長岡亮介のよもやま話183「多数派の意見は真実とは限らない」

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 この世は今まさに乱世という言葉が当てはまる世の中で、昔の乱世では地方の地域の権力者がそれぞれ蜂起して、誰が一番強いのかわからないってという意味で、乱れた世の中、乱世であったわけですが、最近は言論の自由というのをいいことに、言ってみれば、情報発信がジャーナリズム、マスコミ、大きなジャーナリズムによって、またミニコミあるいはナノコミ、あるいはピココミというんでしょうか、YouTubeのようなものを通して、情報が誰でも自由に発信できるとなっている。このこと自身にかつて『伽藍とバザール』という本で、伝統的な文化様式がこれによって変わろうとしているんだということを見た人がいるのですけれど、『伽藍とバザール』というのは、インターネットの時代にはっきりしたことは確かでありますが、民主主義というのが私達の社会の基本原理になった市民革命以降、基本的な趨勢として根付いてきたものだと思うんですね。多数派マジョリティーがマイノリティに対して意見を言う、その意見を言うときの多数を占めさえすれば、それで社会の意思が決まるということです。

 最近の恐るべき風潮は、マイノリティの立場に配慮して、マジョリティーがマイノリティのために、いろいろなやってはならないことというのを定める。この傾向がはっきりしてきた点に、21世紀の現代日本社会あるいはアメリカ社会を見ることができるように思います。マイノリティの意見を尊重するということはとても大切なことですが、マイノリティの意見を反映するということは、本来そのマイノリティの立場の言い分をよく聞くということから出発するのですが、多くのマジョリティーが、マイノリティの立場を代弁して大声で語る。自分たちが正義の味方になっている。マイノリティの味方になっているというマジョリティー。これが、今の世の中を私は悪くしている一番の原因だと思います。マイノリティの名をかたるマジョリティーですね。大げさに言えば、例えば人間の知的な能力に関して言えば、本当に優れている人とあまり優れてない人、どちらが多いかといえば、優れてない方が多いわけです。大学にしても最先端の物理学とか数学とか、やはり非常に難しいわけですね。本当に難しいです。難しいことの中で、狭い小さな専門に閉じこもってそれをコソコソやっているという、必ずしも優秀でない専門の研究者もいますけれども、偉大な研究者というのは、大きな問題を次々と変えていく。解決していくというより、別の問題をそこに発見していくという方が正確だと思うんですが、そういうふうに革命的な業績を残している偉大な人々がいる。そういう本当に優れた人と比べると、一般の人々マジョリティー、例えば日本で言えば大学生が何十万人もいるわけですが、その何十万人もの中で、そういう専門家になれる人は、どんなに多く数えても年間2000人もいないわけです。本当は年間20人もいないくらい、少ないわけですね。マイノリティなんです、圧倒的な。だからといって学問の世界が、勉強の得意でないマジョリティーの意見に専制的に治められるとすれば、タイラントマジョリティーのできないタイプに治められるとすれば、大変なことになりますね。幸い学問の世界においては、最低限自分よりもできる人が存在するということに対して謙虚になるということが、当たり前のモラルとして守られているように思います。勉強のできない人たちが、学問のできない人たちが、マジョリティーとして学問をできる人をやっつけるということは、さすがに起きていない。これはすごく学問の世界の素晴らしい点だと思います。

 しかし学問の世界を離れると、マジョリティーが声を大きくする。声の大きい人たちが、自分がどれほど恥ずかしいことを言っているかということに気がつかない。具体的な専門に言及するのは、さすがにインターネットのメディアを通じては、この蛮勇という言葉通りの私でさえ時々ひるみますが、やはり本来は難しい問題に対して、難しい問題の中で多くの人の尊敬を集めている医療の世界っていうのを私がしばしば引くのは、尊敬を集めてない世界でそういうのを引くと、それを差別だと言って、またそのマイノリティの人がマジョリティーの顔をして発言をするのが鬱陶しいので、それを私は避けているわけです。マジョリティーの人々が、これは高度な専門であると思っている医療っていうのを引けば、私が医療のことを多少否定的に語ったとしても、それによって医療の人がコンプレックスを感じることはないだろうという思いからですね。医療を引くのは医療があまりにも難しい分野でありまして、学問として成立するためには、基本原理とか仮説とかいうのをはっきりさせなければいけない。その仮説とか何かをはっきりさせるということがそもそも難しいわけです。人間はものすごく多様なわけですね。そしてその人間を人という生物学的な種として同一視して、その一つの種に対して同じ治療をしたときにどのような効果が出るか。それを千差万別なはずなんですが、その千差万別の要因を捨象して、例えば「新薬が効くか、効かないか」ということについて、新薬と偽薬プラシーボの比較集団に分けて比較してテストをする。そういう統計的な治験を通して、エビデンス証拠を集める。こういうふうに医療が変わり始めてから約30年ぐらいだと思うんですね。アメリカから始まった趨勢ですが、もう今は世界の常識だと思います。結局のところ、エビデンスといっても統計的な真実にすぎなくて、統計的な真実の一番の弱点は、それは因果的な論理にはならないということです。因果関係というのは、「こうこうこういう理由で、このことが起こる」ということを、詳細に説明するということです。

