長岡亮介のよもやま話190「簡単そうで難しい問題」

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 このように音声を介して情報発信していると、文章を推敲するのと違って、ロジックに緻密さが著しく欠如して足りない。そういうことがしばしばあり、録音を終わってから「あっ足りなかった」と後悔する。これを付け足そうとすると長くなり、それはまたの機会にしようと思っているうちに、このよもやま話も随分長く続いてきました。これは実は失敗の歴史といっても良いですね。

 今日は、基本的人権本いう考え方について考えてみたい。これは、近代の市民革命後の私達が確立した価値観でありますが、実は本当はよくわからない。かなり難しい概念だというお話を前回はしたと思います。その説明をする際に、宗教の問題とか、あるいは食べ物の問題とか、あるいは家を出るときに右足から先に出るか左足から先に出るか、第一歩をどうするか、そういうようなことは個人の自由でしょう。やはり、科学的な合理性に基づいて、唯一の正しい食べ方はこれである、唯一の正しい一歩の踏み出し方は右足であると断定すべきでない。これが基本ということでした。日本では小笠原式流礼法という礼儀作法があり、型にはまって礼儀作法が行なわれている。多くの人はその型にはまることが大事と思っているけれど、本当に大切なのは型自身を守り抜くというのではなくて、その型に込められた気持ちなんではないでしょうか。それがとても大切なんだと思います。伝統的な芸術の世界では、言ってみれば、型と、型に込められた気持ちが区別されないために、曖昧な言い回しになる。

 基本的人権というような、人間社会の基本原理になると、そのような曖昧な言葉で済ますことはできない。従って私は、前回にその話をしたときには、「他人に迷惑をかけない限り、ある意味で一人ひとりの個人が、何を目指すべきか」ということについては、万人に共通の普遍的な原理に基づいて合理的な判断ができない限りは、その人の自らの選択に任せるべきである。これが基本的人権の考え方だというふうに言いましたけれど、「人に迷惑をかけない限り」という非常に強い前提条件が入ったことを思い出しました。「人に迷惑をかける」とは、そもそもどういうことか。「人に迷惑をかけない」ことはその否定形であるが、これは一体どういうことか。そういうことについても、実は難しい問題がある。人の関わりを一切断つ。そういうことであれば、人に迷惑をかけようがないということは、いえますね。しかし、人が、人間が生きているということであると、話は難しい。私達が静かに呼吸しているだけで、動物共有の空気の中の酸素成分が減る。「だからなんだ」というくらい地球の酸素の生成能力は高いから、一人の人間の吸う酸素、それによって他人に迷惑をかけるというようなことはほとんどない。

 極端な例を最初に出しました。それは別としても、人間が社会に生きているときには、いわば濃い人間関係を作っている。村社会を作っているときには人と人との間に多様な関係がある。その中には人間関係の摩擦というものもある。そして、ふつう一般には摩擦という表現のかわりに、私的な関係と言ったり、コミュニケーションと言ったり、共同体と言ったりします。人と人とが関係し合う、人間が社会的な動物であるということによって、一人の人が生きていくというだけでは済まない「他者との関わり」を、必然的に持っているということです。他者との必然的な関わりを持っている以上、他者の生き方に対して何らかの影響を与えないっていうことはあり得ない。そして、他者に与える影響の中で、他者が不愉快に感じることがある。これを「他人に迷惑をかける」と表現する。他者がどういうときに不愉快に感じるのでしょうか。最も不愉快に感じるのは、他者の生存を嫌だという場合、殺しにかかるという場合でしょう。殺される側の立場にすると、冗談じゃない。他者も持っているはずの個人的人権の中でも生存権は、最も基本的な権利です。それに干渉するわけですから、それは大いなる迷惑である。その大いなる迷惑を、私達は適当な理由をつけて正当化し、他者の持っている人権を踏み躙るというとんでもないことをやることが、しばしばある。実に残念ですが、人間が生きていく上で、正義などの名において他者の基本的人権を侵すというようなことが、決して少なくない。私自身の短いとも長いとも言える人生を振り返ってみると、本当に多くの人々の侵しがたい人権を、私は侵してきたということを認めざるを得ない。そういうふうに考えることがあり、そして眠れない夜を過ごすことがあります。しかし私に限らず、一人の人間が自分の信念に基づいて生きていくときには、他者の信念を犠牲にするということは充分にありうるわけですね。

