長岡亮介のよもやま話220「ハンドルの手は10時10分⁇」

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 最近、アメリカのテレビドラマを結構見る機会が増えているんですね。それは、日本のテレビドラマよりも展開が面白くて知的であるからです。日本のテレビドラマもかつてはとても面白かったと思うんですが、最近は私はめっきり見なくなりました。残念なことだと思っています。もっと日本のテレビが面白くなってほしいと願う視聴者の1人ですが、コマーシャルがうるさくなっている割に中身がどんどん薄くなっているという印象があり、日本の場合は映画の方がずっとまともだなと思うんですが、やはり大衆的な芸能という意味で、テレビの方が、言ってみれば気楽に見ることができる。そういう意味では、外国のTVドラマっていうのはなかなかいいわけです。BBCが作ったドラマで、特にいいなと思うのは、日本では、刑事モースとか、あるいは刑事フォイルと訳されて紹介されていますが、原題は「Foyle’s War」フォイルの戦いというもので、もっと挑発的で面白く、中身も面白いんですね。わくわくする、こういう刑事物とか探偵物っていうのは、イギリスが最も得意なところかもしれません。日本でも公共放送の海外ドラマという枠で、いろんな刑事物は紹介されていたのも懐かしい過去の話ですね。

 刑事物だけじゃなくて、いわゆる病院もの、あるいは救急医療のものですね。アメリカのドラマではそれが得意です。その中には非常に爆発的なベストセラーになったものもある。ベストセラーって言い方は番組では正しくないかもしれませんね。要するに、非常人気があって、長く配信が続けられたというドラマであります。何シーズンも続くものでありますね。その他にあるものとしては、アメリカの特徴は、刑事とか警察あるいは消防というふうに世の中になくてはならない存在でありながら、いわば腐敗が進んでしまう組織の中にあって、そういう腐敗を取り上げる。それを主題とする映画。なかなか日本ではお役所体質で考えられないところでありますけれども、警察の内部がいかに腐っていくか、その腐っていくことを利用して出世していくやつもいれば、それをあえて問題とし、それに逆らって自分の道を目指す、そういう人もいる。アメリカ的な生き方を表すと同時に、アメリカ社会の中にある人種間の対立、あるいは貧富の差の対立、そういうものを背景として、言ってみれば警察とか権力とかに対する一般庶民の不満のガス抜きに使われているんじゃないか、というふうに見たりすることもありますが、結構やっぱりそれはそれとしては面白い。

 我が国は、警察が一枚岩で、その中で自分たちの秘密を、あるいは自分たちの失敗を内部で隠蔽しようとする。こういう体質があるということは、国民はほとんど知らないと思うのですが、アメリカではテレビドラマなんかを通じて、それが当たり前のことであるというふうに語られているっていう点で、アメリカの刑事ドラマも私は楽しく見るんですが、最近ものすごいロングランで続いている刑事部のドラマをもう一度見始めています。それは「刑事ボッシュ」という名前なんですが、ボッシュっていうといかにもドイツ風の名前なんですが、その非常に信念の人と言っていい刑事が、その信念ゆえにぶきっちょに戦っていく。それを英雄的に扱っているという意味では話は単純なのですが、中に出てくる会話がいろいろと面白い。娘にお父さんがドライビングを教えるときに、車に手を置きますね。「手は10時10分」という表現、それがアメリカにもあるということを知って、とても面白いと思いました。

 日本でも「手は10時10分に置く」というふうな教え方があるのではないでしょうか。時計を使ったそのような表現というのは、非常に端的でわかりやすいという特徴がありますが、小学校の時計算を出せば明らかなことですけど、手が10時10分というのは、あり得ないわけですね。ありえないっていうのは奇妙な話ですが、要するに10時10分というのは、両手をちょうど12時の方向10時になる位置まで左手を、右手を10分のところになるところまで右手を落とす。そういうことで、右手と左手が20分の間隔、20分の間隔というのは1時間の3分の1だから120度ですね。その120度を、頂点の向きからそれぞれ60度ずつずらした位置に置くんだということなんですが、10時10分がそのような状況になっているかっていうと、本当はそうではないわけですね。10時10分という教え方は、ある意味で短針は10時にあり、長針は10分のところにあるということですから、時計としてはあり得ないわけです。というのも10時になったときに短針が10を指し、長針が0時を指している。そういう状態から10分経つと、長針は10分の位置にいきますが、短針はその間に、1時間の6分の1だけさらに進んでいるわけで、10時の位置にはもはやないわけです。時計の針が、言ってみれば、「9時と10時の間あるいは10時と11時の間で、ちょうど12時の方向から等しい角度だけ離れているのは、何時何分でしょう」というのは小学校の算数の問題でよくある話でありますが、時計の針が滑らかに動くとすると、それを計算するのは、実に簡単な旅人算というんでしょうか、のような問題であるわけです。時計の長針と短針が単位時間あたりに移動する移動角度、いわゆる角速度というものが、長針の方は1時間に360度回転するのに対し、短針が1時間に30度動くということでありますから、長針と短針の角速度の比は、360対30ということで、12対1ですね。そういう比になっているわけです。そのために、長針の動きに比べれば短針の動きは止まっているようにも見えますから、10時10分という表現ができるんだと思います。

「この表現が数学的に誤っている」というふうに目クジラを立てるほど大事な問題ではないのですが、この非常に庶民的な言い方をもって物事を教える。数学的に厳密に正しいわけじゃないけれども、近似的に正しいという数学的な表現が普及しているということが面白いと思って、この話題を取り上げました。

コメント

  1. Leo.橋本 より:

    こんばんわ。
    学校の先生に勧められて、寝る前にいつも長岡先生のよもやま話しを聞いています。刑事物(かつ探偵物)のアメリカドラマに、「メンタリスト」というものがあります。機会があれば、見てみてください。
    以前、マタイ.19.24.「金持ちが天の国に入るより、ラクダが針の穴を通る方が容易い。」に言及されているのを拝聴して、このドラマを思い出しました。

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