長岡亮介のよもやま話215「論理を超えた数学的思考」

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 今回は「数学的な思考」というものを、多くの人が結構気楽に使っているんですけれど、それがどんなものであるかということについて、精密に語られることは意外に少ないかと思いますので、これをテーマとして、簡単なお話をしたいと思います。

 まず「数学的」ということを「論理的である」ということと同義であると、つまり、同じ意味であると考える人が多くいますけど、もし数学が論理に還元されるのであれば、数学という言葉の代わりに、論理学という方がより的確だということになりますね。しかし、数学は論理的でなければならないんですが、論理的な関係を探究する、あるいは純粋に論理学的な問題に関心を持つというのとはちょっと違うわけです。数学と論理学との関係は、いわば数学は、論理学を必須のツール道具として使う。論理学というよりも、学問という名前がつく前の、人々が自然にあるいは本性的に生まれたときから持っている論理に関する力、それを信じているんですね。そして、その原始的な本能ともいうべき論理性を数学は重要な武器として使う。その論理性というのは二つの側面があり、一つは、自分の証明が十分に論理的に緻密であるかどうかをチェックする。その自分を批判するための重要な道具として論理があるわけですね。そしてもう一つ、証明は相手に対して説得力を持つ。そういうために、論理的な飛躍あるいは論理的な矛盾があっては話になりません。しばしば私達が犯すのは論理的な循環ですね。Aであることを証明したいのに、長々長々とやってきたら結局Aであることを仮定していたという類の誤りですね。論理循環というのは、数学者が最も気をつけなければいけない事柄の一つです。

 このように、数学は論理を非常に大切に思っていますけれども、「数学は論理に還元されない」ということが重要なポイントで、これについてはもう何回かお話しているので、その繰り返しを最小限にするとすれば、「数学が論理学と同じでない」、あるいは「論理学に還元されない」というのは、数学においては論理的な真であっても、数学的な真とは言えない。あるいは論理的に真であっても数学的に美とは言えない。論理的に真であっても数学的に善であるとは言えない。こういう論理を超える価値観が数学にあるからです。この部分はなかなかわかってもらいづらいのですが、芸術家が作品を通じて美を探求するように、数学者も数学を通じて、数学でしか表現できない美とか善とか真とか、そういうものを表現しようとしているわけです。その数学的な真・善・美っていうのは、論理的な真・善・美には還元されない。これが重要なポイントでありますね。今日お話したいと思ったことは、「数学的な思索が、数学的な真・善・美を探求することだ」という説明は、数学を説明するのに数学的という言葉を使っていますから、論理循環をしているわけですね。ですから、数学者はこれでもって数学の説明をした、というふうに満足することはないわけです。数学者はその代わりに何をするかっていうと、具体的に数学的に面白い定義、面白い理論、面白い証明を見せることによって、「どうだ、こんなに素晴らしい世界があるではないか」と言うわけでありますが、当然数学を知らない人には、その世界を見ようと思っても見ることができない、あるいは見てもわからないわけですね。

 それは、芸術の世界でもそうで、今、クラシック音楽っていうふうに私達呼んでいるもの、クラシカルミュージックと呼ばれるものはごく最近の作品でありまして、それよりも前の音楽作品になりますと、現代人には少し理解が難しい深淵な神秘性を称えるものになりますし、また20世紀以降のいわゆる現代芸術に関しては、音楽はその一つの典型でありますが、何を聞いているのかちんぷんかんぷんであるというふうに感ずる人がいるでしょう。多くの人が興味を持っているクラシカルミュージックというのは、18世紀とか17世紀の時代の作品であることが多いわけです。一部19世紀に入っているものも多いと思いますね。20世紀の作品が大好きだという人は、やはり音楽好きと言われる人たちの間でも少ない。しばしばベストクラシックなんていうふうに銘打って売り出される。そういう作品集というのは人々にとって聞きやすい、理解しやすい、あるいは感動しやすい。そういう適当に古い音楽で構成されていることが多いわけです。美術に関しても彫刻に関しても全く同様です。

 数学に関してもそうなんですね。学校数学で扱われる数学というのは、数学の歴史的に言えば、せいぜい17世紀くらいまでの数学ですから、一部例外はあるといえばあるのですけど、基本的に非常に古典的な数学でありますから、クラシック音楽を楽しむような気持ちで数学に接していただければ、その世界の素晴らしさっていうのを感動できるはずなのですが、実はそこで数学は終わってはいないということ。特に数学者が説明する数学は20世紀21世紀の数学でありますから、その時代のものとはかけ離れているわけですね。ですから、数学者の説明を聞いてピンとこないというのは、芸術家の、実際のアクティブな芸術家の活動を聞いてピンとこないという人がいるのと、全く同じ構造ではないかと私は思います。そこで、数学というものを古典的な数学に限定する。それは学校数学の世界ですが、その世界を21世紀の私達が受け取るときに、古いものを古いまま受け取れるかっていうと、ここに文化を理解するということの非常に重要な問題が隠されているわけで、私達が古いものを古い状態でそのまま理解するということができるわけではないし、それが理想的なわけでもない。古いものを、現代の光を当てることによって、その現代の光の中に浮かび上がらせる。それがとても大切なわけですね。音楽の場合で言えば、あらゆる先端的な音楽家、演奏家あるいは指揮者、フィルハーモニー、それが試みていることは、その昔の音楽家の書いた譜面を、現代の光の中で実現するということでありましょう。だからそこにクリエイティブな面があるわけですね。創造性があるわけです。古い音楽は古い音楽のままでは古い楽譜のままなんですけど、それに新しい息吹が吹き込まれるということですね。ときには楽器そのものを新しくする。当時存在しなかった楽器を使って演奏する。こういうことも新しい試みであるわけです。

