長岡亮介のよもやま話182「真実の見分けの難しさについて」

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 つい先日は「悪意と善意」という、誰にとってもわかりきったと思われる単純な概念でさえ、それが現実社会の中に置かれているときには複雑である。正確に言えば、善意と思われているものは極めて悪質なものと繋がったり、悪意と見えているものが長い目で見ると実は善意であるということがわかったりというような可能性がある、ということについてお話しましたけれど、これに限らず世の中の全ての対照概念、対照概念ってのはコントラストをなす概念、それで私たちはついどちらか一方が正しく、どちらか一方が正しくない。そういうふうにいわば単純に断定したがる、そういう傾向を特に最近私達は持っていると思うんです。「あなたはどっちの立場なの」というように迫るような考え方はその典型でありますね。賛成なのか反対なのか。どちらかはっきりしろというわけです。しかしながら、世の中の実相、実の姿、それはしばしば非常に複雑でありまして、なかなか簡単に結論を出すというか、「毅然として生きるということは難しい、ということが多くある」ということに、私達は十分慎重に歩いていかなければいけないというレッスンを、それから一般化して引き出すことができると思います。

 「善意と悪意」のような、ごく身近な簡単なものでさえ、実はそうなんだということです。特に私は、例えばここでは「親切と不親切」というのを取り上げてみたいと思います。親切にあふれた行動、相手の立場に思いやった行動、これが不親切な行動に比べれば、小学校の道徳的にはもちろん良いことですよね。しかしながら、親切が実は余計なお世話だということがしばしばあるということを、皆さんは結構日常的に経験なさっているのではないでしょうか。親切に見える行為、私のことをこんなにも心配してくれたのか。よく健康問題情報に関してはそういうのを感じますね。「これであなたの高血圧は心配ありません。」「高血圧のあなたは絶対にこれをしてください。」絶対にこれをしろっていう日本語が私はそもそも嫌いです。「絶対に何々するな」という言い方は日本語としてありえますが、これは絶対専制君主の言う事で、友達から言われたくないですね。

 例えば、私の健康を気遣ってくれるであろうようなそういうアドバイス、あるいは「あなたはあなたの資産をこのように運用しましょう。」というプロポーザル。私は運用すべき資産もないので、あまりそういう手の誘いに乗ることはありませんけれども、そもそも誘いがかからないと言う現実もあるわけですが、あるいは私にとって深刻となってきましたのは「あなたの遺産相続に関して節税をしましょう。」税理士の人というのは必ず節税と言うのですね。税金を節約する。税金を節約するということは良いことで、脱税することは悪いことだと。税金の法律、税法の許す範囲内で税金を最小化する。そのことをもって日本では“節税”と言う言葉が使われているんですがおかしいですよね。税金を収めるというのは、本来は近代市民社会のいわば最も重要な掟の一つですね。その掟に関して実際上楽をしようというのが“節税”でありますが、“節税対策”などという言葉が大手を振ってまかり通っていること自身がおかしいと、私は感ずることが少なくないのです。私ももちろん税金を減らしたい。日本の国がこんなに無駄遣いをやたらにするならば、そういうところにお金を集めたくない。そういうところの権力を肥大化させたくない。そういうふうな気持ちがあるのは事実でありますけれども、自分が残すことのできるわずかな税金が未来社会のために使われる、こんな嬉しいことはない。基本的にはそう思います。しかしながら、今は節税対策というのが無条件に良いことのように思われている。そして、その運動をリードしているのが税務署に勤めていた元の役人。その税務署のキャリアとして上り詰めた人。上り詰めないで途中で脱落した人も含めて、そういう節税対策で活躍しているという人もいます。誠におかしなことではありますが、日本社会の定めたルールなんですね。

