長岡亮介のよもやま話194「文化と伝統」

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 今回は、“日本文化の伝統”とよく言われる概念について、ちょっと掘り下げて考えてみましょう。ちなみに、民放の番組の中にも、“掘り下げ”という言葉を使ったニュースがあるようですが、私は一度見てどこも掘り下げられてないので、呆れてしまいました。私は、日本文化の伝統ということを言うときに、アメリカの学者によって指摘された「菊と刀」というようなものが日本文化の伝統であるという言い方に関して、それはそれとして理解できると思うんですね。しかしながら、外国人が見たときの日本人の文化というもの、それをそのまま「これこそ我が国の文化的な伝統である」というふうに、思い込むのは、私達がちょうど外国に行ってちらっと外国の様子を見て外国の文化がわかった気になるというのと同じでありまして、私達がその中に生きている日本文化を、自分たちの言葉できちっと取り出すことが大切でありましょう。

 日本文化については、えらい明治期の人がいろいろと名著を残しています。岡倉天心とかね。あるいは新渡戸稲造とか。茶道ということに関して言えば、今、茶道が廃れたとはいえ、かなり多くの人がそれに嗜んでいると思いますけれども、「茶の湯の心」というのを、本当に理解している人、あるいは理解してそれを実践している人がどれほどいるかということに関しては、私はかなり疑問を持ちます。それは、最近の日本人が日本人の文化的な伝統を忘れたということなのかもしれませんが、茶道をやっているからといって日本文化の伝統の中に生きているとは言えないということですね。文化的な伝統というのは形ではない。むしろ形の中に息づく精神であると私は思うんです。私自身の言葉で言うと、「茶道の基本精神はお客に対するおもてなしの気持ち」、それに尽きると思うんです。他人に対して、自分ができる限りのおもてなしというと、今は通俗的な響きがありますが、その人に本当に良い雰囲気、良い味、良い風、良いくつろぎ、それを味わっていただく。そのために、あらゆることを考えるということなんですが、私はそう思っているのですけれど、茶道の中に、激しいセクト争いとか、あるいは資格を巡ってお金の上納制度、一種の霊感商法以上にひどい、免許権を与えるということに伴う利権構造で、国家がやることですから恥ずかしいことであるのに、それを民間で行っているというのは、おかしいですね。例えば、学校で数学を勉強すると、あなたはここまで来たから、数学の師範代という資格を名乗って良い、その代わりに100万円出しなさいと、こんなこと言ったら本当に馬鹿げていますよね。もちろんそういうビジネスがありうるということは、私はわかります。

 でも、茶道というのは、日本の文化の伝統としては、そういうビジネスとは無縁のものであったんだと思います。そういうものが今崩れている。崩れている原因は何かということ。それを的確に指摘するならばわかりますけれども、「最近の日本は日本文化の伝統を失っている。」そして、それから飛躍して、「それは敗戦直後のGHQによる政策である。」と、こういうような飛躍した論理を使うことには、私は賛成できません。もちろん私自身は、GHQの政策による日本の文化的、あるいは社会的な大変容に関して、これは非常に深刻なことであると考えている人間の一人でありまして、その限りでは、私は保守派あるいは右翼思想かというふうに見られてしまう可能性さえありますが、私はそのようなものではなく、全く純粋に、客観的に、学問的に考えて、「日本社会が戦後に大きく変わったということ。そしてそれは、私達日本人がその方向に進むことを選んだことの結果である」と、そういうふうに私自身は考えています。要するに日本人の心の中にあった卑しい部分、それは江戸時代から明治を通じてずっとあったものであります。時代劇で言えば、「お主も悪よのう」というセリフに代表される、日本人が自分だけ得をすれば良いと思うようになった。そういう損得勘定で生きることが人々の間の中心的な倫理として、確立してきたということであります。そういう意味で言うと、日本の文化的な伝統とかって言うときに、そういう拝金主義的な精神性のなさですね。道徳という言葉はあまり好きではありませんけれども、人間としてやはりできるだけ高尚な生き方をしたいと思う気持ち。特に恵まれた階層にいる人たちは、自分が恵まれた環境にいるということに対して負い目を感じるということですね。Noblesse Obligier(ノブレスオブリジュ)というフランス語が有名でありますが、それはある意味で日本特有の話ではなくて、フランス語でもありましたけれど、むしろ世界中の人々の間で共有されてきた一つの文化なんだと思います。

