長岡亮介のよもやま話174「見えにくい人生の真実」

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 今回は、若い人に気づいて欲しいことという主題で、いくつかお話したいと思います。ともすると、若い人は都会の華やかさ、豪華な家に住み、豪華な食事をいただく。あるいは豪華なレストランで高級な食事をいただく。そのことが夢のような生活だというふうに感じているんではないかと思うのですけれど、私はそのようなものよりも、遥かに豊かな生活があるという当たり前のことを若い人に気づいてほしいと思うんです。それは、ホテルで出される高級なフランス製の、というよりフランスから輸入した冷たい水よりも、山で湧き出た清水の方が遥かに美味しいということ。あるいはホテルのメインダイニングで出てくる一番のメインディッシュ、それよりも、川辺の、川の入り口の砂利なんかがあるところでやるバーベキューの方が遥かに美味しいということ。面白いことに、私たちはナイフ・フォークあるいは箸を上手に使うということで、快適な食事ができると思っています。実は粗野に食べる。つまり手を使って食べるということ。それが美味しいということ。そういう当たり前の、私たちの子供の頃であれば子供たちなら誰でも知っていた事実に、気づいて欲しいですね。

 例えば、皆さんの中にトマトが苦手だという人もいるかもしれませんが、トマトも手で、本当に必要ならちょっと塩をかけただけで、他に何も付ける必要はない。最近のトマトは特にまた都会の人が食べられるように、非常に風味が減ってフルーティでありますから、それでも構いません。でも本当はトマトくさい、本当にトマトらしいトマトを味わってほしいと思います。そういうトマトも、きれいに包丁で切ってお皿に並べられたサラダのトマトではなくて、丸ごとむしゃむしゃ食べて、キュウリなんかもキュウリそのものをむしゃむしゃ食べる。場合によってはちょっと味噌をつけたりして。これが本当に美味しいということ、そのことに気づいて欲しい。私たちはそういう本当の美味しさから遠ざけられた世界に生きていて、しかもそれから遠ざかるような生活に憧れている自分がいるということ。そのことに、おかしさ、馬鹿馬鹿しさを感じるような感性を持って欲しい、と思うんですね。

 同じように、人は自分がより多くの富を得て、そして優雅に暮らすということ、これが人生の夢であると感じている人がいます。マレーシアにペナンという島があるんですが、日本人がかなりたくさん住んでいて、マレーシアの中でもクアラルンプールのような大都会の喧騒とは全く別の大自然の中で、本当に治安も良くて、いろんなものがみな安くて、日本人は永住している人がたくさんいる。そういうところで永住している人は、朝ゴルフをやって、午後になったらクラブに行って、テニスをしながらビールを飲んで、歓談する。そして家に帰る。そういう生活を、彼らの言葉では、ここにいつまでもエンジョイするということだったんですけど、私に会うと歳を取ったらぜひペナンに来てくださいと、そういうふうに誘ってくれました。なんでそんなに誘うのか。その人はお友達をしばしば自分の邸宅に招いてらっしゃいます。日本でのその手間と費用とうんざりするような土地。それを考えたら、友達を呼ぶ方がよっぽど快適であるということなんです。結局のところ、寂しいのですね。その日本人部落、日本人部落というより日本人村っていう方がいいかもしれない。中国人はよくチャイナタウンを作りますが、ジャパニーズもどこの国に行ってもジャパニーズタウンというのはあります。ドイツとアメリカにもあります。そういうところには必ずリトルトウキョウっていう名前のお店がある。結局のところやはり故郷が恋しい。正確に言うと、鳩の様な帰巣本能ではなくて、自分が母国語で喋れる友達が欲しいっていうことだと思う。人間は本当に友達が大好きなんですね。そして友達が喜んでくれるっていうのが自分の喜びにもなる。そういうなんて言うか本能と言ってもいいような、深いところに根を張った感情をみんな持っている。自分だけよければいいというふうに思いがちですが、そのように生きていると本当に幸せにはなれない。みんなすごく孤独の中に繋がれていく。そういうことを私は海外のジャパニーズタウンの人と話をすると、つくづく感じます。仲間が欲しいんだ。ふるさとが欲しいんだということです。自分がどれほど豊かな、私たちから見れば優雅な生活を送っていても、結局は寂しいんだということですね。それはお金で買える優雅さ、あるいはお金で買える豊かさでしかなく、心の豊かさに繋がっていないということ。

