長岡亮介のよもやま話171「これからの社会の明るい可能性」

 今回は私自身が自らを奮い立たせようとして、あえて明るい未来を想定しようとしたときに考える我が国の未来の可能性に関して、お話したいと思います。日本は近代的な文明国家のようにみんなが考えていますけれども、日本をその様な国だと思っているのは、世界の中ではおそらく日本人くらいではないかと思います。もちろん、日本に来る外国の観光客あるいはビジネスマンは多いわけで、日本は素晴らしいと言ってくださいます。それ自身は大変ありがたいことであると思いますが、彼らが思っている日本の素晴らしさというのは、日本に住んでいる私から見ると、とっくの昔に日本が失ったもの、その欠片のようなものを外国人が拾い集めて、素晴らしいって、そういうふうに感動してくれているだけで、もはや日本には本当はないものではないか。そういうふうに大げさに言えば思います。それは、一つは日本人の作法というんでしょうか、politenessというふうに英語では言うんだと思いますが、これはちょっと特に西洋人なんかには考えられないことではないかと思います。特に西洋人の中でも欧米、特にアメリカ人はよく言えば自分に自信を持っている。私から見ると、根拠のない自信を持っているという感じで、人から物を学ぶとか、人から話を聞くということがまず無い。「いや違う」、最初にNOって言葉を言う。フランス人もすぐMais nonっていうふうに言う。人の話をまず聞いてない。人の話を否定するところから会話が始まるというところがあります。それに比べると日本人は、英語が下手なおかげで何でもかんでもYes Yesっていうふうに答える。それは外国人から見ると、なんて謙虚な人々なんだろう、そういうふうに誤解してもおかしくないことで、私から見るとそれは日本人が英語が下手だ、あるいは外国人と堂々と渡り合うことができないということに過ぎないと思うんですね。戦後日本を代表する外交官僚がいっぱいいましたけれども、その中で本当に外国の人間とやりとりを堂々とすることができた人は、実は少なかったのではないかと思います。

 日本の歴代首相、今ではすっかり英雄視されていますが吉田茂に始まる自民党の総裁たちも畏怖堂々と振舞っていたことは確かですが、何か役者的な感じがするんですね。本当に自分の意見をきちっと言うことができたか。そういうふうに考えると、私たちがたどってきた歴史と文化の中で、本当に自分の考えで、そしてそれを自分の歴史観に基づいて言えた人というふうに考えると、例外的にしか存在しなかったんじゃないかと思うんです。私たちは文化的には、どちらかというと明治維新で舞い上がったものの、精神構造は江戸時代の虐げられた人々、特に農村、都会の文化から隔絶して、そこに労働力の提供あるいは米の生産、それだけを命じられて、しかし、その不自由の中でもしたたかに製造をし続けてきた人々の文化を、未だに私たちは継承しているんではないかと思うんです。つまり、みんなの前で正々堂々と行動する。そうすると目立ってお武家様から処刑される。そういうことを畏れますから隠れてコソコソとやる。そして集団にまみれて、その集団にまみれることによって自分を守る。今、農民を例にとりましたけど、江戸時代のように戦争の続かない時代が長く続けば、下層武士いや下層だけではない中流以下の武士はみんな苦しかったわけだと思いますね。そういう人たちは、場合によっては農民以下のプライドしか持てない。そういう生活を強いられていた。そういうことを考えますと、江戸の平和を享受したのは、結局アウトローの文化と商人、商人も一部アウトロー化するわけでありましょうけれども、そういう文化、そしてその文化の上に自分たちの世界を作り上げた芸能人たち。そういういわばアングラ文化っていうんでしょうか、社会の中で認められてない人たちの作ったもの、それだけが華やかに残ってはいますけれど、そういうのは言ってみれば、泡沫(うたかた)の文化でありまして、圧倒的多数の人々は貧困の中で、しかししたたかに生きていた。そして、そのようにしたたかに生きるために身につけた小賢しい知恵、小賢しくならざるを得なかったんだと思いますけど、そういう知恵、集団の中に紛れ込んで自分の責任をはぐらかす。そういう生活を数百年に超えてですね、あるいは及んで続けてきたんだと思うんです。そして、そういう抑圧された人々が、たくましく生きる、したたかに生きる、そういう小狡さ。これが、私たちの文化の中心に今もあるんじゃないかと思うんですね。

