長岡亮介のよもやま話197「価値と貨幣、疎外」

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 今回は、私たちが日常的に使っている言葉の中に危うさがある。このことは、何回も触れてきた話でありますけれども、今回は「主観的・客観的」という言葉について、考えてみたいと思います。といっても、哲学で、ものすごく長い間にわたって交わされてきた「主観と客観という問題」をここで簡単に述べるという野望を抱いてるわけではありません。「主観と客観という問題」というのはいわば近代哲学の陥った罠というか、それがものすごく面倒くさい問題であるということ。結局私達は、主観を通してしか語ることができないにも関わらず、客観に関して語っているという、非常に逆説的な現象。これを説明することに、近代の哲学はずっと苦労してきたと言ってもいいわけであります。というわけで、この難しい問題をここで取り上げるというのは明らかに無理でありますので、ここでは触れません。

 しかしながら、現在多くの人々が気楽に語っている「主観的・客観的」という言葉が、あまりにも浮ついているということに対しては、私はここで考える価値があると思うわけです。それは、いわば“主観的”という言葉の中にしばしば一緒に使われる価値判断とか、世界観というものがありまして、「それはあなたの価値判断でしょう」と。つまりあなたの主観的な価値判断でしょうというふうに言いたい。世界観も「あなた、客観的な世界観じゃなく、あなたの主観的な世界観でしょう」と言いたい。そういう流れの中で「主観・客観」という言葉を使うということに対して、私はちょっと待てというふうに言いたいわけです。

 そもそも“世界観”とか“価値判断”という言葉を語るときに、私達は何かしらの世界像を優先して描いている、あるいは何かしらの価値を大事なものと思っている。それは紛れもなく主観的であるはずだと。そして、主観的であって良いということです。もちろん、その単なる主観が、単なる主観を超えてある共感を周囲の人に及ぼすというときに、主観が単なる主観を超えて客観にまで上昇する。そういうことはいっぱいあるわけでありまして、例えば、芸術の世界で言えば、日本の中では特に見られますが、ある有名な芸術家の作品に対してマスコミやあるいは有名な評論家が絶賛する。そうするとみんながその絶賛という言葉に流されて、日本全国絶賛ブームになる。一種の「トランプ現象」のようなものでありまして、一人の主観が全体の主観にものすごい強い影響を及ぼす。そういう恐ろしい現象が、私達は日々起こっているっていうことを知っているわけですね。ですから、「主観と客観」という言葉を精密に使い分けなければいけないわけだけれど、しかし一方で、主観と客観との間の境目は非常に曖昧であるということも、理解しなければいけない。そして、私達は主観的に物事を語っていながら、単なる主観を超えて、人との共感を求めている。あるいは人に同じような主観を抱いてほしいと願っている。“共同的主観”というふうな言い方もあるようですが、そのような主観を共有するということを願って、主観的な意見を言っているとすれば、それはまさに客観を目指した主観であるわけですね。

 ところで、私が今回取り上げてみたいと思っているのは、客観と言われているものの中に、極めて主観的なものが多いのではないかということです。先ほどから述べてきたことと正反対に、客観のふりをしている主観ということであります。私はその代表が、「貨幣」ではないかと思うのです。物が持っている価値というのは、それは絶対的なものというわけではありませんけれども、その物の持っている美しさなり、そのもの持っている食べ物の栄養の価値とか。そういうものは決して単なる主観ではなくて、ものすごく大きな迫力を持った力であり、価値であるわけですね。私達が縄文時代の火焔土器に対して心を突き動かされるのは、その土塊の塊の中に秘められたものすごく巨大なエネルギーが、時を隔てて私達に直接語りかけてくる。そういうものであると思うんですね。芸術の価値というのは、そのようにお金で計ることは甚だ不適当であるけれども、しかしある価値を持っている。反対にお金で計ることのできる価値、これ市場価値と言いますが、それは本当に価値を持っているのか。世の中の人はそれが価値だと思っていて、「売れることは良いことだ。儲かることは良いことだ」と思っている。そういうふうにして、財を成している人も少なくないわけでありますけれども、それが本当に価値のあるものなのかと反省してみることは、必要ではないでしょうか。

 私は最近非常に恐ろしい風潮だというふうに思うんですが、「もう物は溢れた。したがって物はもう価値がない。新しい価値を創造しなければいけない。」言葉だけを聞くと非常に説得力ある。しかしながら、一体何を語っているんだろうというと、よくわからない。ある意味で人々に幻想を売る。人々がその幻想を買う。その売り買いだけで価値が生まれているかのように思うという類の「虚構の価値」ですね。お金が今電子化されようとしていますが、電子マネーによって私達が初めて本当によく学んだことは、貨幣というのは、実は本来は価値でなかったということではないかと、私は個人的には思っているんですね。つまり、1円とか1ドルとか100万円とか100元とか、そういうふうに語れるものというのは、商売の取引、物々交換よりは便利な道具として、私達の歴史の中でずっと定着してきたものではあると思いますが、それ自身が価値を持っているということは、一種の国民全体があるいは全世界の人々が共同に被っているところの「ありがたさという幻想」ではないか。それ自身が本当に価値があるわけではない。