 このような話をするのは、本当の美味しさとか、本当の楽しさとか、本当のウキウキした気持ちとか、本当の幸せ、そういうものを、私たちはそれがいったい何だろう、どういうふうにしたらそれを得られるんだろうと、そういうふうに考えないように考えないように仕向けられて、本当の幸せというものから遠く隔ったところに生きているということに、ほとんどの人が気づかないまま一生を終えてしまうからです。場合によっては、一生の最後の最後の瞬間に、そのことを忘れていたことに気づくのかもしれません。それが救いなのか、それとも罰なのか、それはわかりませんけれど、多くの人が普通に生きている時にはそのことに気がつかないのではないかと思います。

 私は若い人に特に考えてほしいのは、本当に豊かな暮らしを実現するには何をしたらいいかということ。それは、お金を儲ければ済むのか、早く退職してゆったりした老後を過ごせば済むというものでは全くないということ。豊かに老後を過ごしたいのだったら、私は豊かな少年時代を過ごして欲しいと思います。健康なからだ、それが十分あるうちに幸せになってもらいたいと思うんですね。青年時代に幸せでない人は、老年時代に幸せになるはずがないと私は思います。もし、青年時代を犠牲にして、老年時代がそのおかげで幸せだっていう人がいたならば、私はそれは本末に近いと思います。つまり、青年時代に得られなかった幸せを老年時代になって、ようやく手に入れたということであるとすれば、言ってみれば、本当にずっと苦労していたものの成果を老年になってようやく手に入れたに過ぎません。でも、人生の最も大事な時期は、青年期あるいは壮年期なわけです。ギリシャ語に、ἀκμή (akmḗ)アクメっていう言葉があります。アクメというのはその人の人生が一番重要な時、このアクメを犠牲にして豊かな老後というのでは、あまりにも寂しいではありませんか。

 田舎に来ると、虫が寿命を終えて死んでいく姿を見ることがよくあり、本当に亡くなっていく虫はかわいそうなんですね。「飛んで火に入る夏の虫」というけど、飛ぶことができて火に入る虫は一瞬にして自分の人生を終える。天命を全うする人生は、虫は虫生というのでしょうか、その中で、力尽きて亡くなっていく姿を見ると、これが生命の終わり方だと思うと、本当に虫に対して、自分を重ねて、「ああ、命というものは、本当に哀れなものである」というふうに思います。死んでいく間際、そこで「豊かな」生活をしたところで、豊かっていうのはカッコ付きの豊かで本当の意味で豊かではないが、食欲もない、体力もない、運動能力も落ちて、そういう中で、何が豊かかと私は思います。本当は幸せでなければいけないのは、青年期、壮年期そして少年少女の時代、その時代を不幸に過ごさせてはいけないと私は思います。

 私は小学校の時代は一番楽しかった時代であります。特に小学校の1年生から4年生まで、私にとって人生の黄金時代でした。毎日毎日が生きている喜びに満ち溢れ、しかし何もわかっていません。何もわかっていませんでしたけど、先生と一緒にいるだけで楽しかった。友達と一緒いるだけで楽しかった。いじめと言われる現象がなかったわけではありません。私も多いにいじめましたし、もしかしたら私にいじめられた少女もいるかもしれません。私は自分が好意を持っていた少女に対して、わざと冷たく当たったりしていました。愚かな少年の1人であり、本当は大好きだったのに、すごく表向きは冷く当たっていた。それは少女から見るとひどいいじめだったのかもしれない。少年少女の時代にはそういうことはよくあることですね。いじめ自体、自分自体と相手自体とありますが、子供時代のいじめも人生全体の中ではとても大切な経験で、私は大人にいじめられたことは今でも根に持って覚えていますけれども、自分の仲間たちにいじめられたことは思い出の中にありますが、心の傷になっているわけではありません。むしろ楽しかった思い出の中の1エピソードですね。私は長野で育ち、横浜に出てきましたから、“信州の山猿”と言って、小学校6年生の時にからかわれた思い出もある。都会の垢抜けた頭のいい子供たちが、陰惨ないじめをした。そのいじめの対象に私はなっていたわけであります。そのいじめが実はたわいないものである。そして、彼らが実力がないがゆえに田舎から出てきた私を恐れていたということ。これもちょっと大人になるとわかってくるのですね。そうなれば何でもないことのように、今なら思える。