 いろんなことが頭の中をよぎりますけれど、私はその昔、フランス人の家庭教師をやったことがあります。そのフランス人の青年がある時突然にイスラム教に改宗しました。厳格なイスラム教の教えを守るようになり、私が教えている最中にも「先生、今何時?」と聞く。それでその時間に聖地の方向を見てお祈りをするんです。「ちょっとごめん。お祈りの時間だから」と。「勉強をしているときは、お祈りの時間を気にしなくていいんじゃないの?地球は回転していて時間は経度で違うんだし、今は勉強している時間だから、日本時間で縛られることはあんまりムハンマドも考えていたのではないんじゃない。」そう私は言ったんですけど、全く受け入れてもらえない。というより、イスラム教徒にはイスラム教徒なりの厳しい掟がありますが、その厳しい掟の中には、宗租ムハンマド自身が言ったこと以外に、ムハンマドが残した言葉をどのように解釈するか、ムハンマドの子孫から分派した様々なセクトによって、多様な解釈がある。誠に残念なことながら、イスラム教の内部で解釈の違い、セクトの違いによって生臭い争いが今もある。不思議なことに、遠い関係にある方が平和共存し、近い関係の方が憎しみが強くなる。これは人間の歴史と社会の中にしばしば見られる残念な現象です。「小異を捨てて大同につく」という言葉がありますが。私たち人間はその反対に、大同につくより小異にこだわる。そういう情けない選択をすることが少なくない。

 そういうふうになると、他人の基本的人権に属するものに対して、自分の頭で勝手に判断して、「こうすべきじゃないか」とつい言ってしまう。そういうときに、「いや、それは他人の人権だから、これは黙っているよ」というのが基本的な考え方ですね。一方で、私はおかしいと思っているけど、今おかしいって言えないとすれば、言論の自由、思想の自由がないことになる。ここが難しい点です。私が大切に思っている私の教え子がイスラム教徒に改宗したとしても、開祖ムハンマドがそうであったように、唯一神アッラーに対する敬虔な信仰が第一にする姿は尊重されるべきである。そして、イスラム教は、多くの宗教に見られる偶像崇拝的な似而非宗教性に対する警戒心は極めて厳しい。他方、その他に関しては、神秘主義的傾向あるいは不条理性は少ない。むしろものすごく合理的に物事を割りきるような面もあるように思います。イスラム教の世界の中にある一夫多妻制も、全く正しく理解されていません。実は寡婦を守るための、ムハンマドの考えた知恵である。多くの新興宗教の指導者がそうであるように、自分だけ一夫多妻の生活を満喫する。そういうようなことでムハンマドが言ったわけでは全くない。私の理解する限りのイスラム教といえばそうですね。イスラム教は、ある意味で、新約聖書あるいはその前の旧約聖書をベースにしております。長い長い歴史の中で、最も新しい宗教で、合理化も進んでいる。

 皆さんはイスラム世界というと、狂信的なイスラム教の信者が集まっていると考えがちですが、文学の世界で言えばアラビアンナイトという世界があったことも思い出せば、イスラム文化がいかに華やかなものであったかということもわかる。皆さんは明確にご理解ないかもしれませんが、近代数学によって、私たちは現代的な文明を手にしたわけです。「近代数学はヨーロッパで生まれた。」そういうふうに思っているのが一般的ですが、しかしそのヨーロッパの近代数学はなぜヨーロッパで生まれたのでしょうか。これは、アラブ世界あるいはイスラム世界との交易、通商を通じて、イスラム世界の中で培われてきた数学的な合理的精神を、ヨーロッパの人々が学んだからなんです。今でも算用数字と日本では言いますが、英語ではArabic numeralsアラビア数字と言います。10進法という考え方も、位取りの考え方も、しかも小数の考え方も、ヨーロッパの人々は、アラブ世界に学ぶわけです。そして、やがてローマ教皇となる非常に知的な司教がこのアラビア数学の素晴らしい合理性に感動して、「我々ヨーロッパあるいはラテン世界は、このアラブの文化を学ばなければいけない。早急にこのシステムを取り入れる必要がある。」そう言って、古い中世の伝統を打ち破る改革運動の先頭に立った。その人がやがて教皇にまで選ばれるという経緯もあって、ヨーロッパの中にアラビアの文化が根付く。イスラム世界の合理的な精神、それが根付くわけです。

