長岡亮介のよもやま話173「民主主義の前提としての教育」

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 今回は、今、誰も深く考えていない、自明のものとして通り過ぎていることの中にある重大な問題について、未来を見つめる上で避けて通ることのできないものとして、私から提起したいと思う話をいたします。

 それは民主主義という、私たちの不動の価値と考えているものについてです。民主主義が社会あるいは政治の基本的な理念として確立してきたのは、イギリスの市民革命、聖教徒革命とか名誉革命とは言われているもの、そしてフランスの大革命と言われている1789年の、日本ではフランス革命というとそのことだけを指して言いますが、実はこの市民革命っていうのは、単なる一国の政治的革命以上に大きな社会的なうねりだったわけで、私たちはその大変動の後に生きていますので、その変動があった前のことっていうのは、すっかり忘れている。あるいはその革命で獲ち得た成果、革命のスローガンが自明のものとして考えているという傾向があるのではないかと思います。

 例えばフランス革命で言えば、自由、博愛、平等。Liberté, fraternité, égalité。英語にすれば、Liberty、博愛は何て言ったらいいか、brotherhoodというふうに訳するのがフランス語の直訳でありますが、もっと英語にふさわしい表現があるでしょう。そして平等equality。特にequality、フランス語でégalitéというものについて、私たちはかなり誤解していると思う。「人間は生まれながらにして平等である。」この革命の精神は、アメリカの建国の父と言われる人たちによって、こうしたアメリカの憲法にもきちんと書かれている。アメリカの独立宣言の中に、フランス革命の精神がある。そして驚くべきことに、このアメリカの独立宣言、あるいはフランス革命の精神、それが明確に表現されているのが、皆さんにとっては意外なことだと思いますが、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』、あるいはその『共産党宣言』に先立つエンゲルスの文書なんですけれど、そういう人類の理想的な姿、それを描いたドキュメントの中に、「人は生まれながらにして平等である」ということが高らかに宣言された、égalitéあるいはequalityと。これはとても重要な近代社会の基本理念である。その民主主義を支える基本理念である「人は生まれながらにして平等である。」ですね!

 最近では、“基本的人権”という言葉になるのかと思いますが、それが一体どういうものであるか。それは、人は自分の生き方に関しては、他人にとやかく言われる筋合いはない。不合理な理由によって差別されるようなことはないということです。例えば、不合理な理由の代表が、いい家に生まれた、お金持ちの家に生まれた。そういうことの故に、その人が人生全体においてお金持ちとして暮らすというようなことは許されるべきではない、人は生まれたときに全部オールリセットされるべきである。こういう考え方ですね。ですから、『共産党宣言』の場合には、私有財産の制限ということに及ぶわけでありますし、あるいは課税される税金のうちのいわゆる遺産相続に関して極めて高い税率をかけるべきであるっていう思想になっていくわけです。

 日本社会はある意味で、世界中でどこでも成立していない、どこにも存在しないような、そういう共産主義の理想が実は社会制度として機能している数少ない世界の国のうちの一つだと私は思う。日本の貧富の格差が、今分断という言葉で叫ばれておりますけど、貧富の差に関して言えば、日本社会というのはかなり平等な社会であり、お金持ちと貧乏人といっても100倍程度の収入の違いしかない。100倍の違いは実は大きいですね。年間100万円で暮らす人と年間1億円で暮らす人ということでしたら、えらい違いだろう。そして現実にはもっと差があるかもしれません。しかし諸外国の貧富の差は、そういうものではないですね。10進法で言って桁が3桁以上違う。そのくらい貧困の差があります。特に深刻なのは、アメリカとかインドとか、あるいは中国とか、ロシアにおいてでありますけれども、そういう現実はあんまり知られていない。日本は貧富の差が、「こんなに貧しい人もたくさんいるんじゃないか」と力を込めておっしゃる方がいるかもしれませんが、実は税金が高いっていうこともあり、貧富の差っていうのは意外に小さい。それでも、本当に何千億円もの資産を持つお金持ちのいることも事実でありますが、その人たちのお金っていうのは、言ってみれば資産の総額の時価評価でありまして、本当に使えるお金が一般の人と比べて1000倍違うというようなことでは必ずしもないということです。

