長岡亮介のよもやま話180「善意と悪意の難しさ」

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 今回は、善意と悪意という問題について、少し考えてみたいと思うんです。もちろん、普通の意味で善意は、「善い意思」と漢字で書きますけれども、グッドウィルですね。悪意ってのはそれに対して、「邪悪な意図」でもってというような意味です。私が今回提起したいと思うのは、「善意ある発言」あるいは「善意から出た発言」というのが、時に人を傷つけることがあり、反対に「悪意から出た発言」というのが、その悪意故に、発言の意図が見破られ、たいして人に影響を及ぼさないということ。そういう逆説が、ときに重大な意味を持つという可能性についてお話したいと思うんです。

 この数年間COVID-19の猛威が、人々を縮こまらせたと思います。私自身は子供の頃、ひどい風邪、当時はインフルエンザと風邪の区別もついてなかった。実は今でもついてないんではないかと思います。インフルエンザはウイルスで起こる。従って抗生剤を飲んでもう無駄だということ。それに対して風邪はウイルスで起こるものではないから、抗生剤を飲んでおけば3日ぐらいで楽になるでしょう、とこういう話がなされますけれども、私から見るとチャンチャラおかしいという思いです。なぜそう思うかっていうと私は子供の頃、毎年ずいぶんひどい風邪に悩まされましたけど、それは今から思うと、いわゆるインフルエンザだったんだと思います。そして、本当に高熱と痛みと辛さに耐えながら、そのインフルエンザに打ち勝ってきた。同世代の人で、そのウイルスにやられてしまった人もきっといるに違いないと思います。

 しかし私は幸いなことに、生き残り組であったということなんだと思うんですね。多くのインフルエンザに打ち勝ってきた。したがって、今回、コロナウイルスにかかったのかもしれませんが、かかってないかもしれないという程度の軽度の軽症で、私自身はワクチンは効かないだろうというふうに思いながらも、付き合いで打ってくるという、非常に意志の弱い人間の行動パターンを自分自身で示してしまったのですけれども、周りの医療関係者のアドバイスを否定するのもちょっとはばかられて、それに従って円満に収めてくるという、非常に無責任な対応をとってしまったわけです。その結果、何回分ものワクチン接種を受けましたが、これにかかる総費用というのを請求されたら、とても払えないようなとんでもない金額になっているんだと思いますけれど、国がそれを負担してくれた。国が負担したということは結局、一言で言えば次の未来の世代の人たちが、その負担を押しつけられたということで、その人たちに対しては、感謝の気持ちというよりは申し訳ないという気持ちの方が強いです。というのも、実際にそれによって私は少なくとも重症患者にはならなかったのですけれども、私の知人で、PCR検査などで陽性の判定を受けた方もいらっしゃり、その方の中に少し重症の症状が出たという人もいますけれども、多くの方はほとんど1日で治った。

 それよりも、ワクチン接種後の副反応が厳しかったという話を聞きます。ワクチン接種後の副反応の辛さと、インフルエンザにかかったときの辛さと、天秤にかけて、どちらが深刻だったかと考えると、私のいわば第三者としてっていうか傍観者的立場で無責任に観察した限りで言えば、ワクチン接種後の辛さの方が、悲惨であったようです。そして面白いことに、ワクチン接種で悲惨な効果を持った人が、実は後でいわゆるオミクロン株というふうに変異した株でウイルスに感染したという話もあり、私は統計データを取るほどの事例を集めているわけではありませんから、それは因果関係は全くありませんし、そもそも統計的な関係と因果関係を混同するというのが最も誤った統計の使い方であると私は思うんですね。今回、COVID-19のいろいろな結果、それで重症化した方あるいは入院した方、それとワクチンを接種した方、そういう方のデータの間に統計的な関係がある。これは、ワクチン接種がむしろ悪いのではないかというような議論に対して、いや株が変わったんだからそれまでのワクチンが効かなかったのは当たり前だと。

