長岡亮介のよもやま話186「基本的人権を巡って」

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 ここでは前回のお話の中で触れようと思いながら、途中から話の本筋のためにそのことについて詳しく触れることをせずに、言葉だけに依存した“基本的人権”という重要な概念について、お話したいと思います。

 というのも、“基本的人権”という言葉もわが国では、共産主義や自由主義あるいは個人主義と並んで、正しく理解されているとは思えない重要な概念であるからです。基本的人権と言うのは、人間一人一人の侵しがたい権利、それを侵すことはできない。tautologyですね。つまり同義語的に自分自身について循環していますから、証明になっていないかもしれません。侵しがたい個人の権利を個人的人権と言い、個人的人権とは何かということについて説明したことになってない。この概念のこの難しさのために、「人間として尊厳を持って扱われる」、そういうふうな言い代えはできると思うんですが、これが個人として、一人前に扱われることというふうに拡大解釈され、さらには、今日本で一般に行き渡っているのは、「個人として尊重されること。」あるいは「人と同じような処遇を受けること。」「人と同じような待遇を受けること。」そういうふうにどんどんどんどん広く解釈され、はっきり言えば誤解されていると思うんです。というのは、基本的人権というのは本来は何かというと、「一般に人に迷惑をかけない限り人は何をしてもいいじゃないか」と、日本でしばしば語られる内容、そういうふうに言えばわかりやすいかと思います。他人に迷惑をかけない行為であれば、それなりに他人がこうこうこういうふうに押し付けることはできないということ。より具体的に言えば、どんな職業に就きたいかとか、どんな人と家庭生活を作りたいかとか。どんな子孫を作りたいあるいは作りたくないか。どんな人生を送りたいか送りたくないか。そういう問題については、最終的に根拠をもって語るとすれば、宗教的な権威に頼る以外に答えの出しようもない問題だと思うんですね。

 子供の頃はよく親に好き嫌いするんじゃありませんと、そういうふうに言われました。それは好き嫌いがあると、食べ物の話ですが、栄養が偏る。栄養が偏ると人間として動物としての成長に好ましくない。そういう親の思いから発した言葉であるわけですね。しかし一人前の大人になったときに、その大人になった人が、「僕はニンジンが嫌いだからニンジンは食べない」とそう言ったところで、それはその人の勝手ですね。「私はニンジンが嫌い。だからニンジンは食べたくない」というときに、「いやあなたはニンジンを食べるべきだ」と、いうふうに割り込んでくるのはいささか余計なお世話だ。あまりにも介入が激しすぎるのではないでしょうか。ニンジンを食べるか、食べないか。私が子供の頃ニンジンが大の苦手でありました。しかし今はニンジンが大好き。ですから、ニンジンがない温野菜、私は温野菜のサラダが好きです。自分一人でいる時も作る。作ることは非常に簡単です。この温野菜のサラダの中に、ニンジンとかポテトとかが入っていないと寂しいですね。私としてはニンジンが大好きです。他の野菜も好きです。ニンジンはことのほか好きです。でも私が好きだからといって、これは美味しい、こんな美味しいものを食べないとは人生の損だ、とそういう表現をすることがあったとしても、それは他人にニンジンを食べることが人間にとって義務であると言っているつもりは全くありません。ニンジンを食べない人がいればいいじゃないか。そういう人がいても全然構わない。ニンジンの値段がそれによって高騰しないということがあれば、私にとってむしろいいことだとさえ思います。

 同様のことは蟹味噌についても言えますが、蟹と言うのは美味しい食べ物でありますけど、その中でも越前蟹とかあるいは毛蟹の蟹味噌と言われる内臓部分の美味しさは、代え難い美味しさ、本当に例えようのない美味しさです。しかし子供たちの中にはそれを気持ち悪がって食べない子供が少なくない。そういうときこれは美味しいから食べてみろというふうに勧めるのは、非常に優しい親ですね。私自身が、自分の子供がそうであったとき、「そうか。それはお父さんが食べてあげるよ。」その代わりに私は蟹の足を交換に与えたというふうな等価交換をした。今大人になった子供たちはそのことについて、あの頃騙かされたというふうに言いますけど、まさしく騙していたわけですね。好き嫌いも別に直さなくていい、食べ物に関しては。同様に秋刀魚のはらわたなんかについても、ホタテの紐についてもそう。無理やり食べなくてもいい。鮎のはらわたはこんな美味しいものはないと思いますが、苦手な人も多い。苦手な人に無理やりこれを食べなかったら人間じゃないって言うつもりはない。それよりもあゆのはらわたの値段が値上がりしていく方が私にとってはより辛い。

 神様の権威でない限りは、それにこうすべきであるとかすべきでないとか、そういうことを強要することのできないような事柄について、まるで神の名を騙るかのように他人にそれを強制する。それは許されない。人は基本的人権という侵しがたい権利を持つ。それは神様以外の人が言うことに対して、こうこうこうしてと言うことに対して、そのことに合理的な根拠を求めることができないならば、人からとやかく言われる筋合いはない。

 一番基本的な人権は「何時に寝るか、何を食べるか、どんな服装をしたいか、どんな化粧をしたいか、これについては、人それぞれの好みっていうのがあって、その好みの根拠と言うものを深く探ろうとすると、すぐ宗教の壁にぶつかる。それにぶつかることなしには、自分の所望を完結することはできない。そういうことよくある。「それは私自身が気に入らない。私はそれは好きでない。」と言うのは自由で、同様に他の人がそういうことをしているということに対して、「それは下品だ。品がない。それは身分の卑しい者のやることだ。」そういうふうに言うのはいささか差し出がましい。その差し出がましいということについては、それぞれの人に固有の権利があって、「差し出がましい人から申し出を全て拒絶する。」そういう生き方を取ることが許されるんだ。これが基本的人権の基本的な立場だと思います。