 数学も同じように、学校数学といえども、その古い数学を古いまんま教えているのではなくて、やはり現代的に洗練させ、よく言えばですね、悪く言えば教科書的にそぎ落として、教えているわけです。その教科書化するプロセスの中で、本来のクラシックの楽しみというのが奪われてしまうことがある。数学教育があまり好まれない理由は、教えられている数学があまり新鮮で生き生きしてないということに尽きるのではないか、と私自身は考えているんです。数学的な思想あるいは数学的な思索というものが、300年前にはこうであったものが、現代ではこのように解釈することができる。そしてこの現代の解釈は他にこういうような意味を持ちうる。というような数学の授業があったらいいなっていうふうに思っているわけです。数学の実力のある先生であれば、そして数学に勉強する意欲のある生徒たちであれば、そのような事業が十分可能になるはずだというふうに信じています。

 このように考えると、数学は、音楽、絵画、彫刻、建築、そういった芸術に非常に近いものだということを感じてもらえると思うのです。学問としての数学は、やはり学問としての世界を確実に持っているわけで、他の学問分野と比較して考える方がいい。学問の代表は今でも「Ph.D.」という。その言い方はDoctor of Philosophy、それをラテン語から省略したものでPh.D. Phが先に始まりますけど、PhilosophyのDoctor、哲学博士なんですね。哲学というと、皆さんはしばしば人生観、人は金儲けをすべきであるか、あるいは人に金を施して生きるべきか、そういうような処世訓を連想する人が多いと思いますが、哲学っていうのは、そのような人生いかに生きるべきか、最終的にはその問題と密接に結びつくとしても、単なる世俗的な人生訓ではないわけですね。そうではなくて、哲学というのは何かっていうと、「人々が気楽に使っている言葉、日常的に交わされる言葉、その言葉の背後にある意味、あるいはその言葉の中に無条件に暗黙のうちに前提とされている仮定を明らかにする学問」と言えば、とてもわかりやすいのではないでしょうか。

 私達は、例えば“正義”という言葉。これは子供でも使いますね。「正義の味方、鉄腕アトム」というふうに言います。でも、正義とは何か。鉄腕アトムが実現できる正義とは何か。鉄腕アトムに実現できない正義は無いのかといった問題、これを根本的に考えるとなると、なかなか難しい問題であるということがわかりますね。例えば100万馬力ってというスーパーパワーでありますが、スーパーパワーで実現できるものと、実現できないものがあるということは、高校生以上くらいの知性を持てば、もう明らかですね。正義の味方という言葉一つ取ってみても、正義はいかにして実現されうるのか。非常に難しい問題だと思います。これについてはまた別の折にお話をしたいと思いますが、そういう言葉の背景にある様々な意味、あるいは言葉を使うときに人々が暗黙の前提としてしまっている事柄、それを明るみに出すという仕事。これが哲学であるとすると、哲学の抱える領域ってのは非常に広くて、何でも哲学の題材となるということがおわかりになるでしょう。そして、古来多くの哲学者がいますけれども、その多くの哲学者は、その哲学の話題を自分の関心のある問題に限定して、語ってきたわけです。

 20世紀のある哲学者が、古代ギリシャ以降の全ての哲学はプラトンの注釈に過ぎないというふうに言ったくらい、哲学の全ての問題はもう既に古代ギリシャで提出されている。それに対して注釈をつけるということをやっているだけだ。とこういうふうに言ったわけですが、これは哲学を卑下しているわけでも、古代を賛美しているわけでもない。むしろ、哲学の新しい問題というのが容易には見つからない。そして「古い問題を、新しい角度で切るということの重要性を語ったものだ」と私は思っています。実は数学もそうなんですね。数学は、皆さんは、点とか、直線とか、あるいは線分、こんなものは当たり前の存在だと思っていらっしゃるでしょう。線分に長さがあり、図形に面積があり、空間図形には体積がある。それが当たり前だと思っていますね。しかしながら、数学者は、そもそも“線”とは何か。そもそも“長さ”とは何か。そもそも“面積”とは何か。そもそも“体積”とは何か。そういうふうに考えるわけです。そして、その問いに対して素朴な答えを考えて、その素朴な答えが通用しない反例counterexampleを探すわけです。そのことを通じて、今まで私達がつい暗黙に前提としていた、よく直感という言葉で語られますが、そのイメージ、私達が頭の中に漠然と描く表象、それの危うさを何とか厳密に乗り越えようとする。これが数学の出発点となっているということです。特に20世紀以降の現代数学はその傾向が顕著であるので、哲学的な思索に慣れていない人には、全く何を言っているんだかさっぱりわからないということにもなりかねません。

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