長岡亮介のよもやま話201「記憶・忘却・思い出」

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 今回は、今日は久しぶりに素晴らしいお天気であることもあり、私も心が少しウキウキしますので、私達の持っている「希望、思い出、そして忘却」という人間の持っている不思議な能力について考えてみたいと思います。私達は「記憶する」という素晴らしい能力を蓄えていて、私は最近記憶の量は減っているとは思わないんですが、すぐにその記憶の中から取り出す能力が著しく落ちていまして、典型的なのは固有名詞、人の名前でありますね。顔もよく覚えている、名前も覚えているはず、なのにそのときにその名前で中村くんとかっていうふうに呼び掛けようとすると、その中村が出てこない。後になってみれば何でもないんですね。そういうときに、私の師匠から秘伝を教わりまして、「その中村くんってのはどうしても出てこないというふうになってしまったんですよ」って言ったら、「長岡くん、そういうときはね、全然心配しなくていいんだ。『えー、きみ、名前なんていうんだっけ』というふうに聞くんだ」と。「中村ですって言ったら、いやいやそれはわかってんだ。そうじゃなくて中村くんの下の名前、ファーストネームは何て言うんだっけっていうふうに聞くと、例えばその中村くんが典子さんだとすると、典子ですと。そうだ、中村典子くん、典子くんって言おうと思ったんだよって、そういうふうにそこの場を取り繕えばいいんだ。」なかなか名案で、私も40代の後半ぐらいからもう30年間くらい、それを使ってきました。

 しかし、そういうこともだんだん通用しないくらい、思いだし能力、リマインド能力っていうのが衰えてくるんですね。本当に不思議なんですが、言われてみればすぐわかるのに、ぱっと出てこない。75歳になると運転免許の試験で、本当に余計なお世話というべきですが、「認知症試験」っていうのがある。その認知症試験というのは大体脈絡のないもの、ほとんどその幼稚園とか保育園の児童がやるようなものですね。絵が書いてあってその名前を覚える。その見せられた絵の中に書かれたもの、それを10分だか15分だか、時間を置いて思い出せっていう試験があるんです。実に馬鹿馬鹿しい試験で、そんなものが人間の知的能力を測るのに何も役に立たないと思うのですけれど、一方でそのような脈絡のないものでも記憶できるという若い時代と、脈絡をつけないとなかなか記憶の中から芋づる式に出てこない。そういう加齢に伴うリマインド機能の衰えを測るには、一つの良い基準なのかもしれないと思います。しかし、それが認知症の試験として適切であるかどうかについては、大いに議論すべきところでありまして、このような試験を開発した長谷川先生という認知症の専門医の方が認知症にかかられたときに、自分がその認知症のパイオニアとして作った制度に対して、自分はその制度に当てはめられるのが嫌だと抵抗していらっしゃったのは、NHKのドキュメンタリーで放映され、多くの人と共感を呼びました。

 ある意味で認知症というのは、人間としての基本的な機能を失いつつあるということの証でもあるんですが、認知症試験に引っ掛かるということは、人間としての基本機能、人間としての知的な基本機能というのは、私は“尊厳”であると思いますが、その尊厳機能が失われているわけでも何でもない。ただし、リマインド機能は衰えてきているということ。「今日は何曜日だったっけ」、「今日は何日だったっけ」っていうのがぱっと言えなくなる。それは学校に行っているときには毎週、今日は月曜日、今日は火曜日、明日水曜日、それによって時間割が変わる。時間割が変われば、ランドセルに入れる教科書とかノートも変わる。忘れ物が嫌だという私の知人の中には、全てのものをランドセルに入れて持って行くという生活を送っていたようですが、それも実に馬鹿馬鹿しいことで、やはり運搬の効率性を考えれば、その日その日に応じて荷物を整理するっていう方がいいわけですね。しかし、整理に失敗すると忘れ物をしてしまう、そういうリスクを負わなければいけない。そういうことがリスクとリスクの反対のメリットとして考えることでるうちは、十分若いということでしょうね。今日が何曜日かわからなくなる。そうすれば、忘れ物をしようがないということにもなります。しかし、今日は何曜日であるかというのは人間が人間として生きていく上で絶対必要な条件かいうと、それは学校に行っている生徒、あるいは会社に務めるサラリーマンであるならば、いつが休日で、いつが平日あるか、それを把握することはすごく大切なことでしょう。

 しかし、もし会社の経営に責任を持っている人間であれば、その人はほとんど日曜日も土曜日も、そして国民の祝日も無視して、常に自分の会社のことあるいは株主の利益のことを考えるのに全力投球していると思うんですね。今世の中に「働き方改革」という馬鹿げた言葉が流行って、それに沿って労働時間を短縮することが良いことだというふうに言われていますけども、労働時間の短縮制度というのに真っ先に手を挙げたのは、マルクスやエンゲルスという、皆さんがほとんどの人が危険思想と思っている共産主義の始祖あるいは元祖という人たちで、その人たちが労働時間に制限を設ける。1日10時間制というような制度を提案したわけですね。当時は1日10時間でもそれでも労働時間を短縮するという大きな運動の端緒となったわけです。元々は労働時間を制限することによって、労働者の人間的な生活の時間を確保しよう、人間的な生活を労働者にも補償しようという運動であったわけですが、「働き方改革」っていうのは別の側面がありまして、私が見る限りは、要するに日本は人口が急減少の非常に厳しい局面にあるわけでありますが、一方で日本の中では、本当の意味で人を必要とする新しい産業が育っていく様子が見えなくて、言い換えれば仕事の総量が日本全体で決まってしまっている。特に、いわゆる労働者、昔は労働者っていうと工場労働者を連想したわけですが、今は労働者といっても、ブルーカラーを連想する人はまずいない。そもそもブルーカラーと言われる人たちがいない。工場労働者も、いわばホワイトカラーであるわけです。ホワイトカラー、サラリーマンと言われる人たちも、やっている仕事は創造性のない、ほとんど一昔前の労働者と同じですが、汗と涙で労働成果を結ぶというのではなくて、パソコンの前で機械をコントロールする仕事、業務管理という仕事。一昔前では、それは管理職っていう人がやる仕事であったわけですが、今はコンピューターがそれをやってくれます。そのコンピュータがやる業務管理を、整理して見やすく加工して上司に報告する。言ってみれば、よく言えば知的な労働者、悪く言えば知性を必要としないカッコ付き「知的労働」という極めて残酷な職務を遂行することを余儀なくされているわけです。そして、そういう仕事でさえも、どんどんどんどんコンピューターで置き換えられつつあるというのが現代の置かれている状況で、一言で言えば、仕事がなくなっていくわけです。