 そして、そのような近代的な精神が合理主義に基づく精神が、やがて社会の基本原理をも変革するという市民革命へと導くわけでありますね。その市民革命を通じて、私達の近代社会の基本理念が確立されます。そのときにはまさに革命の名にふさわしい血みどろの争いがあった。いまでは、7月14日はフランスでは国民の祝日で、パリではまるでリオのカーニバルのようなお祭り騒ぎですが、1789年の大革命の際には、暴徒化した市民の大変な興奮の中で多くの残虐な事件が起きた。決して、不合理な王制に伴う貴族の絶望的な腐敗を政治的に解決するために、市民の間での平和的な論争を通じて政治的な大改革が進行したわけではではない。マリ・アントワネットの処刑もさることながら、むしろ最初のバスティーユ襲撃に象徴されるように、そしてその後もずっと続く本当に血生臭い革命でありました。全ての革命は血生臭いものであります。そういうものを経てしか新しい社会を実現することが出来なかったということを忘れてはいけないでしょう。私達は、自由・博愛・平等、そういう輝かしい近代の理念、これをいまは掲げています。しかしその理念は、血塗られた革命によって達成されたものである。他人の生存権すら奪うことによって成立したものであるということを、忘れてはいけないと思います。

 つまり、「他人に迷惑をかけなければいい」という言い方は、人間社会の中にあっては、特に濃い人間社会の中にあっては、ここで、濃いとは人間関係が濃い、日本的に言えば村社会、集団で社会を作っていて、この集団の中での決まりとかしきたりとか伝統とか、そういうものが何より重視される社会です。日本ではもはや田舎の方にしかそういう風習は残っていない。そういう村社会的な中にあっては、一人一人の言動は他人に迷惑をかけることなしには、行うこともできないという、いわば、個人的人権というものの持つ限界、個人が社会の中で生きていくというパラドックスに由来する限界があるっていうこと、それを忘れてはいけない。私達は、「他人に迷惑をかけなければいいんじゃない」というようなことを気楽に言って、問題を解決したかに思ってしまう。さてこれによって、実は新しい問題が提起されたということ。最終的な解決というものに至ったわけでもなんでもないということ。そのことを忘れてはいけないと思います。

 実は、最終的な解決っていうのは、私達人間が達成することはできないものなのかもしれません。例えば皆さんは点とか直線とか円とか、そういう幾何学的な図形、「そんなものは知ってるよ。点とは、位置だけをもち大きさがないものでしょ。線とは、鉛筆のようにまっすぐに延びる図形でしょ。円とはコンパスを使って描ける完全に丸い図形でしょ。」そう思うかもしれない。でもちょっと考えてみればお分かりのように、皆さん、定規で書いた線は真っ直ぐのように一見見えます。もし顕微鏡で見たならば、それは太さのあるギザギザの線になります。言ってみればインクの汚れの跡でしかない。本当の直線とは似ても似つかないものである。もっと深刻なのは、数学的な直線というのは無限に伸びていたはずで、無限に伸びていているということは描くことができない。なぜならば無限に伸びた線を描くためには無限に伸びた平面が必要、しかし無限に伸びた平面は世の中に無い。私達の観念の中にしか無い。あるいは心の内にしか無い。言ってみれば地球全体を覆う平面、こういうのを考えた場合におかしいことがわかりますね。地球は丸いわけですから平面ではない。そうすると、平面とか直線とかというものでさえ、実は実現していないわけです。しかし、数学はある。幾何学はある。そのときに、現代数学で、点とは何か。直線とは何か。円とは何か。一応の定義らしきものは学校数学では扱います。しかし、それが論理的に完璧な定義でないっていうことを、数学者は見抜いている。もっとも有名なのは、D.ヒルベルトのGrundlagen der Geometrie ですね。日本語にすれば幾何学の基礎、あるいは幾何学の基礎付けですね。日本では『幾何学基礎論』と訳されることもあります。その本の中で、「点とか直線とかについて述べて行くが、これらが一体何を意味するのかという問題は、まったくどうでも良い」という立場が鮮明にされている。基礎概念の定義自身には意味がない、というか、そういうことについては考えること自身に意味がないということです。例えば、「異なる2直線が一点で交わる」と幾何学の本では書いてある。「異なる2直線が一点で交わる」ことの意味、「並行でない直線は交わる」という表現の意味は、「異なる2点を通る直線は1本だけ存在する」という意味であると書いて一向に差し支えない。点と直線という言葉を全く入れ替えて書いても構わない。そういうことを述べた。

