長岡亮介のよもやま話226「言論の自由の本義」

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 最近の日本語で気がつく新しい兆候、と言ってももう半世紀以上前に始まっている兆候ですが、それが近年勢いを増してきているということについてお話したいと思います。

 それは、私達の心の内の状況を語るのに、身体的な、と言えば聞こえはいいかもしれませんが、生理的なと言った方がいい表現が多く使われるようになってきたことですね。これは既に、もう半世紀も前に始まっていた新しい傾向であると思いますが、それがどんどん激しくなってきている。表現が単純化する方向に向かうという言語の持つ本質的な性質に基づいているのかもしれませんが、昔からよく人に対して「イライラする」ということを、「むかつく」というような表現で言ったことがあります。むかつく奴だと。自分の嘔吐感の表れを、嘔吐感というのは普通は内臓に感じるもんだと思いますが、私も二日酔いのときによく経験がありますが、それを他人に対する自分の心の動きに対して使う。ある意味で、嘔吐っていうのは、自分ではどうにもならない生理的な感覚でありますから、それを応用するというのは、とてもその精神状況を表すのに良い表現といか、うまい応用であると思います。決して「むかつく奴だ」という表現がふさわしい日本語だというわけではなく、現代において、ある意味で使うことが適当であるような時代を迎えている現代的な表現であると思います。

 一昔前であれば、直接の生理的な表現は避けて、私の子供のころであれば、「あれは鬱陶しいやつだ」というような言い方だと思いますね。自分の直接の嘔吐感で表現するのではなく、天気のジメジメした気持ちの悪さという、いわば肌触り感覚というのでしょうか、それに例えて言っていたと思うんです。それが生理的な感覚になってきた。そして、現代ではそれがどのように言われているでしょうか、私は現代の若者の言葉遣いについてそれほどきちっと調べているわけではないので具体的なことは申せませんが、何か私達の若い頃に比べると、さらにその生理現象化というか、そういう表現の単純化、あるいは先鋭化と言ってもいいかもしれません。それが進んでいるような気がいたします。

 そのように、言葉の表現がある意味で現代化する。イコール単純化する。イコール唯物論化する、というんでしょうか、唯物論というよりは何か「非常に物質的な現象でもって全部説明する」というような現代文化の特徴が、そういう表現に表れているんだと思いますが、言葉が単純になることによって、人に訴える力は時に強くなる。人に対する影響力というのが強くなる。最近はインフルエンサーというような、インフルエンザのような言葉が流行っているようですね。その影響を与える人というのが、立派な言説を持って人々の心を突き動かすというのではなく、人々の心の痛いところ、あるいはうずくところを突いて、人々に影響を与えるということのようですが、その人たちの言葉遣いを聞いていると、とても激しい強い心の動きを表現しているようでいて、やはりすごく単純ではないかと感ずることが少なくありません。「言葉の暴力」というような表現があります。言葉には暴力的な影響があると。それはまさしくその通りであると思いますね。私は、そのように流行言葉を使って、ある種の言説を「それはアウトだよ」というふうにして禁ずる方が、言葉の暴力ではないかと感ずることが少なくありません。むしろ、言葉というのは、暴力という非常に単純な実力行使の前に、じっと考える。持続的な思索の結果として絞り出すものであるから、とても貴重なものだと思うんです。その言葉が暴力のように使われる。バーカーとか、ダサイとか。私のころはマジという言葉はありませんでしたけど、最近はよく使われますね。

 言葉と言えないような単純な表現が人々の心を動かし、ときに人々を傷つけるために使われる。それも意図して傷つけるために使われる。これは本当に情けないことですね。不動産の販売などでは、最近はWebサイトが開かれていて、観覧した人、見に行った人たちのモデルルームに対する意見とかを自由に書き込むページがあるそうですが、私はそういうものをたまたま知って見たときに、とても嫌な感じがしました。それは、そこで使われている言葉が本当に単純で、あまりにも非論理的で、それでいて人々を突き動かすような、いわばアジテーションとしての効果がある言葉の羅列で、しかもそれが、自分の心の内なる感情を精密に描写したものというのではなく、明らかに相手を傷つけるということを目的とし、もっと言えば、相手の商品が少しでも売れ残るように、あたかもの資本主義的な広告の一種、広告という言葉を使うとすれば、普通は売れようとするのが広告ですが、反広告ですね、売れないように広告する。その悪口を載せることによって、相手の営業を妨害する。これが、私から見ると明らかに専門業者によって行われている。あるいは専門業者が、自分たちが表に出ていくということを心配して、有料で第三者にお願いしている。最近はそういうのを請け負う仕事が、インフルエンサーというのでしょうか、そういう名前を頂戴する。そしてそのことによって自分のinfluence businessが拡大するということを狙ってか、どんどんどんどん拡大している。そういう状況を見て、しかもそれが匿名でなされている。

 ある意見を批判するというときに、自分の居場所がどこであるか、どういう人間であるかというのを隠して、自分の意見らしきものを言う。というより正確には反広告、非常にえげつない儲け話を、自分を隠して、相手を妨害するときには、それを他の利害関係者の利益になるために、そういう言葉を使う。そういうことが横行している現代にあって、それを抹殺するということが大事なのではなく、やはり「それに影響されないだけの理解力を人々が持つ」ということが、とても大切なんだと私は思うんですね。言葉を封殺するということによって、なかったことにするというよりは、やはりそういうものに影響されない、人々が深い見識を持って情報に当たるという態度が一番大切なんだと思うのですが、残念ながら世の中の動きはそれとは違い、表面的な、あるいは表層的な、本当にくだらない、しかも自分の利益のために、相手の不利益のために意図的に発信される。そういう虚偽情報のようなものと、本当に重要な情報とが、混同されるのは非常にまずいことではないかと思うんですね。

 私は、こういう時代だからこそ、むしろ本当に大切な言論の意味について、考えたい。昔のような暴力で、あるいは軍事的な力で相手を黙らせるということが幅を利かせるのではなく、言論において、堂々と戦うということが大事だと思うんです。言論を封殺するという言論、それが本当の意味での言論の軍事力だと思いますが、そういうものを行使するような勢力に皆さんがくみすることのないように、ぜひ気をつけてください。言論の自由は極めて大切なものであり、これを少しでも抑圧することは、本当はあってはならないことであると思いますが、その言論の自由が脅かされる風潮、それがますます強まっていることに対して、私達は最大限の注意と関心を払っていかなければならない。もっと強い言葉で言えば、警戒心を持たなければならない。そのためにも、私達はできるだけ美しい言葉、正しい言葉、伝統的な表現、それを大切にする。そういう人でなければならないと考えます。

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