 日本特有の文化というときに、私は茶の湯を話題として最初に出しました。新渡戸稲造は“武士道”っていう言葉について語りました。その武士道という言葉に漠然としたイメージを持っている人は、ぜひ新渡戸先生の『武士道』という本を、できたら原著の英語で読んでもらいたいと思います。今はとても良い翻訳が出ておりますので、その翻訳で読むことももちろんいいでしょう。翻訳をしたのも東大総長をしたという立派な学者です。翻訳に誤りを私は見出すことができませんでしたし、織り目正しい日本語で書かれているからそれもいいでしょう。ただ問題は、「新渡戸先生が描いている“武士道”というのが、本当に江戸時代の武士の倫理としてあったのか」という実際上の歴史的な問題を考えるならば、私は、それは「新渡戸先生が、日本人のことを、日本人の精神性の高さを欧米の人に高く評価してもらうために、いささかそれを大げさに誇張し、そして、ある意味で誤解を招くように、あえてそのように書いた」と思う。「日本人が東洋の猿でないということをわかってもらうために、外国人は全くない日本の“武士道”という文化があったんだ」ってということを、書かれているわけでありまして、それはそれとして、素晴らしい外交文書だと思いますが、江戸時代の武士たちが本当に武士道に従って生きてきたのかというとそんなことはありえないと思うんですね。なぜかというと、江戸時代というのは武士が支配した時代であると小学生では教えますけれども、300年間も平和な時代が続いたわけでありますから、武士が刀を差しているからといって、実際に刀を使って主君のために忠誠を尽くす。そういうような場面が頻繁にあったとは思えないわけです。海外の歴史を見ても、戦争のない時代というのは、支配階級のために雇われた武士、これは主君を支えるために雇われた傭兵なわけですね、そして傭兵といってもお金で雇われたというのだけではなくて、先祖代々に向かって土地をいただいているとか、米をいただいているとかという封建的な関係で結びついていましたから、当然その間の絆、人間的な関係は、社会的な関係にも増して、強い連帯になっていたことだと思います。

 しかし、戦争がなくなる平和な時代が長く続くと、傭兵の立場というのは当然弱くなるわけですね。社会的に無用の長物、要するに不用品になるわけです。武士は、米を作るわけでもない。刀を磨けるわけでもない。まして鋼を作れるわけでもない。そうなると、武士のアドバンテージというのは、理屈をきちっと正々堂々と述べることができること。自分の生活を律する倫理感を強く持っていること。そういうものに限定されざるを得ない。刀が上手いということは、相対的には小さな問題にならざるを得ないわけですね。従って、武士として名を成した人たちというのは、結局のところ、頭脳明晰で、書籍をよく読み、古典に通じる、言ってみれば、学問の世界で身を立てた人ということになるんだと思います。中国の漢籍の勉強というのは、日本の武士にとって必須の教養であったと思います。勉強することが武士の一番のすすめ、立派な武士になるための基礎訓練であったというとびっくりする人もいると思いますが、もちろん武士の中には、「腕力で生きていこう。俺たちは、勉強は得意じゃない」と、そういうふうに思った人がいっぱいいたと思います。しかし、実際に戦闘がないわけですから、刀を使い方が上手いと言ったって、地方の藩の中で重用されるということは全くないわけですね。彼は乱暴者だからと言われるのが関の山だったのではないでしょうか。

 武士の中にはちょっと中流以下になりますと、藩の中の財政を監督するという立場に立ちましたから、そろばんというのも大切な教養になったという人もいると思います。実際、江戸時代のいろんな記録の中には、細かい会計の記録が残されています。そういうのを見ると、ある中流以下の武士たちに必要とされたのは、いわば算術と昔は言ったかどうか知りませんが、そろばんを駆使して計算を正しく遂行する能力であったでしょう。しかし、その能力がトップの侍たちにまで要求されたとは思えません。トップの侍は藩の行政をいかにやっていくか、社会の不安をいかに取り除いていくか、危機に対してどのように備えるかという政策・立案・実行、そういう力において評価されてきたわけでありまして、いわば役人に過ぎないわけですね。そういうふうに考えると、役人道と武士道というのが同じものであったとは思えない。しかし、その高級役人が賄賂を取るのではなく、人々のため、藩の人民のため、農民のため、職人のため、商人のために正しい政策を打ち出さなければならないという義務感を感じて、その職務を誠実に遂行していたということは素晴らしいことだと思います。しかし、それは決して日本文化独特の伝統というわけではありません。世界の各地において、官僚が腐敗せず、自分の権力に奢ることなく、正しい政治のための政策・立案に活躍していたということはいっぱいあります。他方、もちろん腐敗した役人たちが世間を牛耳っていた時代がたくさんあったことも事実であります。日本は、徳川の時代には一部に「お主も悪よのう」というようなお代官様がいらしたことも事実でありましょうが、多くの役人的な武士が規律を持って自らを律していた割合が日本は比較的高いというようなことは言えるかもしれませんが、割合の高さのような簡単な数値で測れるようなものが文化的な伝統だって言うのは、ちょっとおかしいですよね。そんなものは相対的なものにすぎないと私は思うんです。

