長岡亮介のよもやま話189「科学的とはどういうことかを巡って」

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 今回は、以前お話した話題と一部重なるんですが、科学的であるとはどういうことかという根本問題を、私達にとってつい最近まで、最も卑近な話題であったCOVID-19、2019年型コロナウイルス感染症と国際的には言われているもの、日本では新型コロナウイルス感染症と呼ばれているもの。その対応ワクチン、それの後遺症を念入りに昨今の話題から私の知る限りで、しかもそのテーマそのものは、私の専門ではありませんから、専門家から聞いたお話をもとにして、「科学とはそもそも何か」ということをお話したいと思います。

 まず、現在では、WHOなどでSARS-CoV-2と呼ばれている新しいウイルス、病原性のウイルス、英語ではVirusと言います。日本はどういうわけかちょっとドイツ語ふうに、ドイツ語でも“ウイルス”とは言ってないですけども、なんかラテン語ふうに“ウイルス”という言い方が一般的ですね。日本での一般的な名前で言うことにしましょう。もう日常的な会話の中にさえ出てきた“ウイルス”という言葉でありますが、非常に不思議な生命体で、生命体として基本的な機能を持ってない。細胞膜さえ無い。単細胞レベル以下なんですね。要するに遺伝子情報しか持ってない非常に原始的な生命体でありながら、その遺伝子情報を複製するということに関して、まるで生物のように生存本能があるかのように、自らを変異させ、病気を発現させる。そして、そのことによって、根絶やしになることを避けて、あまりにも賢く振る舞う。そういう生命体に、世界中が翻弄されたこの数年でありました。この数年間に人々が払った有形無形の犠牲。人生の大切な命を失うという人もいれば、健康な日々を失うという人、また楽しい毎日を数年間にわたり失ったという人を含め、多くの人々ほとんど全人類が被ったまさにパンデミック。世界的な大災害と言っていいような、そういう病気の厄、病厄ありました。

 昔の人はこういうようなものが流行った時に何もするすべがありませんでしたから、ひたすら神に祈り、生贄を備えたり、いろんなお祓いをしたりしてきました。今では、そのような宗教的なおまじない・呪術が所詮気休めでしかなく、自然現象に対して人間の知恵を結集して立ち向かう。これが自然科学的な姿であると、人々は思っています。確かに、全く根拠もなく厄祓いをする。ただ「恐れ多くも畏くも」、そういうような言葉を使いながら旗をひらひら振るというようなものだけで、最悪が逃れられると素朴に信じていた時代の人々のことを私達は笑うことができないくらい、「自然科学聖教」あるいは「自然科学教」というものに帰依しているのでは無いでしょうか。「科学的にこのことは想定された」と言うと、それがまるで宗教家が語る神々、あるいは仏、そういう人間を超越した存在からの声であるかのように、それにひれ伏す。それを自分の生きる「よすが」として、そういう傾向があるように思います。

 しかし、本当の意味で科学的とはなんでしょうか。例えば、医学というのは果たして科学と言えるのでしょうか。これはいささか過激な問いであります。医学の研究者たちも、本当に頑張って医療分野を科学的な学問としようとして日々努力しています。基礎医学の発展は、本当に目覚ましいものがありますね。我が国では、基礎医学の研究というのは一向に進まない。もっぱら表面的な治療法、例えば外科治療、「God Hand神の手」というふうに外科医を讃える。そして、写真を見る、透視画像のようなものを見るだけで、病気を的確に見分ける放射線の名医を見て、「神の手」というふうに神という言葉を気楽に使っている。しかし、所詮は人間がやっている外科治療が、今はコンピュータサイエンスが入ってきて、その助けを借りて、ずいぶん精巧な手術ができるようになった。私のようながん病を患っている患者にとっては、いわば外科医がやるよりもコンピュータロボットがやる手術の方がよほどうまくいくというくらい、精巧な手術もできるようになっている。こんなことが科学なのでしょうか。実はそうではなくて、それは単なる技術ですね。日本の医療の世界が、臨床医が実際の病気にかかっている人の悩みを救うことに力点が置かれているということは、私たち庶民から見ればありがたいことではあるんですけど、これをいくらやっていても、本当に医学が進歩するわけではない。そもそも先ほど紹介したダヴィンチなるような、人工知能を利用した手術の装置はものすごく高額なものだけど、多くの大学病院はそれを何台も購入している。その何台も購入しているっていうことは、開発して儲ける人たちがいっぱいいるということで、特にアメリカからの技術輸入というのは軍事費を上回る勢いです。戦闘機を買うのは馬鹿馬鹿しいっていう人はいっぱいいます。そんな軍事費にかけるくらいだったら医療費にかけてよと、そういう人がいっぱいいる。果たして先端医療の道具を買うことによって、私達が手に入れるものは一体何なんだろうか。そういう根本問題を考えてほしい。