 日本は人口がどんどんどんどん減っている。若年人口が激減している。そういう状況であるにも関わらず、仕事も減っているということですね。ということは、国民全体の生活水準を維持するために、あるいは現在の社会福祉を維持するために何をなすべきか。一言で言えば、ワークシェアリング、一つの仕事を何人もで分担する。昔のように1人で3人分4人分を働くというようなのは労働者の見本とはならないわけで、労働者の首を絞めている労働者ということになってしまう。皆さんは多い休み、人生を楽しむ。そういうやり方で、仕事を分担しましょう。これが、「働き方改革」の本質でありまして、ですから本当の意味で、自分の仕事を自分の喜びとし、自分の誇りとしている人は、働き方改革は無縁ですね。朝から晩まで働き、日曜日も祝日も働いている。世界の最先端で研究している研究者たち、あるいは芸術活動に邁進している人たち、その人たちは「今日は国民の祝日だから休み」ということは全くないわけですね。一刻も一瞬たりとも無駄にせず、自分の活動に磨きをかけるために努力をしている。特に理論系の人はともかく実験系の研究者にいたっては、実験っていうのは、一つのない流れの中で行いますから、ここで3日間休憩とかっていうふうにしてしまったら、それまでの積み上げてきた実験計画がパーになってしまうわけですね。ですから、そんなところを国民の休日とかっていうところに合わせて休暇を取れるはずがない。それじゃ家族がかわいそうだとかっていうふうな議論を展開する人がいますが、そういう人たちの家族は、自分の配偶者、お父さん、お母さん、その人が時には子供の世話を焼くことを忘れても、自分の研究に邁進している。そして世界のために役に立つこと、いつか役に立つことを、うちのお父さんやお母さんは頑張ってやっているんだということを、おそらく誇りにしているんだと思います。そういう姿を見て子供が育っていく。というのを昔の人は、「親の背を見て子は育つ」と言いましたけども、きっとそうであるに違いないと私は期待しています。

 ところで、私が今日最初に申し上げた私たちの人間の持っている知的な能力の中で、“記憶”というのは素晴らしい能力である。だけれども、記憶と同じくらい大切な能力として“忘却”があるということ、それをちょっと強調したい。私達は忘却があるからこそ、真に大切なものというのをその中から抽出して、余分なものをそぎ落として、それは忘れ去って、大事なものだけを残していくということができるということですね。忘却の彼方へっていうとみんながなくなってしまうというふうに思いがちだけども、そうではなくて、真に大切なもの、それは決して消え去らないということです。真に大切なものでないものは消え去ることによって、私達の心の中に真に大切なものは何であったのかっていうことを刻みつけてくれるということです。今、真に大切なものというものを人々があまり考えなくなっている。とりあえずその流行の先端に乗って何かをやっていけばいいという話になっている。私達の今の世の中でいえば、世界史的な事件が勃発し、その展開が先が見えない暗闇の中にあるわけですね。私達はそこに最大の関心を寄せなければいけないのに、最近私は音楽を聴く関係でYouTubeを利用することが多いのですが、いわゆるYouTube関係のニュースってのはものすごい分量があるんですね。そして、中には本当にいい加減な情報が氾濫している。それでも「いいね」っていうのが集まれば、その人に何がしかのお小遣いが入るということで、力が入っているのかもしれませんけれど、歴史の中の藻屑として消えていくであろうような事柄を針小棒大に大きく取り上げ、決して忘れてはならないという大切なこと、それをもうほとぼりが冷めたというか、一番ニュースとして美味しい時期が過ぎたからということで、それが相対的に軽く扱われている今の日本のマスコミの現状は、私は大変に残念に思います。

 私達人間には、“記憶と忘却”という非常に優れた知的な能力がある。そして、記憶と忘却とのそのちょうど隙間に、間に“思い出”という、おそらく人間にしかないんだと思いますけど、本当に遠い時間の流れの中で、忘却しきったはずのもの、それが心の中に深く刻まれていて、それがふとしたきっかけで思い出される。これが“思い出”ですね。よく思い出作りのためにとかって言う人がいるんですが、思い出作りをして、できるような思い出は思い出ではないと私は思います。思い出っていうのは、ある場面では、懐かしい懐かしい深い愛情の思い出であり、ある場合には深い深い悔悟、後悔でそれの古い傷であると思いますね。どんなに時間を経ても、輝かしい思い出そして心に残る深い傷、それを抱えて人間が生きているということ。これは人間の持っている記憶と忘却と並んで重要な三つ目の機能ではないかと思います。わたし達は、思い出も後悔も私達人間にしかできないことである。そういうことを胸に刻みながら、日々苦しい日々、そして楽しい日々を生きていきたいものであると思います。

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