長岡亮介のよもやま話162「成績と頭の良さ」

 今回は、学校の成績というのは一体何かという問題について、短く考えたいと思います。成績が良いということは、悪いことではない。つまりその時には勉強が少しわかっていたということの証拠、あるいは根拠になるかもしれませんが、「かもしれない」というふうに言ったのは、一般には、実は全くそうではないということです。「成績がいいということは、勉強がわかっていたということの証明になるとは限らない」というのは、結局のところ、成績をつけているのは学校の先生で、学校の先生が出した試験に対して、その先生が満足する回答を書いたということの証明でしかない。ということは、その勉強の中身がわかっていたというよりは、その先生がわかっている範囲の勉強の仕方をその先生がわかる範囲でわかっていたということに過ぎない。

 私が学校の先生というのをそのように限定的に語るのは、私自身は大変に良い先生に、特に小学校のときには恵まれていたということを、本当に深く感謝しているのですが、その後多くの先生と言われる職業の人に会い、大学の先生も含めてでありますけれども、先生と言われる人々がみんな勉強について優れた理解を持っているかというと、実はとんでもない。とてもじゃないけど、先生というふうに呼んでその先生に従うという若い人が出てくることに対して賛成できない。そういう先生も決して少なくないですね。皆さんは大学の先生というとみんなすごく立派だと、思っているかもしれません。そう思っていてくださる方が、私としても幸せなのかもしれませんが、大学の先生といっても、本当に千差万別。本当に立派な先生もいらっしゃいますけれども、中には本当にどうしようもないという人もいます。研究は立派だけれども教育は立派ではないという人も存在しうるのですが、私は研究が立派な先生、立派な研究をしている先生は、教育も素晴らしいと、個人的な経験を通しては思います。ろくな研究をしてない先生が、ろくな教育もしてないっていうことですね。確かに反対はありうる。教育はすごく一生懸命やっているけれども研究はろくでもない。そういう先生は比較的平凡な範囲でいくらでもいますけれども、みんな研究者だということで立派なことをやっているかっていうと、論文の数は多いけれども、本当に紙の無駄遣いでしかないというような論文も少なくないのですね。大学の先生にしてからがそうであるということは、高校とか中学の先生にいたっては、本当に自分の専門のことさえきちっとわかっているかということは甚だ心配になります。

 私が少し関係する数学という世界で言えば、高校の先生で数学がわかってらっしゃる先生はむしろ少数ですね。本当にびっくりすることですが、ほとんど数学がわかってらっしゃらない。「教科書に書いてあることを、教科書に書いてあるように教える」ということができるだけで、それも子供たちが高校1年から3年で勉強することを、大人になって何十年も続けていてそれができるようになっている。これでは本当はどうしようもないですね。数学だけではないと思います。国語も英語でも社会でも理科でも、そういう学問的に見たら全く通用しないっていう先生が、偉そうに教えている。その偉そうに教えていること自身は、決してそれ自身に非難されるべきではないと思います。人々は皆、自分の限界の中で生きているのですから、あの人はあの点に限界があるからといって、それを非難すべきではない。この点はしっかり押さえていただきたいのですが、私が申し上げたいのは、そういう先生がやる試験でいい点を取ったとか悪い点を取ったというだけで、そのこと自身に重要な価値があると思うのはおかしいんじゃないかということです。

 言い換えれば、人間が人間を評価するということは、本来ものすごく困難なこと、不可能に近いことで、その不可能に近いことを平気でみんなやって、そしてそれを多くの人がみんな平気で受け取っている。そのことがおかしいので、「所詮人間が人間を評価しているのに過ぎないのであるから、そんなものは所詮大したものではない」という理解が、まず多くの人に共有されるべきなんではないかと思うのです。学校の成績なんかせいぜいそんな程度の価値しかないという認識が、人々の間にきちっとできるということが、まず重要ではないかと思うんですね。学校の成績に振り回されるなんていうことは馬鹿げたことで、しかも学校の成績がさも大事なことであるかのように、やれ絶対評価だとかやれ相対評価だとか、そういうふうに騒ぎまくる人がいますけれども、何をやったところで、所詮あまりよくわかってない人がよくわかってない人間を評価してるということでありますから、決して大したものではないということです。

 その評価が意味を持つとすれば、評価する人が素晴らしい人で、その人に駄目って言われたらもう駄目、良いって言われたら良いと、そういう大師匠と呼べるような人の評価だけが意味を持つんだということ。これを忘れてはいけないと思うんですね。もう小さな小さな世界で重箱の角を突くような試験をやって、その試験を自分が教えた通りにできたならば優秀だというふうにやるような評価には、ほとんど意味がない。だから彼は頭がいいとか、彼女は頭が悪いとかいろんなことを言う人がいますけれども、それも学校の成績だけを根拠に、それは全く価値がない。要するに、その人はしいて言えば、確かにしたたかに大人の言うことを従順に聞いているようなふりをして、上手に生きる人であったということは確かかもしれない。生きる力に秀でていた。このことは言えるかもしれない。しかしそのことと頭脳が明晰であるということは全く別であるということです。しかも、頭脳の明晰さといってもいろいろな明晰さがあるし、いろいろな頭脳の側面がある。ということを考えると、多くの人が言っている「頭がいいとか頭が悪い」という表現それ自身が、そもそも極めて軽薄なあるいは薄っぺらい、根拠と言えない根拠の上に成り立っているものに過ぎないのではないかと思います。

 私はこのことを語るときに、最もわかりやすい例として、多くの人が今大学を出ていますから、その大学を出ているということに対して、その大学で勉強したことを例にとってみれば一番わかりやすいと思います。大学というのはそこで集中的に勉強し、人生のいわば最後の勉強、専門家としての最初にして最後の勉強をやるところであるはずですが、ではそこのときに勉強したこと、専門についてであっても、専門課程に入る前の教養と言われる勉強においてもそうですが、それについて今どれほど理解しているか。それをみんなが一人一人誠実に反省してみるといいですね。一番わかりやすい例は、中学から高等学校まで6年間、大学でさらに2年間あるいは4年間勉強した英語を例にとるとわかりやすいと思いますが、もっとわかりやすいのは、大学で勉強したいわゆる第2外国語というやつですね。フランス語とかドイツ語とかロシア語とか中国語とか、いろいろと皆さん取ったと思いますが、その取った第2外国語について、そのときは成績AとかSAとかいう立派な成績を取った人、いっぱいいらっしゃると思います。しかし、その語学力で、今新聞や雑誌を読むことができますか。あるいは音楽を聞くことができますか。そういうふうに自分に問うてみればいい。何にも身についていない自分を発見するというのが、日本の大学卒業生の99.99%以上ではないかと私は思います。いわば、1万人に1人もマスターしていない。もう記憶の彼方にある過去だから、人々にとって石器時代のような思い出。だから無いのと同じ。そういうものを本当に大事にして、「あの人は頭がいい。あの人頭が悪い」と言うことには意味がないっていうことに、私達はまず気づくべきだと思うんですね。

 そして、本当に大切なのは、だから頭の良さというのを、そのような学校の成績で決めるのではなくて、人生全体において決める。そのために、自分自身が大学の時の試験の前にちょこちょことにわか勉強したというのではなくて、日々毎日勉強を継続する。そのことがとても大切なんではないかと思います。成績についてちょっと知人と話題となったので、今日この話をすることにいたしました。

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