暢に喋っても内容が無いような本当の馬鹿馬鹿しい口先だけの会話、そうなったら相手から馬鹿にされるだけですね。英語一つとってみても役立つ英語Business Englishとかいう人がいるんですが、馬鹿げた話で、ビジネスだけに特化した英語があるわけでは決してありません。

 全ての場面で役立つ英語、人を感動させる英語語、人の気持ちを揺り動かす英語、それを喋ることができるためには、人を感動させる日本語ができなければ話になりません。結局、英語の力ではないんですね。言語のもつ力、その言語の持つ力を十分に身に付けるには、英語のトレーニングも必要でしょうけれど、日本語のトレーニングはそれ以上に必要だと思うんですね。多くの文章を読むこと、多くの歌を読むこと、多くの詩を読むこと。これがとても大切であると同時に、近代の自然科学をベースとした近代文明においては、科学的な思考力が決定的に重要な役割を果たすということです。「日本の英語教育のレベルが低いから、皆さん英語が喋れるようにならないんですよ。正しい英語教育を受ければ、誰でも喋れるようになるんですよ。」こういう売らんかなの宣伝文句が今巷に溢れていますね。しかし、そんな英語はいくら身に付けても、皆さんの収入を1円たりとも上げることはない。そんな英語は本当に必要ないんですね。

 京都のタクシー会社では外国人に対するサービスとして、京都のお寺の案内に関する基本的な英語に関しては、かなりのレベルまでみんな達しています。そういう英語ができるようになったからといってタクシーの運転手の賃金が上がったという話はあまり聞きません。でも、外国から来たお客さんにとって、英語ができるタクシーの運転手さんは頼もしいドライバーですよね。それはサービスとしてはとても大切なことだと思います。しかし、タクシーの運転手さんは、その運転業務を離れて、シェイクスピアの世界に浸るとか、T・S・エリオットの世界に浸るとか、そういうことはまずないのではないかと思うんですね。あるいはTimesを毎日読むというようなこともないんじゃないかと思うんです。

 これからの時代、本当に必要なのは、シェイクスピアのような古典についての教養、あるいはT・Sエリオットのような現代作家についての教養、その他にTimesとか、あるいはFinancial Timesもいいですけれども、そういう海外の本当にジャーナリズムらしいジャーナリズム、日本のジャーナリズムはジャーナリズムというよりは広告宣伝誌のようになってしまっていますけど、そういう政府に対して批判的な記事を堂々と載せるようなジャーナリズムの情報発信をきちっと受け止めることのできるような力、それが必要であり、決して英語だけに限るわけではありません。これからの時代、中国語やロシア語の重要性はますます増すでしょう。フランス語やドイツ語もとても大切だと思います。

 日本ではどうわけかわかりませんが、公共放送では各国の言葉のいわゆる学習のための放送はやっていますけど、英語に関しては格段に時間数が多い。時間数が多いんですけれど、例えばイタリア語、あるいはスペイン語、ポルトガル語、その授業と比べて、英語教育の甚だしく異なっているのは、文法に関するレクチャーがほとんどないっていうことですね。あるいはそのレッスンがないっていうことです。他の外国語では必ず文法的な説明が伴うのに、英語教育に関してはそれがない。このことは、実は今の中学校高等学校における英語に関しても同様の傾向があるのではないかと思うと、私は非常に寒々しい思いを持ちます。本当に実用的なものというものが、明日からすぐに役に立つものというような、安っぽい意味に解釈されてるような気がして仕方がないのです。

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