 私達が永遠の命を得るとか、私達が昔だったら不治の病と言われたものから回復し、元気を回復して世のため人のために尽くすというのであれば、それはそれで素晴らしいですね。しかし、本当にろくでもない人生、それを永らえさせたところで誰が幸せになるのかという根本問題を、多くの人は考えていないんではないでしょうか。日本は国民皆保険が進んでいます。医者にかかるのはただだから、特に高額医療なんかというと、高額医療というのはとても個人が負担できるようなものではありませんが、それは研究費の費用ということになり、いわばモルモットになるかわりに将来の医学の進歩に寄与するということで、医療費が特別に免除される制度です。それが大々的に活用されているわけじゃない。しかし、これも新しい技術が日本で開発されているというのなら素晴らしいことですね。しかし、世界で開発された外国の技術を、「日本に私が最初に輸入した人間である」というふうな言い方をして、特許料をアメリカに貢ぐその先兵として活用するというのは、あまりにも情けないのではないでしょうか。もちろん日本の医療界の中にも、国際的なパテントを取って、国際的な医療マーケットで日本にお金を環流させてくれているドクターもいらっしゃる。そういう例外的な存在を、私は全く無視するつもりはない。そういう人たちが活躍しているということもよく知っている。そして先ほどめったにいないといった、臨床医療ではない基礎医療あるいは基礎医学って言われる世界で、世界をリードする研究をしている目立たない日本人が存在することも、これも私はよく知っています。私の近しい友人で、基礎医学の最先端に立つ人から、ウイルス学がいかに困難であるかという話は昔から聞かされておりました。ですから、COVID-19が国際的にニュースになったときから、実はこれが持つ波及効果の大きさというものの、それを人類が克服するということが、容易なことではない。しかしながら、ウイルスと人類は長い間共生してきた。私達がウイルスに対して打ち勝ったことは一度もない。だけど、いつの間にかウイルスに対するという免疫という力を人類は種として獲得して、ウイルスと人類が一種の平和共存というか、お互いに絶滅してないわけですから平和共存と言っていいと思います。何人か毎年犠牲者は出ますけど、犠牲者が少なくて済む状況ができてきているわけですね。細菌に関しても同様、今、細菌に関しての方がむしろより恐ろしいかもしれない。私達は、細菌という高等な生物に対しては、抗生物質というものの発明によって、絶対的なアドバンテージを持つかに見えたわけですが、細菌はなかなか賢くて、ずる賢い。次々と突然変異を起こすため、その抗生物質して効かない形のタイプを作り出していく。そういうスーパータイプに対して、新しい抗生物質が開発されれば良いのですが、抗生物質の開発にはすごくお金と時間がかかる。それでいてその抗生物質が効く間は非常に短い。またたくまにそれに対して耐性を持った菌が登場してくる。そういうことが明らかになってしまったら、製薬会社は人類の福祉のために頑張って闘っているのではなく、自分の金儲けのためにやっている。金儲けに反するような基礎研究には、R&Dのリソースを購入しないわけですね。従って、新しい抗生物質というのは大きな製薬会社からは決して出てこない。私達は近未来に予測されるスーパー耐性菌のパンデミックに対して、真偽を問わなければならないと思います。

 最初の科学の話に戻しましょう。つまり、医療というのは技術であって、その技術を支える科学の部分に未解明のところがたくさんある。例えば、“突然変異”っていう言葉を私達は気楽に使いますが、突然変異というのはどうして起こるのでしょうか。なぜ突然変異がうまい具合に起きるのか。19世紀の生物学に突然変異がいたるところで起きているんだけども、そのうち種にとって好都合なものは生き残る。そういうような生物合理性に基づいて進行しているんでしょうか。それとも確率論的なプロセスとしてランダムに進行しているのでしょうか。もし確率論的に進行するんだとすれば、近未来にはどのようなことが予測されるのでしょうか。そういうようなことが言えて、初めて突然変異に関しても、科学的ということが言えるようになるんだと思いますけれども、「突然変わりました」、これで科学と言えるのでしょうか。これは分類学ですね。博物学というふうに昔は言いました。言ってみれば科学の出発点、いわば原始的な科学、科学の卵、科学の幼児、科学の幼な子。それが科学を生んだ元になったものであります。決して科学と言えた代物では無い。なぜかっていうと未来予測ができないから。実際コロナウイルスに関して言えば、最初の頃話題となったアルファー株からデルタ株、そのデルタ株というのはもう本当にデルタというギリシャ文字を国民に教育する上で非常に有効だったんじゃないかと思うくらい流行りました。国際的にはデルタの後にいくつか続くわけですが、日本人はデルタの後をほとんど知らないですね。そして突如としてオミクロンというのが出てくる。デルタからオミクロンまでギリシャ文字はいっぱいある。そのところはあまり大きな話題にならず、オミクロンっていうのはギリシャ文字ですけど、小さな「o」ですね。大きな「O」をオーメガと言います。ギリシャ文字の「o」には二つある。そのオミクロンの時代から、患者が非常に増え、感染率が上がった。株が変わった。このことについて、これはオミクロン株だと想定することはDNS検査のような装置を使えば見えるわけでありますでしょうけれど、これでどうして急に発症率が高くなったのか、感染率が高くなったのか、それで重症者が減るのか。そういうことが言ってみれば、遺伝子レベルの相違によって、こういう結果が異なるということを説明することができたらば、科学に一歩近づいたと言えますが、「オミクロン株になった途端に、その症状の立ち表れ方が、現象が変わりました。従って従来のワクチンは必ずしも有効とは限りません。」そういうようなことを言うに至っては何のために今までワクチンを打ったのか。これは、基礎医学の研究者の責任というよりは、政治家の責任だと思いますけれども、その政治家が自分たちの意見をまとめることができないまま、頼りにした「有識者会議」というかっこ付き学者たちの意見の責任であると思います。