 本当の価値とは何かといったら、心を突き動かすもの、そしてその人の人生を変えるもの、その人が生きていてその価値のために死んでいくということに、自分の人生の意義を感ずること。そういうものは、本当の価値ですね。その価値をお金に換算することが決してできない。そういう価値です。そういう価値を人生の中でたくさん見つけたいと思いますが、今、流れは正反対で、お金になるものは全部価値である、とこういう考え方ですね。私達人類が直面している非常に深刻な地球の気象条件の急激な変動が、いわゆるカーボンの排出で、CO2が排出によってなされたものであるかどうかっていうことについて、私自身はもっともっと慎重にならなければならないという立場でありますけれども。というのは、地球的なスケールっていうのは、私達の人間的なスケールとは決定的に大きさが違う。したがって「地球的な変動というのに、私達の人間的な諸活動、社会的活動あるいは経済的な活動が影響を及ぼす」というふうに考えること自身に誤りが潜んでいるんではないか。その可能性に対して私達は慎重でなければならない。地球は温暖化と氷河期を繰り返してきているわけでありまして、そういう地球史的な規模って考えなければならない問題について、ここ数十年の傾向とかっていうことについて語るということに、私は一般的に慎重でなければならないと、単なる一般論を語っているだけなんですけれど。だから、本当の意味で地球史的な大変動が今起きつつあるということの可能性を全否定しているっていうつもりはないのですが、例えば本当に10年ほど前に起きた、地球史的な長さで言えばほんの一瞬の出来事が、その余震が未だに続いているということに対して、私達は恐怖を感じるわけですが、それは地球の歴史の中からすれば全く連続した事柄である。本当に138億年と言われている宇宙の歴史の中で、銀河系の歴史、太陽系の歴史というのもそれなりに長い。地球の歴史というのもそれなりに長い。それなりに長い何十億年という歴史の中で言えば、10年なんていうのは本当にたったの一瞬に過ぎない。そういうことを考えれば、100年も一瞬に過ぎないわけですね。

 そういう地球史において考えるということ。それを私達は忘れてはいけないっていうふうに私は思っているんですけれど、ともかくそういう中で、例えば、二酸化炭素の排出を0にするカーボンニュートラル、今まで排出した分は仕方ないからこれから増やさないという趣旨でニュートラルと言うんだと思いますが、そのカーボンの排出を0にするということはできないことではないと思います。そして、そのことによって、地球の歴史的な変動が変わるのかというと、それは全く別問題だろうというふうに私は思うんですね。そして、私自身が一番警戒心を持つのは、「カーボンニュートラル」というような言葉、あるいは「SDGs」という言葉が、ビジネスの言葉として使われる。この流行に乗れば儲かるという「虛議の価値」のために本当の価値を犠牲にする、ということがあってはならないということですね。例えば再生可能エネルギー、それがどういう意味で言っているのか本当はよくわからないんですが、例えば太陽光を利用して発電する。素晴らしいことですね。私が今暮らしている田舎の生活では、田舎ではもはや水田はともかくとして、畑はもはやビジネスの対象になりえなくなった。小さな畑はもはや果樹園ではなくて、なんと太陽光を作るための畑になりつつあります。私達が果実を取ることができる畑、野菜を取ることができる畑が、電気を取る畑になる。そういうことによって、私達の生活が豊かになるというふうに考える人がいる。それは、その農家あるいはその土地を所有する人にとっては、経済的な収入が増えるということは確実にあるのでしょう。今、米以外の、米作農家以外の農家は、なかなか機械化できない農業労働に対して、それに値しない貨幣しか受け取ることができないという状況が、長年続いています。

 しかしながら、夏の実り、秋の実りというのは、人類にとって本当に素晴らしい自然の贈り物であり、それを仲介とする農業の人たちの仕事っていうのは、極めて重要な価値を持つというふうに思います。それが貨幣として換算できないということがおかしいのであって、それを貨幣として換算する知恵こそ、私達に求められているんだと思いますが、それを太陽光発電に変えることによって、より多くの貨幣に変換できるという考え方は、何かおかしくないでしょうか。私自身はそれに対して、才覚もなければ、知恵もない、そのための準備もない。だけど、第一感として、何か変だったというふうに感じるんですね。私達が、やはり貨幣を価値と思っている。その間違いから、立ち直らなければいけない。間違いを正さなければいけないということをつくづく思います。

 貨幣そのものは疎外された価値、疎外という言葉を最近は間違って使う人が多いのでぜひここで言いたいんですが、「阻害」は妨害するというような意味で、そうではなくて、“疎外”っていう言葉ですね。何か自分がそこにいて、その場所にいることがふさわしくないっていうふうに感じるような気持ち、“疎外感”っていう使い方は比較的一般的ではないかと思います。私の尊敬するカールマルクスが、若い頃「人間の労働の疎外ということの本質的な問題」を考察したわけです。「人間は労働する存在。そして、その労働を通して他の人間と関わり、他の人間から感謝され、人間の人間に対する関係を通して、人間の生活が充実する。」そういうことを彼は理想だと考えてきたわけです。「その人間の労働が賃金と交換されることによって、労働の疎外が始まる」ということを述べたときに、それを青臭いといった人たちもいたんだと思います。しかしながら、私は、いわば人間の人間に対する関係というものを深く考えるときには、出発点となりうる非常に重要な問題提起だったんだというふうに考えます。私は最近、お金になりさえすれば、それが価値を生むという主張。「この市場には600兆円、見込まれるんですよ。素晴らしい市場ですね。」「新しい市場が開拓されるんですよ。」こういうようなことを平気で語る人がどんどん出てきているということに、私は深い危機感と絶望を感じてしまいます。

コメント

  1. zen より:

    疎外と言う言葉を知ったのは55年前の学生時代だった。確かに「労働の疎外」として学習したが、いつの間にか、人間疎外というか、自分中心に回っていない現実に気づいた時の空虚な感情を「疎外感」と思うようになった。疎外とはそうではないのかもしれない。いい加減な思い込みをしていたものだ。

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