長岡亮介のよもやま話224「遊びの本質?」

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 私が学校教育について否定的なことを言いますと、私自身が悲惨な学校生活を送ってきたと思う人もいるかもしれませんけれど、私自身は小学校のときはとにかく楽しくて仕方がなかった。ちょっと若干の例外はありますけれども、特に低学年の時代は、家にいるよりも学校に行きたい。朝開けたら学校に行くのは楽しみで、ご飯もおちおちと食べておれないと思うくらい学校が大好きでした。多くの子供にとって、友達と遊ぶということがどんな意味を持っているのかと、そんなことは全く考えたことがありませんでしたけど、友達と一緒に何かやっていること、学校でそういう冬活動すること、それが好きでした。年を取ってみて、何でそんなことが楽しかったのかと思い出そうとしても、なかなか思い出せない。友達と過ごす時間が楽しかった。なぜ楽しかったのか、よくわからない。今でも楽しかったということの感想を持つことはありますけども、それは過ごした時間の中で交わされた会話の中で、自分が気づかなかったことに新しく気づくことができた気づき、あるいは理解認識の充実、経験ですね。それを見てとても良かったっていうふうに思いますけど。そういう中身の充実とは全く無関係に、小学生時代の遊んだ生活が楽しかったんだと思います。

 “遊び”のある意味で本質は、その楽しさにあるんだと思うんです。なぜ楽しいのかわからないけど、楽しい。子供は遊びが大好きです。みんな友達と遊ぼう遊ぼうって言います。でも遊ぶということの定義はよくわかっていません。私自身は決まりごとの複雑な遊び、例えば“缶蹴り”とかなんかはそう必ずしも好きありませんでした。“ダルマさんが転んだ”とかって言いましたけど、チラ見しているんではないかとか、ずるしてるんではないかとか、そういうことを言い出すとちょっと切りがないところがあって、ややこしいんですね。それに比べると“メンコ”って東京ではいいますが、私の育った長野では“パッチン”と言っていましたが、パッチンは本当に大好きでありました。“パッチン”の他に、地面に太い釘を刺してくる。そして自分の線を延長して他人の線を引く位置を妨害する。この遊びもとても大好きでした。そんなものに毎日本当に夢中になっておりました。そういうことを考慮して、今の子供たちはそういう楽しい時間を持っているのかと心配になることがあります。遊びとは何か、これを定義することが私達大人のとても大切な責任だと思っているんですが、私が子供だった頃、遊びというのは子供たち自身が決めて、これが遊びだと思ってだけで、遊びのための遊びというか、「遊びとは、子供の有効な時間の活用方法である」とか、そういうんじゃないんですね。ただ単なる“あそび”なんです。要するに英語のplayっていう言葉には、例えばネジのあそびとかクギのあそびとか、そういうあそびがありますね。つまりきちっとした設計でぴしっと作ると、ちょっとした衝撃に対して弱くなる。そこでわざと緩みを残しておく。それをplayって言いますが、まさにそういうものだったわけです。

 今の子供たちを見ていると、“あそび”がない。何時から何時まで集まろうと、集まる集合時間まで携帯電話で連絡する。中にLINEで連絡するとかって言い合ってるような人たちもいて、本当にせせこましい世の中になったなって思いますけれど、遊びまで管理されてしまっている。遊びの時間、そういうふうになったときに、遊びというのは遊びになるんでしょうか。私は、「管理された遊び」というのはもはや遊びではなくて、「強制労働」であると思うんです。ちょうど電車の中で夢中になって携帯電話ゲームに没頭している大人がいますけれども、そういうふうに遊びを知らない子供の成れの果てをそこに見るような気がしています。学校生活時代は、遊びに満ちているからとても楽しい。中学や高等学校に入り、時間が決められた制約時間の中で何かをやらされるっていうことになると、途端に退屈になる。非常に不思議なことです。中学や高校に行っても、自分なりの時間の過ごし方がきちっと確保されるべきなんではないでしょうか。つまらない先生の授業は聞かなくていい。これは基本的人権だと思うのですが、いかがでしょうか。

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