 「わからないならわからない」というのが科学であって、「わからないことをわからないまま、わかったふりをする」というのは占い師に過ぎない。私が親しくさせていただいているある有名大学の放射線学の教授が、「放射線学と言うのは科学的な占い師である」と、うまいことを言うもんだなって、つくづく感心いたしました。それは実際先端的な核医学と言われる分野で使われている放射線の読影のための科学はあまりにも難しい。何が、どうしてそうなるのか、そういうことを理解することは難しい。しかしながら、ある種の画像からは、ほとんど高い確率で断定して良いということに、確定診断近い結論を導くことができる。科学的な占い師というのは、これがその病気であるということが科学的に解明されているわけではない。自分がやっていることは占い師に過ぎないと謙遜なさる。一方、占い師をするまでのプロセスが科学に基づいている。科学といっても、言ってみれば、ビッグデータに基づいて多くの治験に基づいて、あるいは臨床にデータに基づいてのことでありましょう。本当の意味で科学的というふうに言えるためには、占いの技術と科学、つまり臨床的な所見データと繋ぐための理論ができなければいけない。理論がないままとりあえず役に立てばいいやというのも、人間にとって大切で、これが事実です。「なぜ」ということよりも、どういうふうにしたらうまくいくか、このことが中心的な話題になる。そういうことはあっても一向に差し支えない。しかし科学の科学たる所以は、わかることとわからないことの区別がつくということ。これは科学の非常に残酷なところ。科学は最後の最後まで、実はきちんと明らかにできるか。実はそうではない。あるところで、そこは私にはわからないと言わなければならない。そういう限界を持っている。科学者はみんな自分たちが宗教家でないので、全ての事はわからないということをよく知っている。ですから、決して宗教的な事柄に対してまで断定的に立ち入ろうとはしない。科学的にあんなにすごい人と言われた人が、あんなに宗教に対して敬虔深いのは信じられないと、科学を知らない人たちはしばしば言うのですね。人間、神ならぬ人間にあっては、全てのことが神様のようにわかるわけではないということ。これを科学者はみんな感じている。

 ただ、医療に恩恵を受ける私達は、「医療というものは医療技術に過ぎない。したがって科学的に100%絶対確実と言われるものではない。」そういうことを知らなければなりません。医療の中で、特にこの3,40年ほどはっきりしたのは、エビデンスに基づく医療っていうことで、経験に基づくというだけではない、きちっとしたデータに基づいて医療的な判断をする。EBMというキャッチフレーズが流行った時代がありますけれども、今当たり前の話です。日本の医療の世界の人は、知的な面では世界的に最高水準で、今の油の乗り切った世代というのは医学部が最も難しかった時代に医学部に進んだ人たちでありますから、その人達が集団として集まっている日本の医療界っていうのは世界最高であると思いますが、日本は研究の分野に世界から遥かに遅れている。それは何かというと、日本の医学会がその秀才たちを向かい入れたにもかかわらず、きちっと秀才たちに相応しい教育を与えることができないからということ。アメリカの医学会といえば、統計学というのは医者にとっては常識中の常識であること。日本の医療の世界では統計学を駆使していくことができる人はほんの一握りであります。ほとんどは学会が決めたプロトコール・手順に従って処方薬あるいは手術を、あるいはガイドラインに沿って診断をする。先端的な生命科学の知見に基づくとは言っても、学会あるいは厚労省の認定する基準でしかない。まるで無責任なサラリーマンのような、そういう生活を強いられている。おかしくありませんか。

 それは、医療の世界が日本では、未だに学問の世界と遠く隔てられているということに起因することである。本当の意味でも、「自然科学的な知」を大切にしなければいけないし、「なんちゃって自然科学」ていうか「自然科学なんちゃって」と言うんでしょうか、かっこ付き「自然科学」に対して人々がひれ伏している。科学の限界というようなことについて語ることができるまでに、科学的な知識が成熟していない。これは日本の教育システム全体の問題であると思います。特に高等学校、大学における自然科学教育の持っている大きな限界を、私はそこに見る思いがいたします。今回は、自然科学という、現代も人々の間で神のように信じられているもの、それの持つ限界についてお話いたしました。

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