 ちょっと話が脱線しました。égalité、equalityっていうのは、そういうお金持ちの子供だからといって、自分もお金持ちということは許されない。全て生まれたときにリセットされなければいけないという思想です。フランスでは実際にそのような閨閥、貴族とか特権階級が廃止されたわけですね。特権階級が廃止されるということは、人々は生まれたときに平等ですから、あとは差がつくのは教育を通してということであり、残念ながら教育において国が基本的な義務を負うという近代社会のルールの他に、教育の中で家庭教育っていうのが非常に重要な役割を果たしているのですね。今でもイギリスやアメリカなんかの大金持ちは、学校に子供を行かせないで家庭で子供を育てる。家庭教師を雇う。そういうことができるわけですね。自分で選んできた立派な先生に、自分の子供たちを教育する。日本の親たちは教育熱心って言われますけども、実は他人頼りで、良い学校に入れるっていうことに対して、自分のなけなしのお金を投資するということをやっているだけで、結局学校頼り、学校頼みと言った方がいいですね、なわけです。自分が自分の子供に対して教育に責任を持つということではない。「自分の子供にたっぷりお金をかけて、良い学校に入れるよう」、それを基本とし、自分のお金でもって自分の子供に将来良い生活をさせてやろうという親心でありますが、国際常識から考えてみても、あるいは一般常識から考えてみても、ちょっと破廉恥なわけで激しい言葉で言えばそういうことね。日本人は、そういうふうに教育のための基本的な前提条件を考えるための教養を身につけるということを、残念ながら、そういう機会を奪われていて、教養を身につけないまま親になり、子供を自分たちより良い生活をやりたいという願いから、誤った教育観の中で子供たちを育てる。そういうことが何世代か続くと、それがもう当たり前のように定着して、最近ではびっくりしますが、いわゆる保護者の中で母親だけではなく父親たちが、子供たちをよりよい学校にやるということに対して、非常に熱心なってきているね。そのこと自身は間違っているということは、また別の機会にお話したいと思っています。

 わが国における教育で欠けているのは、人間が社会の中で有用なメンバーになる、民主主義社会のための前提条件としての教育、そういう観点がすっかり抜け落ちているということです。民主主義社会は人々は平等でありますから、その平等の中で頭角を現し重要な仕事をするというためには、その人の知的な能力を磨く以外はないわけです。その知的な能力を磨くことなしには結局人に指導される人生しか無い。このことは当たり前の話なわけです。実は、人間社会といっても、本当に理想的な共産主義のような、ある意味で原始共産制的な社会がない限り、競争が支配しているわけですから、その競争において生き残るためには社会にとって有用な人物となる以外にはない。競争自身を否定する人がいますけれども、みんなが心が癒されるという自然、その中で毎日毎日繰り返されているのは凄まじい生存競争です。それはそれは凄まじい。

