長岡亮介のよもやま話187「好き嫌いの大切さ2」

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 前回好き嫌いの大切さについてお話ししたのですけれど、一番大切なことを申し述べるのを忘れてしまったので、それを付け加えさせてください。それは私が嫌いなもの、最大の嫌いなもの、最も嫌いなものを一つに、「弱い者の味方をする」という意見があります。社会的な弱者というのは本当に存在するということについて、私は疑いを挟みません。社会的なマイノリティの人々、少数派の人々は、しばしは抑圧される側に向かいます。この社会的な弱者に対して、いたわりの目を持つということはとても大切です。

 前にお話したかもしれませんが、私は視力が弱い他に生まれつき色覚異常・赤緑色弱というものを持っていて、これは遺伝性のものであります。赤緑色弱というのは赤と緑の区別がつかない。皆さんは色神に正常の人は、赤と緑の区別がつかないなんて正反対のもの、じゃクリスマスツリーなんかは全然わからないじゃないというんですが、おっしゃる通りなんですね。クリスマスツリーはすごく鮮やかな色のコントラストなんですが、私には遠くから見ると一緒くたに見える。でも近づいてみると、鮮やかな色の対照があるということが私にもわかるんです。不思議ですね。私は赤も緑もちゃんとわかるんです。でも赤と緑が混じっているとわからない。それが赤緑色弱というものなんですが、赤緑色弱ということで私はいろいろな意味で差別されている。本当に差別されてるわけでは必ずしもなくて、赤緑色弱っていう「色に弱い」という言葉を頂戴しているという程度で、社会生活を送る上で不自由するということはないのですけれども、大島なんかについたときに、みんなが椿が咲いているので、「うわっすごい。椿が満開だ」とか言うときに、私はわからない。椿の真緑の葉っぱの中に真っ赤な椿の花が咲いているのがわからないですね。でも、よーく見て椿の花を同定することができると、椿の色が本当に綺麗だということがわかる。それはクリスマスツリーと一緒です。

 ちょっと話は脱線しましたけど、私もそういう意味で、色神に関して社会的なマイノリティの中にいます。でも社会的なマイノリティだからといって、それで同情して欲しいと思わない。社会的な弱者であるんだから運転免許の、交通違反に対して少し甘く見てくれよというような条例がなくてもいいと思います。アメリカなんかで発信された運動で、黒人が長い間差別に遭ってきた、あるいは女性が長い間差別に遭ってきたっていうことでもって、「黒人や女性に対しては、大学入学とか、あるいは社会的なポジションを得るときに、特別な配慮をしよう」という運動が盛んでありますけれども、私はそれはある程度は仕方がないことだというふうにも思いますし、本当の社会正義というのを実現する上で、それは通らなければいけない道なのかもしれないとも思いますが、私はもっと根本的に、「本当の社会的正義とは何か」という問題の方が本当は深いと思うんですね。

 社会的な公正さ、フェアネスというのを実現するということは、本当は極めて困難なことであるということを自覚することの方が大切だっていうふうに思っているのですが、最近の世の中の風潮では、社会的な弱者・マイノリティの立場に立つ人々が声を合唱することによって、マジョリティーになっている。それが非常に不潔だ。自分たちが社会正義の側に立っているという、いわば社会的な横暴ですね。謙虚さを忘れた社会的なマイノリティの声の代弁者、私はこれが大嫌いです。これをはっきりとここで申し上げたいと思います。私は社会的なマイノリティを擁護する1人でありますけれども、私は私の実践においてマイノリティの側に立つ。そのことにおいて他人に負けないつもりですけれども、私は、「他人に対して自分は社会的な弱者の側に立つ人間である」ということを振りかざすということに対して、私はそれを大嫌いな意見として取り上げたい、真っ先に取り上げたいものの一つです。私は、弱者に寄り添って生きるということは大切なことですが、それはみんなに自慢することではない。人間としての義務であると私自身は考えているということです。このことを申し添えることを言い忘れてしまいましたので、付け加えさせていただきました。

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