 ルールに従うということが良いことのように思われていますが、スポーツをするときには互いに競いますから、ルールを定める。そしてルールに従ってプレーするということが許されるというか、それが基本的な姿になるのでしょうけれども、「社会にルールがあるという考え方の基礎に何があるのか。社会のルールはどのようにして定めたら本当にいいのか」という根本問題を考える人は少ないですね。「社会のルールの方がおかしい」のではないかと、そういうふうに時々人々が思うようになれば、私は社会のルールがもっとずっと健全に運用されるようになると思います。法治国家ということを自慢している人々がいますが、法律によって全てを収める、それは専制君主が自由気ままにやったということに比べればずっとまともであると思いますが、法律っていうのは所詮人間が定めるものですから、その人間が特に力のある人影響力のある人、それが法律を書くこと、法律を定める原文、もとになるものに対して強い影響力を行使してできる法律、これは日本に限らずアメリカでもそうであって、ですからアメリカではロビイストっていう人が非常に大きく活躍する。日本はロビイストっていう形の人がまともにいないので、政治に意見を言う、影響力を行使するというのは、いわゆる圧力団体、政治資金をたくさん出す、そういう団体になるわけですね。こういう圧力団体によって作られた法律。これが、モーゼの十戒のように、絶対に守らなければいけない掟のようなものであるのか、私は甚だ疑問だと思います。

 例えば、日本で言えば道路交通法っていうのがありまして、スピード制限というのがあります。いたるところ警察が定めたスピード制限、それを守ることが本当に大切なことなのか、考えたことありますか。実はちゃんと警察官の公安委員会の上部の人たちは、そういうスピード制限を一律に要求するということが必ずしも社会的な正義でない、ということを一番知っているんですね。私はこれを実体験として知っています。私は夜中の非常に太い国道、誰も走っていないところでバイクを走らせていまして、スピード違反をした経験があるのですが、そのときになんとネズミ捕りをやっていて、それに引っかかりました。そして、大きなスピード違反で起訴されたということがありまして、そのときに当然免許停止というような処分が下るわけですね。本当に運が悪いなっていうふうに思いましたけれど、日本の警察っていうのはそういうもんだというふうに思っていましたから、そういうところで自分の点数を上げる。世間ではノルマがあるっていうふうに警察官に課せられているんだってそういうふうに思ってる人がいますが、日本の警察はそんなことはありません。しかし、そのように検挙率の高い警察官が上役の覚えめでたくなるということは、日本の公務員社会ですから避けられないですね。そういう中で、末端の阿呆な警察官が上司の覚えめでたくするために、夜中に暗い隠れた国道の角で見張っていたわけです。そこにまんまと捕まる私がとんまという他ありませんけれども、そうやって捕まった。その事情を話せっていうふうに誘導してくれた公安委員会の上層部の人がいます。私は話しても無駄だ、捕まったものは捕まった、というふうに思っていました。警察官というのは最も頭の固い公務員だろう、とそういうふうに考えていた私が実は愚かでありました。その公安委員会の上層部の人は、私の「言いたいことがあったらば、不平不満を上訴の形で書け」というふうに言ってくれたんで、私はもう思いの丈をかけてその逮捕がいかに不当であるかということを、書きました。本当に怒りを込めて書いたんですね。そしたら、「ちょっと待って」というふうに言って、「これを私が法律的な文章に直してあげるから」といって、だいぶ待たされましたけど、直してきました。そしたら、その直してきて、「これ、これでいいか」というふうに言われてびっくりしました。直ってきた文章は、「私は大変に愚かなことにも、あまりにもその状況がスピードを出すのに適していると思ってしまって、つい帰りの道を急いで、スピードメーターを厳しく監視するのをうっかりしてしまい、その結果スピード違反をしてしまいましたが、それに対してスピード違反をするという意志は毛頭なく、今後とも気をつけて運転をしてまいりたいと思っています」というような反省文になっていたんで、上訴文ではなくて、反省文なんですね。これでいいかというか、これは私が書いたものだいぶ違いますけどって言ったら、いいんだこれでとその方はおっしゃいまして、そういう形で訴えを出したところ、それが認められて、私は免許停止を遡って免許停止っていう形にしてもらって、実際上の免許停止期間は1日だったと思います。何で遡ってやったかっていうと、私にはそれ以外にも免許更新をしてなかったという違反があったからでありますけれど、警察っていうか公安委員会にも物のわかる人はいるなと思いました。警察官も上層部の人はそういう判断ができる。しかしそういう判断を全ての警察官、末端の警察官までさせるようになってしまったら、日本社会としてはもたないということも理解しているわけですね。公務員というのは本当は大したものだ。そういうふうに私はそのときつくづく感じましたけれども、そのような度量があってこそ、法治国家というのも成立するわけですが、杓子定規に法治国家、それを当てはめようとするととんでもないことになる。一番大切なところでは、法律の文面通り、きちっとやるってことが非常に大切でありますけども、法律は所詮人間が定めるものであるという視点を忘れてはいけないと思います。