 今、医療の世界でも基礎医学といわれる分野においては、そのような詳細なメカニズムに至るまで説明を詳細化するということに、成功しつつあります。そういう意味で医療は、今や本当に最先端科学といってもいいくらい難しいフロンティアを進みつつある。私は尊敬を込めてそれは語りますけれども、医療のような難しい分野においてさえ、ミクロのレベルで考えると、科学となりつつあるということですね。しかし、ミクロのレベルの科学が、マクロのレベルの人々の間の病気・感染というものに対してそのまま適用できるわけではなくて、どうしてもその間には「疫学的」という言い方をしますが、いわば統計学的なデータに基づくアプローチで、これが未だに支配的なわけです。統計的なアプローチというのも、19世紀まさにナイチンゲールによって開始されたと言っても良いような医学の新しい方法でありますけれども、その統計学的なアプローチによってしかわからないことでも、統計学を使えば明らかになる。これは素晴らしいことです。ただし、統計学を使うときに絶対に忘れてはならないのは、統計学的な真実と科学的な真実、あるいはそのメカニズムにまで、そのメカニズムという言い方は機械論的であまり好ましくありませんけれども、やはり学問的な根拠といってもいいかもしれませんね、その間には乖離があるということをいつも踏まえることが大切だ、とそういうふうに思います。

 でも、ともかく人は本当に千差万別なんですね、遺伝子が異なっているわけです。そして、いろいろな生きてきた環境、生活環境、これも異なるわけです。生物学で言えば獲得要因と言われるもの、それも千差万別。千差万別というのが、その言葉自身に昔の人々が、千とか万とかという言葉でもって巨大な数であったと言ってたのが本当におかしいですよね。実は私達が相手としている“分子”というような巨大なレベルでも、アボガドロ数っていう数、これを皆さん習ったと思うんですね。約6.023×10の23乗です。10の23乗、皆さん日本語の億とか京とか垓とかそんな言葉を使っても表現することができないくらい巨大な数です。そういう巨大な数に迫るようなビッグデータ、それをコンピュータを使うことによって取り扱うことができるようになっている。これが昨今のAIブームの根拠でありますけれども、データの数でもって圧勝するっていうのですね。統計的なデータの持っている凄さ、これがすごいわけです。単なる厳密な統計学というのではなく、AIにおいては最もらしいという値を数学的に推定するという方法がありまして、この基本原理は極めて単純な2次関数であるのですが、それについてはまたいずれ、数学のお話ということでしたいと思いますけれども、その最もらしさというのを、膨大な計算によって導き出すことができる。これが最近のテクノロジーの可能にしたものです。統計学的な推論を厳密な統計学を超えて、さらに計算機科学の力を借りて、最もらしく結論を出すということです。

 しかし、その最もらしい結論が科学的な真理であると思ってる人は、AIの研究者でも少ないと思います。AIの研究者がしばしば私に、「こんなにも良い答えがどんどん導き出されるということが、私自身も不思議です。」そういうふうにおっしゃる。それはそうだと思うんですね。コンピュータが学んでいくからといって、その学ぶのは人間が学ぶのと違って、より深い真理に開かれていくというのではなく、より最もらしい結論をさも本当らしく導いていくということでありますから、怪しいといえば怪しい限りと言うべきなのですが、そのようなことが可能になっている。ともかく、ちょっと話を脱線しましたけども、私達の学問領域の中では、言ってみれば、本当に深い真理まで到達することが難しい、そういう分野においては、とりあえず実用的にこんなふうに考えるのが妥当でないかということ、その妥当性、英語ではplausibilityって言いますが、その最もらしいっていうことですね。その最もらしさというのを、それなりの基準として採用して進んでいこうという考え方があります。これは20世紀の末から21世紀の初めにかけて大きな成功を収めた分野の一つであります。「最もらしい」ということが、人間社会において重要な意味を持つようになってきたということです。

