長岡亮介のよもやま話228「ことばの難しさの究極にあるもの」

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 近頃、年を取ってきたことの証かと思うのですが、最近の若い人たちが一般に使う表現が、気になって仕方がありません。若い人々が、例えば会社から出るとき、お互いに職種の上下関係なく「お疲れ様です」というふうに返事をする。お別れのときもさようならという代わりに「お疲れ様です。」そういうふうに言うらしいですね。「お疲れでした」っていうのは、「大変な山道を歩いて私の家まで来てくださって、それはそれはお疲れさんのことでしょう」というような表現が基になったものだと思いますが、今日一日を過ごしていたことに対して、「お疲れ様でした」というのは、そういうねぎらいと感謝の言葉なんでしょうか。おそらくそういうねぎらいや感謝の気持ちではなく、さようならという程度の意味で気楽に使っているんだと思うんです。元々「さようなら」という言葉でも、本当に気楽に使う言葉ではなく、さようならは、「これにて失礼つかまつる」というような言葉の短縮形で、元々の意味は全く違っていたのではないかと思います。ですから、現代の言葉遣いが、それだけがおかしいと言っているわけではなく、やはり言葉というのは、その意味を考えずに使うというところに大きな特徴があって、会話言葉というのは、いくら流暢になっても、所詮会話言葉でしかないという重要な弱点を抱えているんだと思うんです。

 前回だか前々回だか(よもやま話226「言論の自由の本義」)で述べましたが、「日本語は難しい」というような言葉が日本語の日常会話に溢れていますが、日本語が難しいわけではない。外国語だってその人たちにとってはもっと難しいはずでありまして、あらゆる言語は難しい。それは言語という人工的な知的装置、これを人類が発明し、その微妙な使い方によって、膨大な情報を管理することができるようになった、いわば先端的な道具ですね。それを使いこなすのは難しいに決まっていると私は思うんです。ですから、私達は、言語の問題についてもっともっと思慮深く、慎重にならなければならない。例えばお母さんが子どもに向かって叱るときに、「もう何回も言ったでしょう」というような言い方というのは、ついしてしまっているんだと思いますが、1回言ったら相手に伝わるということを前提にしているんですね。それはそもそも誤りで、「言葉で言ったからといって、相手の心に届くわけではない」という当たり前の前提条件に振り返れば、「あなたに対しては、何回も何回も同じことを、繰り返し繰り返し言わないと心に入っていかないのはなぜかしら」というような問いを、お母さんが子供と一緒に考えたら、とても知的な家庭になって、お母さんも子供も幸せになると思うのですが、いかがでしょうか。

 言葉で注意するというのは、言った方が注意した気になるという、一種の怠惰、傲慢なんだと思います。言葉で喋っただけで何かが実現できるならば、こんな楽なことはない。私達が平和!とっていうふうに叫ぶ。平和の大切さ、こういうのを叫ぶだけで平和が実現できるんだったら、こんな簡単なことはない。しかしながら、現実の政治を見てみると、平和を実現するために血を流さなければならないという人類の逆説的な、まるで矛盾したとしか言いようのない、現実の姿を目の当たりにするわけですね。そのときに、戦争だけが解決の最終手段だとすれば、軍備を増強すれば、それによって戦争が有利に運ぶことができ、自分が勝者になるのかというと、現代はそれほど単純でない。軍事力の大きい国が軍事力の弱い国に負ける。これが20世紀の教訓として残ることであったと思います。つまり、決定的に重要なのは、軍事的な力の差ではないということですね。もっともっと広い外交を含む大きな国際戦略の中にあって、軍事は一つの要因でしかないということです。

 テレビなどで、つい最近まで制服の自衛官だった人が、その幹部だったんでしょう、したり顔に作戦を語っているのを聞くと、私はちょっと気分が悪くなります。それはその人たちが、要するに戦争というものをそのようなものとしてしか捉えていなかったという現実を、目の当たりにさせられるような気持ちになるからです。ただ一方で、軍国主義反対、戦争反対と叫ぶ人たちの中に、実はそういう叫びの中にあっても、軍隊どうしの非常に残酷な、あるいは残忍な殺戮行為が進行していくということ。その進行を平和を願うだけでは止めることができないという事実。これも踏まえなければいけないと思うんですね。私達は、戦争のような問題を語るときも、このように戦争の専門家も戦争のアマチュアも言葉で語る。

 しかし、「言葉で語り切れることはほんのわずかでしかないということを前提に、議論をしなければいけない」ということを、みんな忘れているのではないかと私は気になります。私達は、言葉を持つことの限界で、それが何に由来するのか。それはおそらく私は、人類が言葉を発見したときに、人類が大きく失ったもの。それを私達が忘れているのではないかという気がするのです。言葉を持ったときに、私達が失ったものは何か、それは言葉によらない表現、あるいは言葉を使わない伝承ですね。言葉で表現することが困難なものについての私達が持っている感受性、そういうものを私達は失ってきた。

 最近の若い人に使う言葉に「空気を読む」っていう私の大嫌いな言葉がありますが、場の雰囲気を感じ取って、その勝つ方の側に自分を位置づけようと、戦々恐々としている。言葉というものがどれほど大切なものであるか、そしてその大切である言葉をどの場面できちっと使わないといけないのかということについての教育を受けていない。業界用語が使えるようになって、一人前のビジネスマンになったような気分になっている。非常に軽佻浮薄というんでしょうか。それが若い人たちの中に蔓延していることに対して、残念に思っているわけです。

コメント

  1. Leo.橋本 より:

    こんばんわ。
    今回のよもやま話には、音声がありませんね。
    敢えて音声を付けられていないのは、「言葉で語り切れることはほんのわずかでしかない」という主張の強調であるように思いました。
    これは私の単なる思い違いであるような気もしています。
    これが言葉の難しさ、でしょうか。

    • takada より:

      差し替えをしたのですが、エラーになっていました。アップしましたので、音声もぜひご視聴ください。

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