 これは双対性という数学では非常に重要な概念でありまして、このことによって幾何学の世界っていうのは、非常に大きく広がるわけです。そして幾何学を超えて双対性というのは数学に非常に重要な考え方だということが、わかると思う。かつてカッシラーという哲学者が、『実体概念と関数概念』という本を書いた。カッシラーは、実体概念と関数概念を対照的に考えていた。従来の哲学では実体ばかり重視して来たが、実体と実体の間の関係である関数概念が重要である、ということでしょう。しかし、数学的に考えると、実体と関数を区別すること自身がナンセンスである。つまり、人々が物と思っているものと、物どうしの関係と思っているもの。片方は例えば数、もう片方は関数。それは全く違うものと思っているものを逆転させて考えても良い。これが双対性という現代数学の基本にある考え方の一つです。双対というのは、英語ではdual。双対性はdualityは現代数学では最も重要な概念です。概念というよりは根本的な考え方というべきですね。単なるconceptではなくて、conception 概念の枠組といって良いくらい重要なものです。双対性というconceptionによって、私達数学の世界はすごく大きく広がる。基礎的な概念としての言葉で表現されたものですら、それの最終的な理解に到達するというのは数学の場合でさえ容易でない。数学の場合、それが不可能であるということが予感できたときは、それを語ることを放棄して別の新しい数学を作り始めるというのがより正確だと思うくらいです。

 この現代数学の考え方については、ちょっと言葉だけでは理解いただけないかと思います。実は、数学者は線とは何、点とは何、こんな基礎概念でさえわかっていない。わかっていないということを、しかし数学者はわかっている。多くの高校生・中学生・小学生、場合によっては大学生になっても、直線や円、そういうものについて何も理解しないまま、それについて語っている。日常的にはそれで構わない。学問的な厳密性を持っているとは到底言えないわけです。

 数学の場合ですらそうであるから、社会の概念、どのような社会を作っていくのかという問題については、私たちはそれを何とか厳密な言葉で語ろうとするわけである。そのときに伝わる言葉自身が言葉として、浮ついてしまう。そういう傾向について、つねに警戒を怠らないということがとても大切である、ということ。「他人に迷惑をかけないんだったら何をやってもいいじゃないか」と言う。例えばそれを一つ取り上げても、他人とは何か、迷惑とは何か、迷惑をかけないとはどういうことかということは難しい問題です。私達の社会の歴史は、人に迷惑をかける歴史だったのではないかといってもいいくらい、私達は歴史に謙虚に学ばなければいけないと思います。そして私達は日々の行動を常に反省していかなければならないと感じている次第であります。

コメント

  1. takada より:

     基本的人権についてわかっていると言いながら、実はわかっていないのではないかという思いがしている。「他人に迷惑をかけている」という自覚がないからだ。68年のヴェトナム戦争反対という声を上げたときは、日本人であることがヴェトナムを攻撃しているアメリカと同じであるという罪悪感に襲われた。今はウクライナもガザも心痛めるが、デモに行かない。基本的人権を守る、基本的人権を確立するということが血塗られた革命ほどに難しいと思うからだ。ジレンマを感ずる。

     数学について語られる部分も難しい。そもそも「点とは何か。直線とは何か」ということを考えてこなかったことが、自分には数学的センスがないことであるとわかった。わからないことをわからないと知ることが人生だ、と言い切っていたが、それらをわからないままにしていたことに気づいた。何が、どこがわからないのか、追求しなければ進歩はない。その上で「点とか直線とかについて述べて行くが、これらが一体何を意味するのかという問題は、まったくどうでも良い」とD.ヒルベルトが言っている意味を考えたい。「双対性という概念」はその次の課題である。

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