 よく“弱肉強食”と言いますと、強い者が弱い者の肉を食べるという肉食動物の世界をみんな連想いたしますけれども、実は草食動物も、動くことのできないか弱い植物のせっかく成った実を食べて、あるいは場合によっては実ではなく、その植物の生存を脅かす様な種子まで食べる。あるいは皮を食べる。そういうことをしてるわけですね。生命の持っている不思議な、私は仏教的な“輪廻” という言葉が好きで敢えて使うんですが、生命の循環、これは誠に不思議で神秘的でありますけれども、とにかく生命が生命を犠牲にする。そういうことの中で、自然の営みが毎日毎日行われてるわけです。植物同士の戦いもそれはそれは凄まじいものであり、私が田舎で暮らしていると、本当に日光を求めて、あるいはよりよい環境を求めて、植物たちが競争していて、それはそれは凄まじい。普通の日陰の植物は枯れていかざるをえない。枯れていって構わないのですね。それが植物の生態系というもので、面白いことに山に行きますと、高度によって植生が変わってくる。植生というのは植物の生態系ですね。ただその中で、鑑賞する樹々が違う。樹々が違うんですけども、こういうふうに征服された植物の栄養をくらって生きる。こういうたくましい植物もいるわけです。コケとかシダっていうのはそういうもので、彼らは日光をほとんで必要とせず、いわば死に絶えた昔の植物の栄養を取り込みながらしたたかに生きている。植物の世界っていうのもたいしたもんだ。植物の緑に心が癒されるなんて気楽に人々は言いますけれど、緑は植物の生きていく凄まじい闘いの最前線、人間の目に見えない植物の組織が炭酸同化作用によって栄養をとるための基本的なもので、それで植物は緑色のわけで、皆さんがよく習っているように、葉緑素というものでありますが、それは植物の生きていくための生存の基本装置です。人間が緑の世界を見て癒されるというのは、植物があると、食べ物が豊富にあると感じ、自分の将来の生活が保障されるというふうに考えるのかもしれない。コンクリートジャングルを見ているよりは山の緑を見ている方が、よほど心が癒されるっていうのは私も同じです。

 しかし、実は平和そうに見える緑の世界にも厳しい競争がある。またちょっと話が脱線しましたね。人間社会にも競争がある。その競争の中で人間も生きていく。その競争に打ち勝つことが大事なんじゃなくて、競争に負ける人のことも考えて競争に打ち勝つことが人間の人間たる所以であります。競争に打ち勝って同胞を助け、同胞のために働くためにも勉強しなければいけない。これが民主社会の自由主義の基本であり、教育の一番重要な点なのです。このことを忘れて、競争を規制したところに、基本的人権とか、民主主義があると誤解している人がいる。学校においても、運動会において競争をしないということが、子供たちのいじめをなくすための秘訣であると、そういうふうに考えている人が世の中にいて、本当に破廉恥だと私は思います。そういう声が今合唱のように聞こえる。そういう人たちに私のこのメッセージがもし聞こえたならば、大バッシングが始まると思います。彼らは、こういう当たり前の声を封殺するために、寄ってたかって人々を焚き付けて、言論の力を借りて、いわば、良識のある意見を封殺するわけです。こんなことを言うと私は一昔前の右翼寄りとみなす人がいるかもしれません。私は右翼は大嫌いでありまして、あんな自分の生活のために人々を扇動して、自分があたかも愛国者があるかのように振る舞う、とんでもない連中だと思いますけど、そういう反社会勢力のような右翼がのさばっているのは、それを利用している政治勢力がいるからにすぎないと私は思う。そういう政治勢力をいじめているつもりの日本のマスメディア、これがまたとんでもない人たちで、自分たちが大衆の側に立ってと口では言いながら、大衆を誘導することによって、自分たちの意見で社会を自分たちの意見に統一しようとしている。でも、民主主義というのは本来はそうじゃなくて、多くの人がみんな平等なんだから、人々がそれぞれの意見を出し合って、話し合って、その話合いを通じて、何が合理的であるか、何が正しいか、という結論が出るまで、粘り強く話し合う。これが基本であるのに、実際の民主主義っていうのは結局、もうそろそろ結論を出さなければいけないから、十分話し合ったので、それでは議決を取りましょうということで、多数決を取ることで、意見を決めていくシステムになってしまっている。小学校における学級会と同じ程度の民主主義。これが日本の社会を支配しているということです。

