長岡亮介のよもやま話184「好き嫌いの大切さ」

*** コメント入力欄が文章の最後にあります。ぜひご感想を! ***#07203

 毎朝起きるたんびに眠い頭の中で、今日どんなお話をしようかなと考えているので、十分な思索の後に、推敲に推敲を重ねて世に問うという文章で情報発信するのと違って、このような音声を介して情報を発信するということは、映像を伴う発信に比べれば情報量が少ないように見えて、実は語る内容に集中することができ、私自身は今寝間着のままの姿でこれをすることができるという点で、より親密に皆さんに直接メッセージを届けることができる。そういう良さがあります。少しでもちょっとでもかっこつけなければいけない。例えば、テレビの場合ですといわゆるメイクっていうのを男性でもやる。それは理由は簡単で、実は今のカメラですとどんなに照明を上手に当てても自然色を出す、とりわけ人間の顔色を出すということが難しいんですね。ですから、そのカメラ用にそういうふうに化粧する。私は自分がそういう放送を中心とする大学に勤めていたこともありまして、「映像というのは全て虚偽である。いかに映像というのは、精密に情報を伝えるような仕方でありながら、いかにそのフェイクというか、虛議を意図的に演出することができるか」ということを痛感しております。むしろ音声だけ、あるいは文字だけの方がよほどごまかしがきかない。そういうところがあるんですね。私はそういうわけで、当初映像を考えていたのですが、それをやめて、簡単な文字情報を起こしてもらう。そういう現代のテクノロジーに訴えて、皆さんにメッセージを伝えているのですが、その内容を毎朝まどろみながら考える。そういうわけで、きちっとした原稿を作ってるわけでもありませんから、体系性があるわけでも、論理的な緻密性があるわけでも、あるいは首尾一貫性があるわけでも必ずしもありません。でも、その分だけより直截に、つまり一番大事なところを直接的に皆さんに私の心からのメッセージとして伝えることができるんではないかという良い面もあるか、と最近感じている次第です。

 ということを踏まえた上で、今日皆さんにお話しようとしていることは、このような情報の氾濫する社会にあって、様々な情報がありますね。私が言っていることも情報の一つでありますし、私が言っていることと正反対のことを言っている人も世の中にいらっしゃるでしょう。私は、私と正反対のことを言っている人たちはみんなよこしまな意図に基づいていると、そういうふうに断定したいところですが、それほど簡単ではありません。私と全く異なる結論を導く。そういう立論をしている人の中にも、やはり立派な立論をしているというふうに思わざるを得ない。そういうものがあります。他方で、こんな連中は本当にカスだというふうに、日本語だったら唾棄する、唾を吐いて捨てる、そういうような人々の意見、それが堂々と語られてるのを見て、聞いてるこちらの方が恥ずかしくなるというものも、少なくありません。私は、そういう二つをどのように判断しているか。「その立論が正値であるかどうか。論理的であるかどうか。首尾一貫しているかどうか」ということ以上に、私の場合は、私自身の非常に主観的なと皆さんに非難されるでしょうが、そういうcriterion基準があるんですね。それは、「それを語っている人が立派な顔をしているか。立派な表情をしているかどうか」ということ。「その声が、私が耳を傾けたくなるような声であるか、それともそうでないか。その語り口が美しいか美しくないか。その言葉が私の心を打つか。打たないか。」そういう私なりの基準なんです。こんな主観的な基準で、割り切ることができるかと、皆さんは心配になるでしょうが、私自身の中ではこれはかなりはっきりしていて、私が嫌いな、私としては許せない、そういう結論を導く人々の話の中にも、それを引き込まれて聞くということが結構あります。それは私の好きなタイプの語り口、好きなタイプの表情、好きなタイプのイントネーション、好きなタイプの論理構成、そういうものに惹かれる。そういう人たちのものは好きなんですね。それに対して、この人はかっこだけつけているとか、この人は無責任に喋っているとか、この人は結局のところ何も言っていないとかってそういう議論をする人は、いかに偉そうに喋っていても、私はあまり評価しない。というより、そういう人の意見を私はいわば生理的な嫌悪感というのを感じて受け入れてないわけです。