 ここまではちょっと暗い話になってしまったのですが、最初にお約束したように、明るさっていうのは何かというと、若い人たち、いろいろと自分自身のことを知らないとか、謙虚さを持ってないとか、私たち老人から見ると不安な面があるのですけれども、ただ一つ、すごく私は明るい希望として持つのは、この人たちはしたたかに生きるという小狡さから本当は自由になれるということです。若い人たちを見ていると、依然として小狡く生きようとしている人がいて、ちょっと情けなくなるんですね。おそらく親の教育が悪い、あるいは祖父母の教育が悪いっていうことになると思いますが、その世代の人たちの持っていた小狡さというのは、ある意味で生き延びるための知恵であったと思います。しかしながら、今の若い人たちはそういう小狡さなしに生きていくことができる、そういう時代に入りつつあるということです。日本は、まだ全体としては非常に古い。古典的な言い方をすると、封建的な社会の風習を持っていますけれども、しかしながら、一方で、そのような社会全体の風潮とは全く別に、堂々と生きていく可能性が開かれている。

 その典型的なものが、インターネットビジネスで急成長をした会社、主に携帯電話の会社ですね。日本電電というと古い言葉かもしれませんが、電信電話公社で言ってみれば国の庇護のもとに大きくなった電話会社であります。今まではNTTって言っていますね。そして同じ国策会社として国際通信を担ったKDDI。これは言ってみれば国有企業のようなものであったわけですが、今は民営化され、その二つが覇権を争っているわけですね。片方はdocomo片方はauというわけです。しかし、そのような国策企業に対して堂々と勝負を挑み、もはや3大会社と言われるようにまで成長したソフトバンク。ソフトバンクというのは、私が若い頃は本当につまらない携帯電話をもない時代でありますが、パソコンのソフトウェアを安売り販売する会社であったわけですね。ソフトっていうのはソフトウェアのソフトで、バンクってのはソフトウェアのバンクだったんだと思います。それがいつの間にかソフトウェアなんかとんでもない話で、携帯電話の大きなプロバイダになりました。まだNTT、KDDIに対して劣っているという見方もありますが、それは国策企業ではないのですから、当然インフラに関して不利な戦いを強いられてるところはあった。しかし、瞬く間に二つの会社を席巻するまでに成長してきている。さらに、楽天っていう会社がある。それが三つの巨頭に対して堂々たる闘いを挑み、ひどい負け戦を強いられながらも、決して屈せず頑張っている。すごいことじゃないですか。私は思わず応援したくなりますが、何と言っても田舎暮らしの多い私には、あまりそのような新しい会社のサービスを利用する機会が多くありません。そして、もっとびっくりするのは、そのような携帯電話会社、NTTそしてKDDI、ソフトバンク、楽天、そういう会社が、今や例えば電子決済という政府が推進しようとしている新しい商業形式、それは政府がそれを推進するのは税金を取り損なわない、そういうための罠にすぎないわけでありますが、電子決済の先兵を切っているのは、全部その4大携帯会社なんですね。従来非常に成長を見込まれていた流通業界、コンビニエンスストアも破竹の進撃をしておりますが、そのコンビニエンスストア業界あるいは大きな量販店業界そういうものでも、携帯電話会社が飲み込みつつあるという状況を見ると、すごい時代に入ったなとつくづく思います。

