長岡亮介のよもやま話232「失われていく配慮の気持ち」

*** コメント入力欄が文章の最後にあります。ぜひご感想を! ***

 最近の日本の傾向を見て、少し昔と違ってきているのではないかと思うことがあります。それは、一言で言えば、みんなが「自分が人に対して親切である」ということを、売り物にしているというか、親切であるということを大げさに言えば誇らしく思っているというのでしょうか。うまく的確に表現できないんですが、人に対して親切にする、あるいはもっと的確な言葉で言えば、丁寧な対応をする。一時流行った言葉を使えば、本当の意味での“おもてなし”の精神を発揮するということ。これは、日本の文化の中でずっと重要視されてきたものだと思うんです。「自分がやってあげたんだ」とか、「こういうふうな成果を上げたんだ。だからあなたも嬉しいでしょう」と、相手が喜ぶであろうことを自分がして、それを相手に喜んでもらうということ。これを露骨に相手に要求する。これははしたないことである。ひっそりとやって、そのことが相手に気がついてくれればそれでいいじゃないか。そういう鬱陶しいと言えば鬱陶しい、面倒くさいといえば面倒くさい。そういう言い方をする人もいるかもしれませんが、非常に間接的な行為の伝達が、日本文化の中でとても大切にされてきたのではないか、と私は思います。

 茶道の心というのは、まさにその一点に貫かれておりまして、こういうことをやってあげているということ、それを相手に知られないように細やかな心遣いをする。その一点に尽きているんですね。こんなにまであなたのためにしてあげているんだというふうに、もし茶道が行われていたら、この茶道の文化というのは日本の恥と言ってもいいようなものではないか、と私は思います。最近、何か人間と人間との関係が、日本的な間接的な方法で伝わらなくなってきているということなのかもしれませんが、相手をdisturbする。相手に今連絡をしたら迷惑がかかる。そういう状況であるにもかかわらず、相手に「こういう良いことがあったからね。もうじききっと良い知らせが届くと思うよ。」こういうようなことを平気で言う。そういう文化に急速に変化してきたように思いますね。もちろん、ある意味では、貴族のお茶の文化のようなものは、貴族とかあるいは高級な武士とかの特権階級の文化であって、庶民あるいは農民という人たちが生きていく上でそういう文化を大切にしてきたと言うのではないのかもしれない。

 私はそういう歴史についてきちっと調べているわけではありませんからわかりませんけれども、ある意味で日本の文化がみんな大衆化しつつある。大衆のやり方が一般的な基準になってきているということは、疑いないように思います。このように、人と人との関係を心の中にひっそりと置いておいて、そして相手の事を思いやる。そういう日本文化の繊細な思いやり、これがもしこのままなくなっていくんだとすれば、それはちょっと寂しいことではないでしょうか。ちょっと今日は、消極的な元気のない意見になりました。

Powered by Notta.ai

コメント

タイトルとURLをコピーしました