 今一番大切な小学校時代に、大人たちの非常に矮小な経済学的な倫理、「金儲けることがいいことだ。得することがいいことだ。人を騙すことがいいことだ。これが自分の利益になる」、そういうことを平気で教える大人たちがいるっていう話を聞くと、本当に胸が痛みます。やはり子供の頃学ぶべきは、私は先生からある意味で理想主義というものを捨ててはいけないということを学んだような気がするのです。そんなことを小学校の低学年の先生が子供たちに語っちゃったはずはない。それは語ったはずはないんですけれども、その先生の生き方を見て子供たちが、何となく感じたのですね。そのことが人生の宝になっていくわけでありまして、その先生が愛おしいんだということは、その先生が一切のプロモーション・昇進を拒否して、一教員としてずっと頑張り、そして最後はクビになる。そういう道を選んだということ。なかなか考えられないですね。サラリーマン社会で出世することがいいことだと、そういうふうに思っている。でも皆さん、出世したっていたかが知れていますよ。皆さんは、例えば一部上場企業、300社か400社あります、その会社の社長とか会長の名前を何人知っていますか。しかし、その会社で働いている隣人がいたら、その人のことずっと覚えているでしょう。同じく私は東京都中野区というところに住民票がある。中野区の名前を知っている人はほとんどこの中にいないと思うんですね。区長になりたい人が結構いるんだと思うんです。でも、そんなふうに人間があるいはリーダー顔をしている人、その人が国民的なリーダーであるわけでも何でもない。総理大臣人であってさえ、実は何でもない。そういう社会になっていく。しかし、表現はあまりよくないかもしれませんが、名もない小学校の先生、私はその先生の名前を生涯覚えていますね。この先生のおかげで、私は今生きていることを日々痛感いたします。こういうことの重要性に気づく人は少ないじゃないでしょうか。「本当に大切なことは目に見えない。」サン=テグジュペリの有名な言葉がありますけど、それは言葉として有名なだけで、その言葉を自分の人生のドクトリンとして生きている人は、本当は少ないのではないか。本当に美味しいものはなかなか入手できない。本当に豊かな生活もなかなか入手できない。しかしそれは身近にあるという、この人生の逆説に気付く人が、若い人の中に増えてほしいと、願います。

コメント

  1. galois より:

    「アクメ」をgoogleで検索した。びっくりする様なことがいろいろ出てきたが、「アクメは、元々ギリシャ語で(成長・進展・向上などの)絶頂、頂点という意味です。」というのが主張にピッタリだ。過ぎ去りし青少年期、受験勉強だけで毎日を過ごして当たり前と思っていたことが、実は「豊かな人生」を犠牲にしていたのだった。今ならわかる様な気がする。「本当に大切なことは目に見えない」をgoogleで検索した。サン=テグジュペリの言葉だとすぐ出てきた。この言葉が星の王子様を読んでも心に残っていないのは、目に見えないものを想像する日常がないということかもしれない。最後に「人生の逆説」についての感想。青い鳥は身近にいたという話だと思うが、戦争や病気で日常が失われた時、今の繰り返しの日常が一番大切だったということなのだろうか。今日も一つ「教養」を増やして、「豊かな人生」にしていこう。

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