長岡亮介のよもやま話198「チューダ朝の音楽に触れて考えたこと」

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 最近たまたまYouTubeでチューダ朝のイギリスの音楽というものに触れることができました。一生懸命探して探し出したというわけではなく、Googleの検索エンジンが私の趣味を勝手に推定してくれたんでしょう。チューダー朝の音楽なんて改まって聞いたこともなかったのですが、それは非常に美しい合唱で、崇高な存在に対して、それを賛美する人々の心の祈りが、合唱になったというような印象を持つものでした。

 チューダー朝というと、私は中学生の頃、坪内逍遥先生の翻訳によるシェイクスピア全集なるものを少し読みかじっただけで、実際に歴史的な知識があるわけではありませんけれども、シェイクスピアの中に描かれている人間模様一つ取ってみても、なんか馬鹿馬鹿しいというか本当につまらない、私から見ると、近代的なあるいは現代的な価値観から見ると、馬鹿馬鹿しいものに人々が左右されているという有様でした。チューダー朝というと、日本ではヘンリー8世がとりわけ有名ですが、それは彼がローマ国教会から異端として信徒の権利を剥奪される。それに代わって、現在に至るイギリス聖公会を作った。それはキリスト教の教え自身はカトリックと何も変わらないんですけど、ローマンカトリックつまりローマの教皇の言う通りになるか、それともイングランド独自の宗教的な経緯のもとに結束するかというだけの話ですが、普通に考えるとありえない。そういう政治的な決断が行われたというのも、当時のイングランドの繁栄というか栄光ぶりを示しているのでしょう。当時チューダー朝は、私は歴史に詳しくありませんが、イングランドだけではなくウエールズ、それだけではなくいわゆるアイルランド、そういうのの王も兼ね備えていたわけで、王様が同じなので国が違っていても、一つの国王のもとにまとめられる。人々がそれを心地よく思っていたかどうかは、私は知りません。多くの対立が水面下にあったに違いないと思います。そもそも、チューダー朝の王政自身が、例えば血みどろの戦いの中で獲ち取られたものであるわけで、ちょっと振り返ると、100年戦争とか薔薇戦争というのもあった時代。それもそんなに昔のことではなかったんだと思います。

 絶対王政と言われるものに向かって、ヨーロッパの国々が、国としての一体感を深めていく時代でありますね。それ以前のヨーロッパは、諸侯、それぞれの地方に権力者がいて、その人たちが争っていた。日本もいわゆる戦国時代まではそうであったわけです。やはり、軍事的な兵器として強力なものが開発されるかないかということが、言ってみれば、諸国の対立というものに時代的な変化をもたらす。全国統一っていうことが可能になる。そういう大きな力になっていたんではないかと想像しますが、今から見ると、実に馬鹿馬鹿しい話であり、王様の意向一つで戦争が起こったり、平和が結ばれたりする。そして犠牲になるのはいつも兵士、農民。そういった下層階級の人ということ。こういう馬鹿馬鹿しい歴史を、私達は繰り返してきているのです。

 しかし、私自身が、このチューダー朝で自分でも意外だったのは、チューダー朝の終焉が、歴史的には1603年とかっていろいろな諸説はあるのでしょうけれども、そういう時代なんですね。1603年って言いますと、私達に近いところで言えば、アイザック・ニュートンが生まれるのもあとちょっとであるわけですね。デカルトが活躍しだすともあとちょっとであるわけです。つまり、近代の足音はもう耳に入るっていうところまで来ていたはずであるのに、社会は依然として伝統を守るといえば聞こえはいいですけど、古い体制をそのまま維持できると考えていたんではないかと思います。君子に対してあるいは主君に対して意見を言うご意見番がもう少ししっかりしていたならば、時代は変わっていたのではないかという期待もありますが、肝心の主君が愚鈍であってはどうしようもありません。ヘンリー8世にいたっては、在世中は聡明なる王ということにされていたそうですが、亡くなってからは好色でろくでもない人間であると、そういうふうに評価がガラッと一転したってという話もあります。そういうふうに評価がガラッと一転するのも、一体何なのっていうふうに思いますけれど。でも、やはりきちっと評価するということが、昔もあまり外国でもできていなかったということの一つの証明かもしれません。

 それにしても、と思うのは、チューダー朝の音楽なんですが、皆さんも一回聞いてごらんなるといいのですが。何とも崇高なものを感じさせる音楽でありまして、あんなどうしようもない時代に生きていながら、芸術家そしてその芸術を愛する人々の間には、こういう音楽があったんだということは、何かしら政治というものに振り回されるだけでない人間の営みの真実を表しているような気がして、救われる思いがいたします。音楽は、時代を先取りしていると私は思っていたのですけれど、いろいろな芸術の中で音楽は、ひょっとすると最も保守的なものであるような気も致します。今、日本人の多くが愛してやまない音楽、クラシック音楽って日本で言いますが、そのクラシカルミュージックと言っているものも、前にこの場でお話しましたけど、ごく最近のものに過ぎない。

 私達は、「ごく最近のものでも、すごく古いものだ」と感じているということは、逆に現代というものに対して、何かそれを真正面から捉えていないんではないか。歴史を知らない者は過ちを繰り返すというような話がありますが、私は歴史を知らないものは現代を知らないんだと思うんですね。現代という時代がどのように作られてきているのか。そのことをきちっと理解すること。これがとても大切だと思うのです。そのためには、現代をよく見ると駄目で、むしろ現代の洪水の中に飲み込まれてしまう。現代に浸るのではなく、現代を遠くから見つめる。つまり、それが歴史に学ぶっていうことだと思います。「過去にこんなことがあった。何年何があった。どんな戦争があった」、そんなことはどうでもいい。でも、「人々がどんな暮らしをしていたのか。人々がどんな芸術を自分の身の回りに置いていたのか。どんな芸術を尊敬していたのか」ということ、そのことは、私達が大いにやっていいことではないかと考えます。

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