 私のような年寄りは、昔は海外送金をするのにPayPalっていうのを使いました。海外送金、外為というのの手数料が馬鹿みたいに高かったんですね。私がアメリカに行って、講演をして原稿を書く。アメリカからわずかな謝金をもらうわけです。10万円未満の謝金でありますが、その謝金が日本に送られてきたときに、そのうち半分が手数料で取られてしまう。そういう馬鹿げた時代でありましたので、PayPalっていう海外との電子決済っていうのは非常にありがたいものでありました。しかし、もうPayPalのようなサービスが、ごく一般の会社がどんどん参入してきている。そして、それがもはや若い人の間では標準になっている。みんなでコンパに行ったときに、割り勘にするときにその場で割り勘ができる。こういうようなことが若い人の間で日常的に行われているということを見ると、すごいことだなと思うんです。そういう会社を率いたのは非常に若い経営者でありました。当時私は、その若手の経営者がまだ本当に若かった時代に、実際に見ていて、こんないい加減な商売、本当にうまくいくんだろうか、本当に適当なこと言うもんだ、そんなふうに眉唾で考えておりましたけれども、これがみるみる成長していったわけですね。時代というのはそういうもんだと思います。

 そして、私が明るいと思っているのは、そのような携帯電話という新しいメディアの成長に乗った人たちがいたっていう、人生の成功談の話ではありません。私は今まで抑圧されてきて、ずっと一生うだつが上がらないっていう人生を運命づけられてきた日本の古い封建的な制度、日本の古い社会、よく言えば伝統的な社会、その中でずっと抑圧されてきた人々にとって、花開く絶好の機会が出てきているということです。アイディアさえあれば、そのアイディアによってビジネス上の成功者になるっていうことができるだけではなく、私はビジネスとは正反対の学問の世界においても、従来抑圧されてきた人々、学問には向いてないと言われた人々、その人たちが活躍する時代がやってきているんだということ。それをお話したいわけです。具体的に、直截に申し上げれば、女性差別の問題です。日本では、女性だからといって、職業に関してあるいはその職業における昇進プロモーションに関して、差別するっていうことはあいならんということ、法律によって決まっているわけですね。それに合わせてセクシャルハラスメントなどがあってはならないというようなことも法律で決まっている。そのことによって女性の社会進出が著しくなった。そういうふうに評価する向きがありますが、私は国際的に見ると、全く駄目だと思っているんです。それは一言で言えば、リーダーになった人たちの中に女性がものすごく少ないということです。本当にトップマネジメントとして活躍している女性はほんの一握りです。例外的な少数と言ってもいいでしょう。しかし、それは絶対にあり得ないということを、特に若い日本の人々に言いたい。

 そのことを理解してもらうためには国際的な政治経済の分野で活躍している女性たち、例えばドイツで長く首相を務めたメルケルという、東独出身のですよ、東ドイツ出身だったんですよ、その人が統一ドイツの首相として長く指導的な立場を務めた。奇跡的なことだと思いませんか。しかも、彼女は決して政治家を目指して子供の頃からそういうことに励んでいたわけではない。彼女は現代物理学の研究者ですよ。現代物理学の研究者が、自分に政治家としてその役割が求められているという使命感から政治家を志し、そしてずいぶんいじめられたりしながらも、あのようなEUという世界の中で、指導的な本当に指導的なヨーロッパ全体の指導者になったわけです。メルケル首相については毀誉褒貶いろいろありますけれども、女性があれだけ大活躍するということ。それは日本では想像もできないのではないでしょうか。メルケルは政治のプロじゃありません。政治家としての言動が優れているわけではありません。彼女は科学者のように、誠実に客観的に物事を語る、そういう能力を持っていたというだけだと私は思うんですね。そしてそのことが評価できるだけ、ヨーロッパ社会は成熟しているということです。日本は残念ながら全く成熟してなくて、依然として封建的な風土の中にあるのですけれども、しかしこれからは、男性も女性も、古い社会を知らない世代でありますので、もし女性が古い伝統に逆らって、古い伝統を無視して、男性と同じようにしっかりと勉強して、しっかりとした言動をすることができるようになれば、いくらでも活躍することができるはずだと私は思います。