 私は「人々の意見を謙虚に聞かなければいけない」と常々そう言ってるんですが、そう言っている私自身が人々の意見を聞くときに、そのような非常に主観的なフィルターで人々の意見をフィルタリングしている。つまり私の心の中に届くものと、心の中に届く前にはじいているもの、それを区別しているということを、正直に告白しなければなりません。もしそのようなフィルターをかけないとしたら、世の中に氾濫する情報の中で、何が正しいかということを判断するのに、私自身がそれぞれの分野の事柄に関して、今よりもっともっと勉強しなければならないということになるでしょう。私には私自身が最も重要な関心を抱いている分野は数学、そして数学教育という世界がありますので、その世界を超えた分野に関する勉強時間というのは当然限られてしまうわけです。私は自分の専門分野に関して業績を残したいと思っているわけではありませんけれど、しかしやはり自分が一番関心を持っている分野にどうしても多くの時間を割くということは、人間として当たり前のことでありますし、それは人間としての義務でもありますね。そう考えて、私は他の分野に関して手抜きするということを、自分に対して、甘えて許しているわけです。そして、その他の分野に関しての意見あるいは情報を集めるときに、フィルターをかけている。それを好き嫌いで判断しているということです。

 好き嫌いというふうに言うのは、人の意見を好き嫌いで判断するって、とんでもないことだと普通は思いますよね。でも、私はあえて皆さんに好き嫌いというのが、人間にとってとても大切なフィルターであるということを、伝えたいと思うんです。「私がなぜこの人の表情が好きか、なぜこの人の声が好きか、なぜこの人の口調が好きか」ということは、私はその理由を分析的に語ることができない。この人は何となく信頼できるとか、この人は何となく素敵だとか、この人は何となく魅力的だ。そういうことで判断してるわけですが、そのように何となく私が感ずる感じというのは、私が人生の中で培ってきた経験に基づくのか、私の本能に基づくのか、それは私は理解できませんけれども、私の中にはっきりと存在するcriterion基準なんですね。この基準を信ずることなしには、私は判断することができない。で判断することができないということは、結局のところ無責任な人のように、「そういう可能性もないとは言えない」というような意味不明な発言をする。そのことによって発言をしたことにしている人が存在しますが、「どんなこともそんなことは絶対あり得ないとは言えないことはあり得ないというふうに断定することは不適当である。」こんな言い回しは無責任極まりないと私は思って、そういうことを言う人は大嫌いと言っていいわけですが、「責任を負わないということはみっともないことである。だからそういう人の意見は聞きたくない」っていう私の主観的な判断は、不適当だとお思いになるでしょうか。それとも、少し反省してくださるでしょうか。私は皆さんも、私のようにこのように語れば、長岡の言うことも決して不適当ではない。あるいはもっとさらに進んで、自分もそうだと思ってくださると思って、それを信じて、これを語っているのですけれど、好き嫌いの感情を大切にしてほしいと思うんですね。それは好き嫌いというのは、食べ物に関して親が「好き嫌いをしてはいけません。何でも食べなきゃいけません」というふうに私も習ってきましたけれども、それは栄養が偏るからで、大人になったら自分の好き嫌いを言ってもいいと思うんですね。