 それに対して、しかしながら、新しい株に対するワクチンが開発されているならば状況は違っていただろう。こういうような話がありますけれど、私はそれはどちらかというと、善意ある虛議だと思うんですね。決して悪気があって言っているんではないと思うのですけれども、その統計的な関係を簡単に因果関係に結び付けている。因果関係に関して言えば、もっともっと深い真実が隠されているに違いない。私達はその隠された科学的な真実について、科学者としては、謙虚に、その本当の原因を探るために、対照実験、医学で言えば比較実験のためにモデルを作るために、同じような状態の人に対して、例えば典型的にはプラシーボって言われる偽薬、偽の薬を打って、その結果どのような効果が出たかっていうことを調べる。平常時であれば、そういうエビデンスを集めるということは常識でありますし、アメリカのような文化の国においては、人々が未来の医療のために自分の体を提供するということは当たり前だというふうに考えているところでは、エビデンスを集めるっていうことも比較的容易にできるのでしょう。しかし日本では、自分の体を医療のあるいは医学の進歩のために利用していい、そういう人はめったにいないわけでありまして、「私だけは一番新薬を試してください。」「私に最善の治療をしてください。」皆さんそう言うわけですね。そういうふうに言う気持ちはわかりますそれは医学に対する信頼がものすごく日本人は強いからです。最新の医療は良いに決まっているとみんな思っているんですね。

 私自身は、お医者さんが言ってきたこと、あるいは医療で当たり前と言われてきたこと、それが全く正反対なものに塗り替えられるという歴史を、私の70年間の人生短い期間でありますけども、もうそれはそれは何回も見てきました。最も素朴なもので言えば、小学校の頃、担任の先生から「火傷したときには、やけどがひどくならないために、まず油を塗りなさい」ということを指導されました。おそらく私の世代の人は全員それをやったと思います。火傷したときは油を塗る。それによって皮膚を大気感染から間接的にそのバリアを作るということなんでしょうね。そういうことが効果があるということを、ある権威あるお医者さんがおっしゃったのでしょう。そしてそれが日本全国で実践されていた。そういう馬鹿馬鹿しい話があります。今で言えば、本当に医学部の一年生であっても笑い飛ばすような、素朴なあまりにも素朴な治療法でしょう。今で言えば、やけどしたなら直ちに冷やせ。何が何でも冷やせ。こういうこと言いますね。確かに、冷やすことによって、やけどの症状が軽減する。楽になる。あるいは寛解するということもあるわけであります。やけどに対する治療に関して言えば、このような素朴なレベルの家庭の医学のレベルで、本当に大きく変転しました。もっと大きく変転したのは消毒の概念ですね。昔は怪我をすると、「そこから病原体が入って、体の中に入ると大変なことになるから、消毒をしなさい。」と。消毒というのが、言ってみれば、治療の切り札でありました。私自身は恨みにさえ思っているヨードチンキっていう非常に強いと言われた消毒剤でありますけども、ものすごく辛いですね、すごく痛い。すごく辛い。それを我慢すると、傷が良くなるんだ、傷が早く癒されるんだということを信じて、それをつけたものでありますが、今から見ると笑い話ということです。当時使われていた水銀の入った赤チン、そして辛いヨードチンキ、これなどは全く世の中から一掃されてしまったようですね。

 そして、今から20年前か30年前か、イソジンという画期的な薬が発見されました。このイソジンによって消毒というのは劇的な効果を上げたわけで、今でも喉のうがい薬には薄めたイソジンが入っていると思いますが、またきず薬としてイソジンというのも一度認可されましたから、今でも売っているかもしれません。菌を殺す、殺菌作用に関しては、これはきちっと証明されています。ですから、医療品として医薬品として認定を受けたんだと思いますが、今お医者さんたちはイソジンを使いません。手術の前に、切開する、つまりメスで切り刻む、切り刻むっていうとちょっと残酷かもしれませんが、メスを入れるというところにイソジンをさっと塗って、傷口となるべきところの菌を取り除くということはするでしょうけれども、縫合した後、手術が終わって皮膚を縫った後、イソジンをつけてそこに菌が着かないように滅菌するかっていうと、しませんね。なぜか。簡単です。それは、イソジンを塗ることによって、皮膚がくっつくこと、再生することを阻害するというデータが、きちっと出されているからです。消毒をすると却って傷口が治るのを妨害するということがわかってきた。驚くべきことですね。

