長岡亮介のよもやま話203「自分の主観を大切にする意味」

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 この情報化の進展する社会において特に気をつけなければいけないこと。それは言うまでもなく、情報の真贋、本物であるか偽物であるかということを常に批判的に考える。批判的に考えるということは、非難をするという意味ではない。あらゆる情報に対して、それが正しいかどうか、自分の頭で判断する。そういう批判criticを介さないといけないということだと思いますが、しかし何でもかんでも批判していても頭に入るわけではないということもまた、人間の理解の深い本質です。

 有名な言葉に、ジャズを好きになるためには、ジャズ好きの恋人を持つことだという話があります。やはり、ジャズの持っている本当の魅力にハマるとたまらないものなのだそうですが、私はジャズ好きの恋人がいなかったこともあって、未だにジャズに対していいなと思う面と、それをものすごく愛好している友人を見て、だからなんだと冷めた気持ちで見る私が言います。言いかえれば、ジャズについて本当にわかっていないと言うべきなんですね。本当にわかるためには、やっぱり惚れ抜くっていうそういうことが必要で、冷ややかに見ているだけで物事がわかるわけではないということ。本当に「恋は盲目」ではありませんけど、盲目なくらいそれにどっぷりと浸らなければ初歩的なことでさえ理解することができないという私達の持っている理性的な理解の限界、それもきちっと踏まえる必要があると思うんです。私から見ると、数学の面白さ、これはほとんど自明じゃないかと思うんですけれども、多くの人にとっては数学にどうしてそんなに面白さがあるのか、というところで踏みとどまってしまっているのでしょう。おそらくやはりどっぷりと数学に浸る。そういう経験がないと、その楽しさはわからない。そういう意味で、情報化社会の中で、氾濫する情報に振り回されている人々に、それを批判的に見ろということを形の上では言いますが、一方で、本当にわかるためには、批判的に見るというような冷静な立場でいるだけでは駄目だと。自分の身も心も投げ打つようなひたむきな姿勢で向き合うこと。それがときに大切だ。それを申し上げたい。そういうリスクを背負っているということ。現代は情報に溢れているだけに、その情報の中で、とんでもないものに引っかかると、とんでもないことになる。とんでもないことになるからといって、いつも冷ややかに批判的に見ている、あるいは斜に構えるというようなことで、現代思想が理解できるか、現代文化に触れることができるか。というと決してそんなことはないということです。

 ところで、そのような情報に溢れているからこそ、私は特に大切だと思うのは、あまり好き嫌いをせずに、多くの良い情報ソースに当たるべきだということですね。YouTubeに溢れているビデオは、ほとんどがくだらないと言ってもいいわけでありますが、芸術作品のアーカイブ中には本当に頭が下がるものがあります。日本では私がよくクラシック音楽の話、クラシカルミュージックの話するので、もう耳にタコという人もいらっしゃるかもしれませんが、日本であまりにも有名なアントニオ・ヴィヴァルディっていう作曲家がいます。しかし、その作曲家の名前は私が学生時代はほとんどの同時代の人が知っていたと思いますが、今の若い人の間ではおそらく“四季”という曲でしか知られてないではないかと思います。実はヴィヴァルディっていうのは、音楽史の中ではとても大切な人で、言ってみればその本格的なバロックの時代、バッハに始まる本当に偉大な音楽の時代とその直前の時代、それを繋ぐ位置にいるわけですね。ヴィヴァルディがいなかったら、テレマンもバッハも出てこなかったんじゃないかとそういうふうに思う。一方で、コレルリのような本当に単純な音楽からバッハなんかに直接行くはずはやっぱりないわけで、途中にヴィヴァルディが重要な存在としていたんだと思うんです。ヴィヴァルディっていう名前を知ったら“四季”だけを聞いて、この演奏が“四季”の中で一番素晴らしいというような言い方で満足するんではなくて、ヴィヴァルディの作品を多く接して欲しい。私の時代は残念ながらヴィヴァルディっていうと、「イ・ムジチ(I Musici)」音楽家たち、「イ・ムジチ」はイタリア語でthe musiciansっていうだけの話なんですけど、その「イ・ムジチ」っていう名前と一緒に“四季”がすごく流行りました。

 でも、同時に私の時代にありがたかったのは、ヴィヴァルディブームのおかげで、彼の重要な協奏曲集を知ったことである。それは当時「調和の幻想」というふうに訳されていました。とんでもない誤訳だと思います。なんでかっていうと、「調和の幻想」と訳されている元の言葉は、幻想というよりはそのインスピレーションに相当する言葉であり、調和っていうのは、イタリア語だったと思いますのでarmoniaと言ったんだと思いますが、要するにハーモニーですね。ハーモニーのインスピレーションということで、ハーモニーというのは調和という意味ももちろんありますけれども、元々は弓のツルがピンと張り詰めている状態、つまり二つの力がつり合っているということをハーモニーって言ったわけです。それが和音という意味になるわけで、ヴィヴァルディがその曲を作曲したのは、「調和の幻想」という意味では全くなく、むしろ「和音の研究」、「和音についてのインスピレーション」という趣旨だったと思うんですが、この奇妙な翻訳によって一世を風靡したと言ってもいいと思いますね。ヴィヴァルディの「調和の幻想」聞いたというのが若者の挨拶言葉になったわけです。でも今やその「調和の幻想」なる翻訳も「和音の霊感」という正しい翻訳も、いずれもあまり有名なくなってしまいました。でも私は探したらちゃんとYouTubeにはありました。たくさんあるんですね。そういうものに触れることを通じて、皆さんのヴィヴァルディ体験っていうのが広がる。“四季”を聞いて、ヴィヴァルディってつまらないっていうふうに思っている人には、ぜひ「調和の霊感」と日本で訳されているもの、かなり長いものでありますが、その協奏曲集を聞いていただきたいっていうに思います。

 バッハも、まさにヴィヴァルディ研究から、彼の音楽世界を切り開いていったんではないかとさえ私は思っています。私は音楽史について全くの素人ですから、ただそういうふうに感じているというだけであって、何の学問的な根拠があるわけではありません。私はこのように、「いわば無責任に自分の感覚で世界を理解するということが、情報化社会の中ではときに重要ではないか」ということをお話したかったわけです。今バックグラウンドでかかっているのは、まさに今話題としているヴィヴァルディの「調和の霊感」と日本で訳されている曲集の中の短い一節です。続きは、皆さんがぜひ聞いてください。

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