 具体的には、今若い女性の大多数が高等学校で数学や物理というちょっと難しい学問、それに志すことを諦めてしまう。今は日本では、女性が活躍している世界っていうのは非常に限られていて、医療とあるいは介護そして一部法律の世界くらいですね。学問の世界で、数学の世界、あるいは物理の世界で活躍している女性は、本当に一握りであります。しかし、それがいかにおかしいことであるかということは、メルケルの例からも明らかだと思いますが、皆さんにぜひYouTubeのディスカバリーチャンネルの放送を見ていただけるといいと思うんです。科学者として出てくる、特に天文学の世界のように実際にお金にすぐ結びつかない、そういう世界で活躍している専門家は、むしろ女性の方が多いくらいなんですね。政治とか経済の世界では、それがお金に関係するので、あるいは利権に関係するので、未だに男性が多いように思いますが、やはり男性は利権に関わって生きていかざるを得ないと自覚している人が多いんでしょうね。残念なことです。しかしながら、女性は自分が食べていくことができさえすれば、そんなに人からお金を奪うまでお金持ちになる必要はないと思っている人が多いので、利権に関係すること以外のこと、例えば天文学、いくらやってもお金になるはずがないですよね。天文学にはお金がかかりますが、天文学者にお金を払わなくて済むわけです。せいぜい大学教授としての給料だけでいいわけです。一般には、特別の大学教授を除いては、アメリカは特別の例外がいろいろありますけれども、薄給ですよ。その発給をもらっているだけで、研究ができているだけで嬉しいっていう学者はいっぱいいるわけです。そしてそういう中では、女性の活躍が本当に華々しいですね。日本はこれからはそういう時代に入ってくことができる。そういう準備が整っている。それは日本の文化的な伝統が崩壊しているからということです。

 そのためには、若い女性がまず子供学校の段階で、男子生徒に負けないくらい数学や物理のような本格的な学問に一生懸命取り組み、自分の論理的な能力に磨きをかけるということがとても大切です。もちろん数学や物理だけが学問だというわけではなくて、化学も生物、医療、それもとても大切な学問であると思いますが、高等学校段階においては、大学以前の段階あるいは大学初年級って言ってもいい、アメリカで言えば大学4年生まで、つまり大学院以前Undergraduateと言いますけど、そのレベルまではやはり数学とか物理学のような純粋に論理的な学問、それで人に引けを取らないくらい頑張るということがとても大切で、そのような厳密科学exact science、そういうふうに言いますが、その厳密科学をしっかりと収めるということが、そうじゃない分野に進んだときにとっても重要な意義を持つわけで、厳密科学の洗礼を受けてない人が、若いうちから厳密でない学問をやると、結局のところ非常に曖昧な分野において曖昧な言葉を使ったままで終わってしまう。私が具体的な分野名を言えばわかりやすいと思うんですが、ここではインターネットで配信されるということもあり、具体的な名称は上げるのは避けますが、依然として曖昧な言葉、曖昧な概念、曖昧な構想に基づいて語っている分野は少なくありません。でも誤解しないで欲しいのですが、哲学っていうのはそうなんですかという質問に対しては、そうでないということだけ申し上げておきましょう。哲学というのは、極めて厳密な学問です。しかしながら、哲学を哲学的な厳密性において語るためには、やはりよほどの教養が必要で、せめて大学の学部学生3年生以上にならないとなかなか難しいんではないかと私は思っています。というわけで、初年級の間はぜひ数学とか物理学のような単純に厳密な学問について一心不乱に勉強する。そういうような理性を何よりも重視する精神、それに目覚めてほしいな。少なくともその理性を大切にする学問が本当に理解できないとしても、それを本当に理解しようと努力するということが、皆さんの将来を変えるっていうことに繋がるんだと、私は確信しております。

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