長岡亮介のよもやま話172「わからないと不安?」

 私が度々耳にする言葉で、「見えないから怖い」とか「わからないから怖い」という表現があります。しかし私はその言葉を聞くたびに、「見えたら怖くないんですか。わかったら怖くないんですか。」と聞きたくなります。私たちは見えるとかわかるとかということでもって、本当にその現実が理解できたならば、それを全て受け入れることができるものだなのでしょうか。私は、決してそんなことはないと思うんですね。私たちはある意味で、見えていないからこそ、あるいはわかっていないからこそ、平気いられるという側面がある。ことを指摘したいわけです。例えば私自身で言えば、いつ死ぬか。何年後の何月何日何時何分ぐらいに寿命を終えるか。それが明確にわかったならば、そのときに向かって本当にやらなければならないことに追われて、それでいて自分の人生が終わるということに対する恐れで、何も手がつかず慌てるばかりで仕事は何もはかどらないという事態になるのではないか。そういうことが簡単に予想されます。私もいい年ですので、もうそんなに長くないということはわかっていますが、もうそんなに長くないといっても、それが明日なのか明後日なのか、あるいは1年後なのか2年後なのか、それがわかっていないからこそ気楽でいられるわけですね。

 昔私が習ったキリスト教の修道士からは、「毎秒毎秒があなたを傷つける、最後の1秒があなたを殺す」という英語の格言を習いましたけれども、秒という単位、secondっていうふうに言いますが、あれは時間の単位としては結構長い方で、実際は例えば宇宙論なんかでは、宇宙開闢以来10のマイナス20乗秒後にはとか、そういうふうに1秒の中の何10乗秒分の1秒とそのくらい短い期間を考えたりします。そんなことまでわかるようになったということ自身が本当に驚きですけど、そのようにして始まった宇宙がいつなくなるか。例えば太陽の寿命がある程度明確にわかっています。その太陽の寿命が来るときに、地球上の生命は全て滅ぶことでしょう。宇宙空間へ脱出するということに夢を抱く人がいますけれども、私たちの技術力というもので太陽系を脱出するということが現実にありうる話であるとは私は思いません。いつかは地球が滅びる。そのことは確実にわかっていても、そのいつかっていうのは私たちから見ると気が遠くなるほど先のことであって、本当にはわかっていない。だから、気楽にいられるんではないかと思うんです。

 私は、最初に言ったように、「見えないから怖いとかわからないから怖い」とかという意見に対して批判的なのは、「じゃあ見えたらどうなんですか。わかったらどうなんですか」と聞き返したいからなんですね。私たちは本当には実は何もわかっていない。何も見えていない。だからこそ、生きていられるという非常に不思議な生命のパラドックスが、そこにあるということに気づいていただきたいと思うんです。若い命、若者、子供、赤ちゃん。それが輝かしいのは、その未来が全く見えていないからですね。全くわからない。どんなものになるかわからない。それが素晴らしいものだと思います。大した大人にはならないよとか、大した老人にはならないよとか、そういうことがもしわかったならば、赤ちゃんや若者を見ても、決してそんなに感動しないでしょう。わからないということが、あるいは見えないということがそのこと自身がとても魅力的なことなんだということに気づいてほしいんです。

 私たちは、この数百年間近代科学を手に入れたことによって、知識を蓄積するということに関して大変に強力な武器を手に入れました。それまで数学っていうのは机上の空論であったわけですが、17世紀以降、数学は自然を描写するための私たち人間にとってかけがえのない道具となったわけです。Galileo Galileiが、「宇宙は数学の言葉で書かれた書物である」というようなことを言っているんですが、もっと正確に言うと、もう少し詳しく言わなければいけない点がいっぱいあるんですけど、端的に言えばそんなことですね。なぜ宇宙が数学の言葉で書かれた書物になっているのか。これは、日本人の多くの人が、「Galileo Galileiが、キリスト教の教会に対して自然の学問が全て数学で語り尽くされる。聖書の権威は必要としない。」そういうふうに考えたと誤解してるんですが、私に言わせると、宇宙は数学の言葉で書かれた書物であるというGalileo Galileiの言葉をそのまま彼の時代において、彼の仕事の業績の流れに置いて理解しようとするならば、「なぜならば、宇宙は神様が作ったものだから」、あるいは「なぜならば、神が宇宙の書物の著者であるから」といったに違いないと思うんですね。私も「なぜ、宇宙が数学の言葉で語られるのか、自然が数学の言葉でなぜ語ると精密に描写できるのか」、そのなぜというところはわかりません。でも不思議なことに自然はそうできているんですね。自然がそのようにできているおかげで、私たちは数学という武器を使って、自然を探索するということができるようになった。それ以前の数千年の歴史の人類の知の蓄積を大幅に上回る前進、これをこの数百年の間に富めることができたわけです。

 そして今や私たちの知の前線は、宇宙の誕生のような果てしなく想像の難しい世界から、私たちの視力、目でもって見ることのできない極微の世界に生きる微生物から、今やウイルスその遺伝子構造、そういうものまで可視化する、ビジュアライズするということができるようになってきています。私たちの見える世界が、ものすごくスケールにおいて、微細なところからマクロな巨大なところまで拡大しているわけです。そのように拡大したことをもって、私たちが見える世界が広がったというふうに楽観的に捉える人が多いのですが、私自身は、実は見える世界が広がったことによって見える世界が限られているということもよくわかった。つまり「私たちが、全てがわかっているわけではない。ほんの少しのことがわかるようになっただけだ」という私たちの科学的な認識の限界がわかるようになったということ。これが、科学が明らかにしてきたことではないかと思うんです。この点に関して私は多くの日本人の人と常識的に意見を異にすると思いますが、私自身はこの考え方はそれなりにグローバルには説得力を持っている考え方だと思っています。日本人が少し偏った近代自然科学に関する理解の不足、あるいは誤解、それによって私と異なる意見を持つようになっているんだと思うんですね。少しでも近代科学に携われば、そのような科学の持つ輝かしい広がりと同時に、闇の広がりもわかるはずだと私は思います。

 つまり、科学の素晴らしさはわかることが増えること。それを通して、わからないことが増えることであるわけですね。私たちが見えないことわからないこと、それがたくさんあるということは、それはとても魅力的な世界を知っているということだということです。それをもって怖いとか、わからないとか不安だとかというのは、そもそも何も考えてない人の不安であって、もっと不安になれと私は意地悪を言いたくなるくらいです。そういうわけで、私たちはわかるということに向かって日々努力していますけれど、その努力というものを通して、実はわからないという「より魅力的な世界」が広がってるんだというお話をしたいと思いました。

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