長岡亮介のよもやま話168「奇妙な日本語」

 日本語の問題というより日本における日常生活で使われる言葉についておかしいと思うことはしばしばあるのですが、大体それは奇妙な日本語で、伝統的にはそういう使い方は間違いではないかと思うようなものですが、言語というのは時代とともに変化するものですから、それはやむを得ないことであるというふうに私は比較的良く言えば寛大に、悪く言えばいい加減に日本語の言語の乱れを捉えている人間の1人ですが。公共放送のアナウンサーなどの日本語が明らかにおかしいと思うときは、少しこれは問題ではないかと腹が立つこともあります。それはアナウンサーたち、あるいはキャスターというんでしょうか、そういう人たちが使っている日本語が明確なメッセージになっていないという傾向が年々ますます強くなっているということです。

 気象予報という言葉がいつの間にか気象情報と置き換えられているのは気象予報士の人が言うことがあまりにも予報というには外れることが多いということを踏まえて気象情報という言葉にすり替えた、意図的なすり替えに過ぎないと思うので、それはそれとして理解できますが、国際報道を担当しているアナウンサーだかキャスターだか知りませんが、その原稿を書いてる人に責任があるのかもしれませんけれど、私自身が今「かもしれません」という言葉使いましたけれども、その「かもしれない」という言葉は何かっていうと、そういうふうな主張の根拠が自分でははっきりしないということを言っているわけですね。しかしながら、根拠は明らかにできないが、現象としては明確であるというときに、私はそうであるかもしれない。つまり、その問題はアナウンサー個人の問題というよりはアナウンサーの原稿を書いている人のライターの責任かもしれない。とこういったわけです。これは責任の最終的な所在ははっきりとしないけれども、問題点自身ははっきりしているつもりです。

 最近ちょっと私が腹立たしく思うのはいろいろ難しい政治的な問題でそういう可能性もあったかも知れないというような表現をする人が増えていることです。そういう可能性もあったのではないだろうかと言えばそういう可能性を考えるべきだと、そういう可能性がむしろ大きな確率として起こっていたと考えるべきだとそういう主張だと思うんですね。そういう可能性もあったかもしれないというような表現は、一体その確率が大きいと言っているのでしょうか?それとも小さくて、ほとんど無視できるということを言っているのでしょうか?私達は不確実な事柄についてメッセージを発信するときにもちろんそれを断定的に「そうであるに決まっている。なになにであるに決まっている。絶対そうである」というような戦後流行った言い方。これは不適当であるということ。これは間違いないですね。確証がないこと、エビデンスがないことについて何とかであるかもしれない、というふうに言わざるを得ない。

 ウイルスに対する人間の免疫力を高めるためのワクチンこれが効果があるというふうに一応疫学的には証明されているとしても、個人個人によってはそのワクチン接種によって非常に深刻な副反応が出るかもしれないという言明は、「そういう可能性がないとは言えない。むしろその可能性が実際には指摘されている」と、現実的に起こったというレポートがあるということを意味している。しかしながら、もちろんその可能性があるというふうに言うときには、その可能性はしかし1000人に1人という程度ですとか例えばそういうような確率を使った言葉、あるいは統計的な言葉を使うことによって、その曖昧さをある程度数学的に明確化することができるのではないかと思います。

 ところが、しばしばはアナウンサーが言うようにこういう可能性もあったかもしれないと言ったら、それは一体何を言ってることになるんでしょうか?要するに何とかであったというふうに断言する勇気もなければ、何とかではなかったという可能性を否定する。そう言う勇気もない。どちらも勇気もないまま不偏不党の放送という立場を隠れ蓑にして自分の責任を曖昧にする。意図的に曖昧にする表現を意図してやっていると私は思うのですが、こういうのを下衆の勘繰りというのかもしれません。しかし、私は下衆の勘ぐりと言われようとやはり報道に携わる人は報道すべきものについては常に裏を取ってほしい。つまり証拠を握って、その上で報道してほしい。噂話で報道するようなことがあってはならないし一般に最近のテレビ放送なんかにも見られるように本当に人に失敗についてつけ込んで大騒ぎする。そういう報道ばかりが目につくときにやはり不偏不党を謳い、そして、報道するからにはそれなりの証拠とそれからその報道を裏付ける見識ときには、アナウンサーには厳しいでしょうが、学問的な見識を持って話をしてほしいと思うんです。せめて気象予報士が気象について語る程度の気象学に関する知識、これは報道を担当する人には全て求められてるはずなのに、最近は特に女子大学生の就職先としてテレビ局のアナウンサーが人気の職種になっているという話でそれ自身が私にとってはびっくりする話でありましたけれども、そうであれば一層のこと、そういう報道が無知な大衆を扇動することのない公明正大な証拠に基づくきちっとした報道を常に心がける。そして報道するからにはそれを自分の責任として明確に伝える、ということが求められているのではないかと私は思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました