長岡亮介のよもやま話178「観測とは何を観ることか?」

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 「単純な説明というのは、わかった気になる」という良さがあると思いますが、「わかった気になるだけで、本当にはわかっていない」ということの真実を隠すという意味で、大変危険であると思うんです。おそらく、小学生の子供でも「虹が7色に輝く」という。虹が7色であるかどうかは別問題として、プリズム現象のようにして、光が分光するわけでありますね。そして様々な色の帯が、天空に描かれる。日本では虹といいますが、フランス語ではl’arc-de-ciel、天のアーチ、弧というふうに言いますね。ロマンティックな表現でありますが、それがまさにプリズムと同じように、光の屈折によっているということ。これは、小学校や中学校の理科、あるいは物理などで、勉強するのではないでしょうか。しかし、水の粒、水滴、水滴の中で、光が屈折し、反射しまた屈折して出てくる。そういうことによって、色がなぜできるのでしょうか。それは光の色によって屈折率が違うからでありますね。しかしながら、ちょっと考えればすぐわかることですが、一粒の水、水滴の中でそのような光の屈折によって分光現象、光を分けるという現象がもし起きてるんだとすれば、それは起きているというのはデカルト以来の虹の説明でありますけれども、もしそうであるとするならば、光の屈折して出てくる方向が変わるわけですから、遠い水の粒から異なる色の光が遠くの人間の目に、届くはずはありませんよね。私達が太陽を見て、みんなが同じようにあそこに太陽があるというふうに思うのは、太陽光線がほとんど平行に来てるからです。太陽の白色光がほとんどまっすぐに来る。それが、もし屈折を繰り返す。しかもプリズムのような、複雑な屈折を繰り返すとすれば、当然方向が違ってるはずですから、方向が違ってる光が同じように見えるはずはない。こういう小学校の知識であっても、ちょっと考えれば、学校で教えてることはほとんど無駄だということ。それは事柄の非常に一断面をとり切ったものに過ぎないということがわかるはずです。

 実際に、虹として私達が観測するのは、空に浮かぶ多くの水玉、雨の粒ですね。その大きな雨の粒が当然場所も違う。その場所が違う毎に光の屈折して出てくる光も違う。ただ、私達の目に届くものはちょうどいい具合になって、ある場所の雨粒から出てくる屈折光が紫色である。あるところから出てくる色が黄色である。そういうふうに分光して見えるというに過ぎないわけです。ちょっと考えてみれば、学校の説明がごく表面的なものにしかすぎないということを、子供でも知ることができる。残念ながら日本の学校は、「学校の先生が言う通りに、あるいは教科書が言う通りに、そこにある知識を丸暗記するということが良い教育である」ということが、学校の先生たちも信じ、子供たちも信じ、そして保護者たちも信じている。物事には全て正解がある。その正解に早くたどり着くのが得策である。そういうふうにみんなが思っているのではないか。

 私は最近“教育の経済学”っていう言葉を使うのですが、みんなが得して勉強する、あるいは勉強するのに得な方法がある。ということを、人々が信じ始めている。勉強というのは自分自身で、なぜだろう、なぜかしらと考え抜くというところには面白さがあるわけで、それは人が発見した結論を鵜呑みにするということと比べると、ある意味で非効率、あるいは非能率であるわけです。しかし、自分自身が発見するからこそ面白いということは、指摘できるのではないかと思うんですね。今の学校教育はどちらかというと、「結論を押しつける。考えないことを教える。考えたら損するという人生のレッスンを教える場になってる」ような、そういう気さえいたします。できたら「子供の頃は、のびのびと考える。暗記などで物事を済ますのではなく、あくまでも深く考えて納得する。納得のレベルが学年を追うにつれて深くなる。」そういう勉強に目覚めてほしいなっていうふうに思います。

私は、昆虫学のファーブルという人が好きで、私の家には子供の頃からファーブルの大著『昆虫記』がありましたけども、昆虫記は長すぎてなかなか読むことができませんでした。“ふんころがし”の部分で面白い話がいっぱいあるんですけど、ファーブルの書いたもので、『科学の不思議』という本があります。これは青空文庫でも出ていて、簡単に読めるし、短いものですから私としては、ぜひ皆さんにおすすめしたいと思います。アンリファーブルは、「物事を考える、あるいは観測するということはどういうことであるか」ということを、とっても深く理解し、そしてそのことの楽しさというのを、子供の頃から体験してた。そういう人だと思うんですね。今、小学校や中学校で実験をする、観測をする、というのが推奨されているようですが、私に言わせればそれはショータイムですね。先生が観測する場所、あるいは実験する器具それを全部道具立てしたところで、「さあこれからショータイムが始まりますよ」「さあ、これとこれを混ぜて見ましょう。色が変わりますね。」これでは実験になりません。実験や観測っていうのはどういうものであるか。そういうことを理解するために、私は、アンリファーブルの『科学の不思議』をぜひお読みになることをおすすめしたいと思います。そのことを通じて、私達が「自然を通して考える」ということの楽しさ、それに目覚めると思うからです。

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