 基本的人権の代表は言論の自由、信仰の自由ですね。あれは邪教であるとか、あるいはあれは人を惑わせているんだ。そういうふうに非難する人がいますけれども、正々堂々と批判することは自由である。しかしながら、人々の持っている心の内面に立ち入って、それは自分は許せないというふうに、その人の生き方の中で最も大切にしていたあろうもの、それをズタズタにしていくっていうことは許されない。これが基本的人権の最も重要なところです。つまり、宗教的な道徳心、そういうものをもってしか語れないようなことについては、あえて人に押し付けてはいけない。一人一人の人間に侵しがたい権利としてそれが留保されているんだということ。それをみんなで認めようじゃないか。これが基本的人権の考え方です。ですから、自由に歩くのを禁じる。例えば監獄。お前は顔つきが気に入らない。目つきが気に入らない。だから牢獄に居ろ。とんでもないことですね。私の目つきが悪いのは私の生まれつきです。そういうふうに言いたいところだと思います、監獄にいれられた人たちは。しかし、社会的な犯罪を犯し、その犯罪性がきちっと立証される裁判というものがありますが、その裁判を経て有罪となった者が勾留される。基本的人権が奪われたとありますが、それは他人の基本的人権を侵した者に対する罰としてある。一般には、基本的人権を重視しないということはあり得ないことである。とりわけ宗教的な信仰に対して、それは邪教である。お前たちはアヘンを吸わされて騙されているんだ。そういうふうに勝手に他宗派の人が罵って、信心深く信じている敬虔な信徒を牢獄につなぐというようなことは、許されてはいけないんです。でも、全ての人々は何らかの意味で、無神になる。私は信仰を持っていないという人は、信仰を持っていないという宗教を信じている。無信仰という信仰を信じている。神がいないという命題、それを信じている。証明されたわけではない。物理学的にあるいは数学的に、それが証明されたわけでもなんでもない

 そういうことで、合理的な根拠に基づかない形で、個人の侵しがたい権利に立ち入ってはいけない。これが基本的人権の考えです。だから、例えば「長岡は人をバカにする。基本的人権を無視しているよ」というふうに言われていること、半分冗談で言われているのですがよくある。しかし私はその時いつも答える。「いや、私は基本的人権を無視していない。君みたいなバカをバカと言って何が悪い。もしバカを利口と言ったならば詐欺じゃないか。バカはバカというふうに言うことの方が正しいんだ。」そういうふうに、これも半分冗談ですが、言って笑い飛ばしていました。人を馬鹿にするっていうのは、自分を偉そうに見せるための態度としてそれをやっているのならば本当に愚かだ。だけどバカをバカであるということを自覚させる。自分の能力の足りないところ、自分の理解の浅いところを指摘してもらうっていうのは、「ありがとうございました。尊師」、そういうふうに言われなければいけない。尊師という言い方は今では悪い使われ方が多くなったので、使いづらいないかもしれません。元々中国が、先生のことを表す老師、年取った師匠と言ったのですが、今の現代中国語では先生っていうのはただのなになにさんというだけという意味です。だから中国に行って、政治とかの幹部から何とか先生という色紙を送られて喜んでいる馬鹿がいますけれども、それは何なになに様ということですね。それに対して、老師というふうに言われたならば、それは先生として尊敬されたことです。中国に儒教の伝統が生きているとは、私はあんまり思いませんけどね。先生という、教えを乞う人に対しての尊敬心が辛うじて残っている国々というと、やはりアジアの国々ではないかと思う。アジアの国々でも日本を初め先進的なところでは、だんだん先生の社会的なステータスが落ちていくという情けない流れですね。これは多くの先進国で同様の悩みを抱えているわけです。バカをバカと言ってなぜいけないっていうことがわかるようなくらい、昔は馬鹿と言われる人たちは利口でしたね。しかし最近は、愚かな人が増えているせいか、そういう愚かな人に向かって、本当に愚かな人に向かって愚かというのはやっぱり真実をついているからきついのかもしれませんね。偉そうに人を傷つけたと、そういうふうに色をなして怒る人がいるという話を聞いたことがある。私はそういう人に直面したことは一度もありません。

 最近の出来事ですが、たまたま中学3年生、若い少年少女と間接的にインターネット上の講義、今の形で対面した中で先生が子供たちに「うるさいぞ。静かにしなさい」と注意した。私は中学3年にもなって静かにしなさいと注意する方がかったるい。で、一喝した「黙れ!中学3年にもなって、黙れ、そんなこと注意されたったダメだよ。お前たちは幼稚なのか。どういう教育を受けてきた」と怒鳴りまくった。私は珍しく色をなして怒った。もちろん、色をなして怒るというのは色をなして怒った振りをする。これも教育的な演技の一つなんですが、それを聞いていた生徒諸君は、生まれて初めて叱られたと言っていたと、先生を通して聞きまして、びっくりしました。子供たちは、怒られることさえ失くなってしまったということ。これは子供たちにとってかわいそうなことだというふうに思います。基本的人権とかっていう難しい概念を、理解してもらうためには、一度や二度叱られるという経験を子供のうちに積むことことは大切なことなんじゃないでしょうか。私は基本的人権という近代民主主義社会の近代社会の最も重要な任務、それが誤解されている。結局、そういう基本概念が誤解されている上に成り立っている民主主義社会は、愚民性社会でしかない。そういう絶望的な気持ちが最近私の中で支配的になりつつあります。しかし、未来はそうであって欲しくない。心から願っております。

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