長岡亮介のよもやま話166「流行とは何か?」

 今日は若い人の間で真剣な関心のある「流行」について考えてみたいと思います。流行の最先端を行く、これは若い人にとって重要視されている一つの行動形式ではないかと思うのですが、そもそも流行とは何か?という問題を考えると、流行を追いかけている人は、実は流行の最先端ではなく、既に確立した流行の流れに自分を合わせていると言うべきですから、最先端ところか、むしろ流行の流れが太くなったときにそれに流されていると言うべきですよね。流行の最先端というのはある意味でその時代にない全く新しいものを作り出し、それが新しい流行となっていくということを先見的に見抜いているという、行動様式ではないかと思うんです。ある意味で流行というのはその時代の中にあっては周囲の人から鼻つまみものになるだろう。何、馬鹿やってるの?何みっともないことやってるの?と言われるようなことかもしれない。しかしそれが次第に多くの人々の心を捉えていく。そういうことがもしあったとすれば、まさに流行の最先端を行っていることになりますね。

 しかるに、考えてみるとそのような最先端の流行を作り出していく。そういう人になりたいと思っている若い人は実は少ないのではないかと思います。最先端を行くということは一般にはリスクの大きい厳しいことでありまして、100打って1個当たる。あるいは1000打って1個あたる、あるいはもっと遥かに小さいことかもしれません。そういう中にあって、多くの人々の心、同時代の人々の心をとらえてそれが流行りとなる。流行となっているときにはもう既に流行は様式として確立してしまっているわけですから、もはや最新ではない。最新ではない流行を追いかけるということは厳しい言い方をすれば、時代に翻弄されている、あるいは時代に流されている。人の評価を気にしながら生きているということであり、年取った人がそういうものに流されるのはやむを得ないとしても少なくとも若いこれからの世代の人がそういうことでは、やはりちょっと意気地がなさすぎる。そんなんではこれからの未来が心配になると私なんかは思ってしまいます。若い人が流行を作り出す。これは素晴らしいことですが流行に流される。ということに対しては警戒心を持ってほしい。と思うのに、むしろ最近では若い人が率先してその流行に乗る。一部の大人の中にはソーシャルネットワークサービス、これが充実してきていることが若者たちが非常に短い情報発信をし、その情報発信に流されるということ。そういう現象をもたらしているんだという人がいます。確かにアメリカの政治、大統領選挙何かでのショッキングな出来事を思い出しますと、それにプーチン政権が介入していたというようなことを聞きますと、やはりそういう潮流の恐ろしさというものをやはり私があんまり無視し、あるいは軽視し過ぎるのは間違いかもしれないと反省もしますが、やはりそういう非常に軽薄な風潮に流されるような人でいないでほしいと、そういう人でない人になってほしいと私は願います。

 有名な言葉に不易と流行という言葉があります。不易というのは昔から決して変わらないこと。容易には変わらない、これが不易ですね。しかし、伝統を守り、変わらないということだけにこだわっていると、いわば形が優先してしまい、その形の中に込められた心というのを失ってしまう。言ってみれば形を守ることだけに心が集中してしまう。これでは本当の意味での創造的な活動はできない。伝統を守るというのはそれ自身は良い面もありますが、しかしそれだけでは芸術とか文化っていうのは創れない。そこで必要なのが流行というもので、不易の伝統の中に新しい流れの息を吹き込むということです。芸術においては音楽においても絵画においても彫刻においても本当に多くの流行が不易の伝統に抗して新たに創造されてきたという輝かしい歴史があります。若い人たちに考えてほしいこと、若い人を育てる先生方に考えてほしいと願うことは教育における不易の価値感。決して変わってはいけない教育の理念とその時々に応じて形を変えていかなければいけない教育のスタイル。いわば流行。それを緊張感を持って調和させて同居させるということではないかと思います。

 流行を追いかけることに熱心な若い人たちに申し上げたいことは、流行を追いかけていることはもう既に流行から遅れているということ。そのことその厳しい現実それを忘れてはならないということです。

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