長岡亮介のよもやま話161「騙される側の弱さを鍛えないと」

 気になる言葉の第3弾です。もしかしたら第4弾かもしれません。最近やたら目にする言葉で、何々をわかりやすく教えます。誰よりもわかりやすく教えます。どこよりもわかりやすく教えます。そういうようなキャッチコピーが氾濫していますね。これはごく最近の傾向ではなくて、昔からあったことでした。私の子供の頃もあったように思います。大体は全くわからない人を相手にして、その人に対するサービスを謳うというのは露骨に出ていたので、気に留めなかったのですが、最近そうではない。例えば、電車のつり革広告のような、ほとんどの人の最もよく目にとまるような場所に、そういう言葉が載るようになってきている。しかし、もしその言葉に乗るとすれば、その乗った自分が惨めに感じるということはないのだろうか、と私は余計な心配をします。つまり、わかりやすく教えてもらわないと私はわからない人間である、と見破られているんだとすれば、何が私はいけないのかと感じないのでしょうか。

 相手が優しい笑顔でニタリ顔でしたり寄ってくるとき、にじり寄ってくるとき、それはきっと何かどす黒い思惑がその背景にあるに決まっているということは、私の子供の頃は子供たちの間でさえ常識でありました。しかし最近、その手の基本常識、まさに生きていく上で絶対必要な「騙されてはいけない」ということに対して、人々があまりにも善良、あまりにも素朴と言うべきなのか、それとももっとはっきり愚かと言うべきなのか。そういうふうに優しい言葉で笑顔でにじり寄ってくる人たちに対して、無警戒すぎますね。おそらく親が教えなければいけない「人間として生きていくための最小限の人間社会の基礎知識」、それを教えそこなっている。

 要するに、それは私たちの世代の親たちが子供たちにきちっと教えなかったという責任なんだと思いますけれども、学校がいわゆる決まりきったお勉強の世界だけになってしまった。最近ではいじめとかいろいろな陰惨な問題があります。ありますというより、それが話題となります。昔もそんなことは頻繁にありましたが、話題にさえ上がりませんでした。そういう話題にさえ上がらない日常の否定的な人間社会の側面を見せつけられることを通じて、子供たちは何となく防衛していったんですね。自分たちを大人になるように一人前に鍛えていった。その一人前に鍛え上げるということが、最近はなされづらくなっている。そのために、広告宣伝の明らかに科学的におかしい、あるいは合理性のない、そういう説明に対して惹きつけられてしまうのではないかと思います。広告を宣伝する人が悪いというのではない。その人たちはそれを意識して自覚してやっているのですから、確信犯ですから悪いという以上にそれは単なる犯罪なんですね。でも、犯罪が整理することの論理的な根拠、それはその犯罪に乗る被害者の人がいるということです。被害者を鍛える、あるいは被害者を聡明にする。被害者を頑健にするということなく、その犯罪集団だけを取り締まろうというのが、今の風潮ではないでしょうか。

 私は、それは新しい犯罪を作るだけだと感じてしまうんですね。犯罪をやった人間、本当に不当広告をする人間は破廉恥だと思いますけれども、「絶対得しますとか、必ず儲かりますとか、必ず力がつきますとか」、そんなものがあったらとんでもないことになりますよね。霊感商法なんてもんではありません。それは嘘八百というやつです。それを野放しにせざるを得ないということは、結局人々がそれだけ弱くなっているっていうこと。弱くなっているということは、私たちがその基本的な教育に失敗しているということ。その現実を見つめなければいけないのではないか、と私は思います。そんなちょっと人と外れていることを申し上げました。失礼いたしました。

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