 そのような多数決になってしまったならば、とんでもない堕落する社会、愚民社会になる。愚かな民の社会になるということは、古代ギリシャの哲学者たちが既に予言していたことで、ソクラテスにしても、プラトンにしてもアリストテレスにしても、民主制に対して非常に大きな懸念を抱いていたわけです。ソクラテスにいたっては、まさに民主主義というものの愚かさをみんなに明らかにするために、自らの命を捧げるということをしたわけですね。民主主義が単なる多数決に陥ったならば、つまり多数決主義あるいは多数派主義に陥ったならば、これは愚民制でしかない。以上は、古代ギリシャの哲人が言っていたことでありますが、私はごく最近フランスの政治家でもあり行政官でもあり、法律家でもあり、そして歴史家でもあったトクヴィルという人の本をちらっと読んだんですが、すごく面白かったのは、彼はアメリカに渡ってアメリカの先端的な民主主義に学びたいと思ったんですね。トクヴィルはフランス大革命の後に生まれて、そして落ちぶれ貴族っていうか、自分の親戚もみんな処刑されたり、そういう家系の人ではありますので、とりわけ民主主義のあり方に関して、非常に大きな疑問を持ったのでしょう。1830年あるいは1848年というフランスの大混乱の時代にも、フランスの政治のただ中にいて、そして多くの意見を身を持って感じてたわけですから、肌で感じていた。アメリカの民主主義はどんなものか、実際にアメリカに渡って見聞して、『アメリカにおけるデモクラシー De la démocratie en Amérique』、これを書いたわけです。なんと日本でも、何語から翻訳したかわかりませんけど、おそらく英訳本からと思いますが、邦訳があります。福沢諭吉はその翻訳を読んだみたいですが、やはりフランス語の原文を読むといいですね。そのためだけにも、フランス語の勉強をする価値があるというふうに思います。要するにマジョリティが支配する民主主義は最悪であるっていうことをちゃんと見抜いている。そしてマジョリティが支配するようになると、やがてこんにちの言葉で言えば、マスコミですね。そういうふうに多数派の意見を操る人たちの扇動によって、みんな動かされていくであろうということを見抜いた。

 まさに、今の日本がそうだと私は思う。私は、皆さんが基本的人権とか、自由・博愛・平等、そういうことを語るとき、民主主義という価値観、それを共有する社会の中に生きている。そういうことの表層の言葉だけをとって、それを自明だと感じている皆さんは、この前提条件として何が必要であるか、お考えでしょうか。教育こそが本当に必要なものである。この教育というのは、決して学歴を上げるというようなことでは全くなくて、自分自身が生涯にわたってより賢い人間になる。他人の意見に対して、説得力を持って自分の意見をきちっと述べることもできるような人間になるということ。そういうことであるということ。そのことの意味をもう一度思い出してほしいと、私は願っています。

 今の時代は言葉が躍っています。そして、踊った言葉に乗せる人たち、その人たちがさも自分たちが世論を啓く人間、あるいは遅れた世界をリードする人間である、未来を開拓する人間であるかのごとく振舞っております。しかし、私から見ると、いや私に言わせると、やっぱりこれはおかしいんじゃないかと。言っていることがちゃんちゃらおかしい。昔の人が言った言葉を今風にアレンジして、そしてそれを流行言葉にしているだけじゃないかと、そういうふうに思います。本当に聡明である、真に聡明である、そのことがますます求められる世の中になってきている。聡明であるということは口が立つとか利に敏い、上手に生きるということとは正反対に、人の言っている言葉の中に潜んでいる虛議を見破るということであると、私は思います。

コメント

  1. Galois より:

    「自由・平等・友愛」の理念が、マルクス・エンゲルスも言及しているということに、マルクスの普遍的な思想を改めて学んだ思いである。ソクラテスは陪審員たちの多数決により、死刑を求刑された。彼は裁判で罪を認めなかったが、多数決の不合理性を後世に残すため処刑に甘んじたという。多数決の不合理をどの様に是正できるのか、課題はまだ解決されていない。トクヴィルを初めて知った。1848年の二月革命の際には革命政府の議員となっている。まさにマルクスの時代に活躍していたのだ。フランス語の原文に挑戦してみようか・・・。

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