 前回の「善意と悪意」から少し外れて、私達が日常的に使っている言葉・概念、とりわけ私達がすぐ善悪の対比として用いる対照概念で、対照概念の両極端にあるものに対してさえ、私達が常に批判の眼差しを向けることがなければ、自分たちが一人一人より良いものに変えるという努力を払うのでなければ、それが悪法になっていくということ。法治国家、奴隷に限りませんけれども、みんなが当たり前と思っていることは、決して本当の当たり前ではないということです。

「正義と悪」に関してもそうなわけですね。「正義と悪」、これは何か、これは既にプラトーンの時代から大きな哲学的な思索の的になってきたわけでありまして、幼稚園くらいの子供、小学校に入る前の子供、それが勧善懲悪の世界に生きるというのは、真に健全な成長の仕方であると思いますが、成人してからも勧善懲悪の世界に生きている人々が多いのは残念です。そして、そういう単純な人々に対して、一部の賢い人々が自分は勧善懲悪を超えたリアリストだから、というふうに言うときには、そのリアリズムっていうのは、人間の持っている行動形式の中に、利益に向かって走るということ、これが根本原理であるのだから、賄賂(わいろ)も収賄も、与えることも自分で受け取ることも、収賄も賄賂も極めて人間的な行為である。だから、このようなこと、賄賂(わいろ)で結びつくような人間的な結合、それを大切にしなければいけない。こういうことを考える人たちがリアリズムを語っているのですが、私はそれはリアリズムでも何でもない。人間をして、最も卑しい存在として落とし込めている。そういう人間観であり、その人間観を普及させるということは、私はとんでもないことだというふうに思います。

 賄賂(わいろ)ほどひどくはないとしても、例えば投資で儲けるというようなこと、それは未来に向けて自分がリスクを取ったわけですから、リスクを持った見通しに対して成功したときにリターンがあるということは当然だという考え方もあるでしょう。そして、その人のリスクを取る投資インベストメントなしにはビジネスの成功もなかったということを考えれば、投資に見合うリターンがあっていいんだということは確かかもしれません。しかし、みんながそのようなリスクを取って投資しているんでしょうか。ヘッジファンドなどと言われているものは、まさにヘッジ、リスクヘッジ、リスクを最小限に減らしてリターンだけを求める、そういう仕組みですね。そういう仕組みを作っているのはまさに数学であるわけですが、数学的な合理性を、リスクを最小にしてリターンを最大にする、こんなもののために用いている。最低の使い方だと思いますが、数学にはそういう威力もあるわけです。「ヘッジファンドで儲けるということがあたかも人間として良いことである」というふうに思われ、そしてそれが最近では日本では学校教育の中にも取り入れるべきであるというような勇ましい意見を言う人がいて、一体教育というものを何だと考えているんだろうか。「世の中で金持ちになるということが、無条件に良いことである。それが人間として、成長し、死ぬことの最大目標である。」そういうふうに思っているんだろうか。私は、本当に自分の常識を疑うほど考えさせられてしまうのですけれど、「金儲けよりも大切なことがある。得をすることよりも大切なことがある。本当に大切なことは何だろうか。」そのことについて教えるのが学校ではないでしょうか。特に小学校低学年のうちから、株主投資、そんなことについて勉強したところで、人間は賢くならないと思うんです。

 人間は元々利に向けて動く。それは動物の調教と一緒です。餌をやることによって動物を馴らす。人間の子供を動物のように餌によって釣って動く、そういうような人間にすることは、私は教育だとは思わない。私は教育というのは、繰り返し取り上げているテーマでありますが、「私達がともすれば常識だと思って通り過ぎてしまうものの中に潜んでいる深い真実、それを少しでも見つめ、より深い真実へと目覚めていく。そのプロセスが、いかに光に満ちていて、誇らしいものであるか」ということ、それを些細なことで良いので、それを体験させていくことでこれが教育だっていうふうに思うんですね。最後は我田引水的に教育の話に持ってきましたけれども、当たり前だと思っている対照概念の中にさえ、実は考えなければいけない深い問題がある、ということについてお話しいたしました。

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