 昔は消毒が当たり前でした。感染しないためには消毒しなければいけない。みんなそれをやっていたわけです。証拠もなく、伝聞情報に基づいて。そして、その伝聞情報を流した人は、善意をもって正しい治療方法という情報を流していたわけです。国もそれを認めていたわけです。しかしそれは、虚偽、全くの虚偽であったわけです。善意をもって全く悪意なく、そういう過ちを犯すということがあるのが、医学の世界でありまして、医学と言いましたが、やはり医療と言うべきなんでしょう。人間の体がどのようにしてできて、どのようにして病気から守られているかって、そういう仕組みがわかるようになってきたのは、本当にごく最近のことなんですね。それまでは、本当に治してあげたい、患者の苦しみを取ってあげたいという善意から、実は患者が治るのを妨害することをお医者さんたちも善意からやってきたということです。かつてイソジンで言えば、アメリカなんかでは、子供のアトピー性皮膚炎を治すのにイソジンを塗ることが治療効果がある。そういうふうに実験していた人もいます。それなりの成果も収めていたようですが、今ではあんまりやってないんではないでしょうか。

 最近ではアトピー性皮膚炎に対して、驚くべき「栄養療法」っていうのが取られるようになってきています。ビタミンDっていうのが驚くべきことに、幼児期においては大変に効くそうであります。アトピー性皮膚炎を初めとして様々なアレルギー疾患、皮膚病に関しては、言ってみれば人間が感染する、アレルギーの場合は感染するという言い方自身はあまり正確でないんだと思いますけど、相手が病原菌とは限らないわけですね。そうではなくてごく日常的なもの、それに対して過剰に免疫が反応してしまう病気でありますけど、その病気に対して、そのメカニズムに私達が一歩一歩科学的に前進してきているわけです。それは驚くべきことでありまして、アトピー性皮膚炎に限らず、今ピーナッツアレルギー、日本があると少ないんですが欧米ではかなり多い、そのピーナッツアレルギーに対しても、ピーナッツを避けた食事ということから、ピーナッツを少しずつ取って、それに慣らす食事というふうに、本当にこういうのを180度転換と言うんだと思うんですね。全く逆のこと、それが今実践されている。それは、アレルギー反応を起こすメカニズムというのがわかってきて、そして昔はその反応を起こすような原因物質が見つかると、その原因物質を避けるということによって、症状を避けることができる。これはあまりにも素朴な発想の治療であったわけですが、人間の体はそういう免疫反応というのを学習によって身につけるだということを、私達がそういう情報あるいは知識を手に入れてから、治療も変わってきている。

 昔のお医者さんが悪意を持って患者を、あるいは自分の病院の収入が増えればいいと思って、奇妙な治療を普及させたわけでは決してない。そういうふうに信じたいですね。その指導的なお医者さんの中に、それによって得られる自分の収入によって多くの人々を犠牲にしてきたって、そういうふうなことは決してなかったんだと思います。むしろ善意に満ちて、結果として酷いことをしてきたということです。私は今、治療をテーマとして悪意と善意っていうことを語りましたが、私達は何事によらず全ての場面で、そういう善意から持ってやったことが、悪意を持ってやったことよりも、より悪い結果を導くことがあるということに対して、決してこの長い時代の経験を通しても学んでいないのではないかと思うんです。みんな善意で良かれと思ってやりながら、それが他人に対してひどい最悪をもたらす。そういう可能性について全く考えていない。善意を疑うということは、ときにとても大切なことであるということを、今日はお話したいと思いました。

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