 日本人の文化的な伝統として、世界の中で、これはアジア的な伝統と言った方がいいのかもしれませんが、際立っているのは「家族の絆」だと思うんですね。家族というもので、固く結ばれている。それは武士の世界ではなくて、むしろ、農民とか職人とか、そういう社会の下層階級の人たちの方が、そうであったように思うんです。というのは、武士の世界では「家」というのがあって、その「家」を繋ぐのは長男だけなんですね。そして、長男を中心として家が繋がれていく。そういうのが日本の家族制度の特徴でありましょうが、それは海外においても貴族制度の中には多く見ることができます。しかし、庶民の生活が家族を中心として営まれてきたということ。これは日本の大きな特徴ではないでしょうか。海外では、子供が成長したら独立して出ていくというのが当たり前で、家族がいつまでたっても、おじいちゃんおばあちゃんから、子供、そして孫、そういうのまで一家で暮らす。これが人間の生活の基本となってきたというのは、日本の文化的な伝統と言っていいのかもしれません。親戚とか一族を大切にするという文化は、日本というよりはむしろ中国、韓国、あるいは朝鮮半島、そういう東アジア文化圏の共通の文化だというふうに言った方がいいのかもしれませんが、そういうのは伝統としてありますね。

 そして、日本人の誇るべき文化的な伝統として私が強くあげたいと思うのは、一種の道徳教育みたいなものが、非常に庶民の間で強調されてきたことですね。近代で言えば二宮尊徳でありますけれども、親に孝行を尽くすとか、主君に忠誠を尽くすとか、そういう封建的な道徳と一緒になって、日本人の心の中にずっとあった気持ち。それは原始的と言われるかもしれませんが、先祖崇拝のようなものですね。多くの原始的な文化の中に、先祖崇拝の文化を見出すことができますけれども、日本人あるいは日本の文化の中に、親、祖父、祖母、それを大切にするそして中には、記憶力の良い人がいるのでしょうか、曾祖父とかさらにその上とか、そういう一族の家系というのを大切にしている人もいますね。「家族の絆を何よりも大切にする。」これは、日本文化の伝統と言っていいのではないかと思います。

 キリスト教というのは、愛の宗教というふうに言っていいと思いますが、その愛の宗教であるキリスト教でさえ、「家族愛が、神への愛に対して制約となることがある」ということを、はっきりと述べているんですね。家族愛が、神への愛つまり人として本当に生きる道への障害となりうるということ。これが日本人には最もわかりづらいことではないかと思います。しかし、私は最近の日本を見ていて、例えば、決して自分が豊かではないのに、子供の学歴をつけるために必死に良い学校に入れようとするということが、日本人の共通の、いわば何と言うのでしょうか、血の中に流れている。そういうふうな例えを使いたくなるくらい、人々の間に強く残っている姿を見ると、この家族愛というものが日本的に変質した形で出ているということを、未だに強く感じます。実際には、今大学なんかに行っても、サラリーマンになってももう良いことはあまりないっていうことは、若い人でさえ知っているわけで、もうそういう時代はとっくに過ぎだ。では、これから何をすればいいかっていう話はまた別の折にしたいと思いますが、少なくとも私の友人で大金持ちなのは、立派な大学を出ている人では全くない。ものすごい莫大なお金を稼いでいる人たちは、大体中卒です。それがどういうことであるか、その仕組みについてはまた別にお話ししたいと思います。

 日本の文化の中で、良い教育を受けさせること。これが家族愛の一番大切な表現にあるというのは、戦前から戦後にかけての日本、明治以降の話、特に戦後のしばらくしてから、私は1990年代とか95年とかが境目になっているんじゃないかって感じているのですが、日本文化の伝統が非常に伝統としてすごく強く生きながら、それが非常に奇妙な形に変質していくということですね。文化的な伝統というのは、ときに守り大切にしなければいけないものというふうに言う人がいますが、守ったり大切にしたりするということを考える以前に、私達の血の中に脈々と受け継がれている、疑うことのないもの。文化という表面に出てくることのない本当に裏の世界、流行りの言葉を使えば、メタカルチャーと言ったらいいんでしょうか、そういうようなものであると私は思うんですね。ですから、文化や伝統を守れという言い方はナンセンスで、文化や伝統とは守らなくても受け継がれていく。そういう受け継がれていく、私達が無自覚な伝統、それを自覚的に取り出さなければいけないのではないかと私は考えているのですが、皆さんはどうお考えになりますか。

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