 でも、忘れてならないのは、それは所詮最もらしさであって、深い真実とは別のものであるということですね。このことを私達は決して忘れてはいけないということです。これが理論的にわかるということと、データに基づいて推論するということの、決定的な違いであるわけです。もちろん理論科学においても、実験というものでデータに基づくということがありますけれども、例えばニュートン力学の法則、あるいはアインシュタインの一般相対性理論の法則、それを実験的に確かめるということ、特に前者に関してはニュートン力学レベルであれば実験的に確かめるということもできないわけではありませんけれども、しかしながらほとんどの場合、意味がないくらいの誤差しかない。significant errorというのは意味のある誤差っていうんですけど、それをやることに意義があるというんではなくて、それを無視することができないっていう意味でsignificantっていう言葉を使います。significantな誤差っていうのがなかなか出せないのですね。少なくとも私達の日常的な世界に関してはニュートン力学の法則は絶対的に正しい、とそういうふうに多くの人が感じています。しかしながら、それがマクロの世界、例えば宇宙、宇宙っていっても銀河系とかってそういう小規模んじゃなくて、本当に銀河系がいっぱいあるような大宇宙ですね、ビッグバン138億年前の大爆発によって作られたというそういう宇宙、その宇宙の創世記、そういうところにまで及ぶ力学としては、ニュートン力学は成功しない。あるいはミクロの世界、原子とか電子とそれを構成しているいろいろな素粒子、素粒子を構成している、言ってみれば素素粒子、クォークとかって言われるような世界で、そういうような世界には、ニュートン力学というのは、古典力学って言いますが、成功しない。そういう世界では、量子力学という別の、全く不思議な力学が支配しているっていうことで、ミクロ、私達の通常世界、マクロ、その3層構造のそれぞれの世界に、それぞれの世界の力学があるということ。これは私達の持ってる物理学のいわば限界なんですね。その三つを統一する大理論がいつか登場してほしいとは思うものの、不思議な事に、その三つは、三つで独立な世界を構成している。私達を取り巻いている自然の不思議さといってもいいかもしれません。何かしらの階層構造があるということです。その階層構造ということについて私達が思い知ってきたのは20世紀になってからでありまして、19世紀以前の人々は、宇宙は一つ、世界は一つと思ってきたわけです。我々は世界が一つでないっていうことを知っているわけですね。

 ところで、元の話に戻りますが、人間の遺伝子の多様性を考えると、一人一人は全部違うということです。一人一人の違いを生物学的な「人」というふうにしてひとくくりにして、人類皆兄弟とか、人は皆一緒というような原理を振りかざす。これは全くおかしいことだと私は思います。前にも言いましたが、金子みすゞが言ったように、人はみんな違っている。「みんなちがって、みんないい。」と言ったのは金子みすゞの名台詞でありますが、その違いを認め合うということ。つまり、違いを捨象することによって科学が成立するというのは確かなんですが、科学においては人の違いというものを、アブストラクトしている、抽象化してしまってる。それを捨て去ってしまっている。そのことを私達は忘れてはいけないということですね。「人はちがって、みんないい」という言葉は、DNAによる多様性の数学的な数の多さっていうことを考えると、本当に巨大な違いがそこにあるんだ。そしてそこにこそ、人間の個性とか、多様性という最も重要な価値観の根源があるんだっていうことに、私達は目の覚める思いで、それを知るわけです。おそらく全ての生物が、人間のように、様々な多様な個性を持って、多様な人生というか生命の過程を経て死んでいくのでしょう。人々の人生の過程というのは、本当に天文学的なというよりも、むしろアボガドロ数的な多様性と言ってもいいような多様性に富んでいるはずだと、そう思うんですね。

 そのように考えますと、私達の多様性の根拠というものが、実は決して不思議なものでなくて、ごく当たり前のことだということがわかるでしょう。例えば、私はアボガドロ数10の23乗というのはけたたましい数だっていうことを言いましたが、100万というのは、1の後に10進法で言えば0が6個つきますね。それを10の6乗といいます。100万Millionの上がBillionって言います。それは10の9乗、0が9個続く。その上Trillionになると10の12乗ってなるわけですね。私はTrillionの上のことは、日本語でも英語でも言えませんけれども、10の12乗、たったTrillionまでいっても10の12乗だってことです。10の23乗は、TrillionのTrillion倍のさらにそのまた10倍ということですから、けたたましい数であるということがわかりますね。そしてアボガドロ数というのは、皆さんの高校時代を思い出していただけばわかるのですが、水道から出てくる水、それを1cc取ってやると1gですね。18cc取ってやると約18g。その18gの水の中に入っている水分子の総数、これが10の23乗個ということです。気体で言えば、炭酸ガスでもアンモニアガス何でもいいんですけど、1種類のガスを普通常温上は1気圧で18℃、そんなところで22.4L入れると、その中に入ってる気体の質量がちょうどその18gとかってあるんですが、その中に入っている気体分子の総数が約6×10の23乗個だというのが、近代科学、近代科学といっても18世紀から19世紀前半にかけての話に過ぎませんから本来は古典科学というんですが、高等学校で教えてるのは近代科学現代科学とは言いながら、せいぜい近代的な味付けをした古典科学でありますので、そのようなレベルの理解に達している人は、今の話がよくわかるはずであります。

 自然科学のことを知るということは、実は社会生活についても、そして究極的には、「人間とは何か、自分とは何か」ということを理解する上でも、とても役に立つ。だから学校ではそういうことはなかなか教えず、死んだ自然科学の知識だけを教えている、ということだと私は考えています。いずれ自然科学や数学の内容的な話、それが短い時間でまとめられるトピックを見つけたら、そのお話をしたいと思っています。

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