 食べ物に関しても好き嫌いを言っていいわけですから、他人の言うことに対して好き嫌いを言う権利、これは人間の本当の人権、基本的人権だと思うんです。基本的人権の大切さの中に、私が好き嫌いを入れるのは、私達が芸術を愛するときに、あるいは芸術的な作品に感動するときに、まさに好き嫌いが出ているわけですね。有名な評論家が良いと言ったからといってこの芸術は素晴らしいに違いないと思ってる人が少なくないのですが、有名な芸術家という評論家のお墨付き、それを得なくても素晴らしいものは素晴らしい。むしろ評論家の言う意見というのはあてにならないっていうことが、歴史は証明しているわけで、有名な絵画の絵かきであるヴィンセント・ファン・ゴッホ、彼の作品で生前に売れた作品は数点で、その数点っていうのは売れたといっても全部お金持ちの弟が買ってくれたというだけであるわけですね。美術の評論家たちは、ゴッホのことさんざっぱら悪口を言ってた。そういうふうに悪口を言われていた作家はものすごく数が多い。本当に生前に正当に評価された作家の方がむしろ例外的である、とそう言っていいんではないかと思います。

 ピカソのように若いうちから天才の名を欲しいままにした人もいますけれども、不遇のうちに人生を終えた天才たちもすごく多い。ゴッホはその典型だと思いますけれども、なんでゴッホの素晴らしさがわかんなかったんだろうと私は思いますけれど、現代人だったらみんなそう思うと思いますが、それくらい力強い作品で心を打つ。その作品が不当に評価されていた時代があったということは、人々が逆に評論家の意見ではなく、自分の主観でもって好き嫌いを言うということに対して、誇りを持っていいっていうことです。反対に評論家が良いと言っても、あるいは自分の友人が良いから聞いてみろと言ったからといって、それを鵜呑みにしてはならない。自分の心でもって、良い悪いというのを判断しなければいけないということです。私の近しい尊敬する友人に、知人と言うべきかもしれません、「あの人の言うことは嫌いだ。なんでかっていうと、私の大嫌いな人と一緒に対談してたから」、こういう理屈を述べる人がいるんです。私は、「それは、人生生きていく中でたまたまそういうことはいっぱいあるだろう。人は、過ちは犯すものである。でも、その人の犯した過ち一つをとってみて、その人のことを嫌いだっていうふうに言うのは、私はどうかと思う」というふうに、知人には申し述べるのですが、断固として聞かない頑固な知人がいて、私もその知人の言うことにそれなりの根拠があることを認めるだけに、つい沈黙してしまいます。

 でも、そういう周辺的な情報ではなくて、本当に自分がその人の顔が好きか、声が好きか、声色が好きか、語り口が好きか、ということに注目してもらいたい。音楽家で言えば、演奏家では、その人の演奏で本当に感動するかどうか。たくさんの同じ曲の演奏を聞き比べて、その演奏に深いものを本当に感じるかどうか。それで判断してほしい。そういうふうに心から思うのです。私に言わせると、ろくでもない人はろくでもない顔をしていて、ろくでもない喋り方をします。汚い喋り方をする人は意見もろくでもない、と私は思っています。私も決して喋り方が上手な方ではありません。私は何回も言いますように、子供の頃吃り吃音の持ち主でありまして、小学校時代、朗読が大嫌いな少年でありました。でも、いつの間にか教員という生活、人前で喋るということでお金をいただくという職業に就いたこと、そういう経緯があって、あるいはその前に学生時代に学生運動という運動に参加して、自治会というところで何百人も前にして自分の意見を喋らなければいけない。しかも説得力を持って喋らなければいけないと私は思っておりましたので、自らを鼓舞して、みんなの前で勇気を奮い起こして喋るということをやったわけでありますが、そういう経験を通じて、人前で喋るということの術を身につけました。

 そういうわけでその延長上で、こういうこともできているわけで、人生本当に“人間万事塞翁が馬”という言葉ではありますが、何が幸いするかわからないものであります。このように皆さんにメッセージを送ることもできるのも、私の人生の本当に予期せぬ様々な出会いを通して実現した経験を通じてであります。しかし、その経験を通じて、何よりも大切だと思ったのは、自分の好き嫌いの感情です。好き嫌いで人を判断してはいけないと小学校で道徳的に学びましたが、やはり嫌いなものは嫌いだということが、人間にとって一番大切なことではないかと思うことの多い、今日この頃であります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました