長岡亮介のよもやま話157「専門家という人々」

 今日は「専門家」という概念についてお話するというよりは、「専門家という人々」について、お話したいと思います。一昔前まで専門家というのは、自分の非常に関心の強い分野をもっぱらそこに集中して勉強していて、専門的な知識を身に着けた人々に対して専門家というふうに言ったわけであります。専門家は、「専門のことに関しては詳しくそして深く理解しているであろう」というのが、私たち素人の一般的な考え方であったと思います。しかしながら、こんにち専門家がいわゆる専門分化、専門の各専門に分かれて化けて、その結果、専門家がその専門を通して世の中の重要な事柄についてきちっと判断できる人になっているとは限らない。口の悪い人は「専門馬鹿」という表現をすることがあります。専門馬鹿とは言いませんが、私は専門馬鹿というのは、本当に深い専門を持っている人に対する尊敬心から出る言葉だと私自身は思っているんです。したがって、専門馬鹿ではなくて、「専門に隠れた愚かな人々、専門を隠れ蓑にしている矮小な人々」に対して、「専門家」という言葉が当てはまる大変不幸な時代に、私たちは生きているのではないかと感ずるということです。

 具体的に言うと、専門家の中で代表的なものは政治家でありましょう。政治というのは、実は素人がわからない裏の駆け引きがいっぱいあって、その裏の駆け引きを読んで、相手の出方も全て読み通して、周囲の人々の動きも察知して、次の手を打っていくという決断をするのが政治の専門家でありまして、政治について理解しようと思ったならば、皆さんは囲碁や将棋を勉強するのがとてもいいと思います。囲碁や将棋には戦略というのがありまして、本当にその長期戦略を目指して、手を差していくわけですね。それでも囲碁や将棋の場合1日が2日で勝負が決まるわけですから。短いスパンで考えればいいわけですが、政治の世界に行きますと、10年20年、あるいは100年200年という単位で考えなければならないということもあり、とりわけ中国から私たちが伝わった伝承でありますが、国家100年の大計という表現がある。何が国家100年の大計になるか。それは国を作る上で、教育が国家100年の大計であるとそういった人がいるわけですね。私たちのように、10年を周期として指導要領をコロコロ変えているような国。これは100年の大計があるとは思えないし、私たちが文部科学省という役所、あるいは文部科学大臣という人に渡している権力・権威にも、国家100年の大計を預けるというような、そういう度量がないわけですね。言ってみれば、今の私たち国民は明日の生活を少しでも良くしてくれというような、国家1日の計、国家半日の計というような計画しかない。もちろん、国家1日、国家2日、国家10日、国家1ヶ月、そういう計画も必要なんですが、やはり100年単位で考えないとダメだというものがある。それが教育だということ。私は、我が国において最も欠けているものは、教育が国家100年の大計であるにもかかわらず、その教育に関わる専門家の人々が到底教育を任せるには忍びない。とてもじゃないけど、こんな人に教育を語らせるわけにはいかないと思う。本当に、1日、1ヶ月、1年、その流行を追いかける人々ばかりになっているということ。それが非常に残念に思うことです。

 専門家に任せられない。だから教育は教育関係者には任せられない。そういう思いが私の中にあります。もちろん、学校教育というのは極めて大切で、特に友達との出会い、先生との出会いというのは、特に低学年の子供にとっては決定的に重要なものでありましょう。しかしその決定的に重要な低学年の時に、今の若い人の表現を使うならば、しょぼい先生、しょぼい学校、しょぼい教育に出会った子供たちは、その子供の人生全体がしょぼいものになってしまうという厳しい現実を、きちっと私たちはわきまえなければならない。私の時代はベビーブームと言われました。私たちはベビーブーマーと言われました。ですから小学校のときは1クラス55人くらいが定員でありました。先生は本当に大変だったと思いますが、私たちは大勢の級友に囲まれて、楽しい小学生時代を過ごすことができました。今、小学校の先生が余り始めているので、文教行政は今こそ子供たちに手厚い教育をするということで定員を減らすという方向に向かって、行政を動かそうとしていますが、それが本当に国家100年の大計を考えてのことなのかどうか。私自身は私の子供の頃の経験を通して、残念ながらそれは教育関係者の思うようにはならないだろう、子供に対して先生の数が多くなればなるほど、先生たちが子供たちを見張る、あるいは世話をするという機会が増えるわけで、それは子供たちの成長のために本当に良いことかどうかわからない。そういうふうに思います。子供たちを成長させる上で、少人数教育というのはときに非常に重要でありますけれども、実は学校教育というのは、個人教育ではなく集団教育というところに大きな意味があるということを、多くの人が忘れている。家庭教師が一番いい。最近はどうもそういうふうに考えている人が多いようで、駅の看板では最近は病院と塾の広告しか見なくなりましたけれども、個人塾、「みんな1人1人に合った教育をします」ということをうたい文句にしているところがたくさんあります。確かにそれは良さそうですけれども、もし個人塾であるとすれば、メアリーポピンズのような素晴らしい家庭教師がいてこそ成立するという、教育の持っている深淵な逆説を多くの人は考えたことがあるんでしょうか。「もししょぼい人が家庭教師になったならばこんな恐ろしいことはない」ということに気づく人が少ないのはなぜでしょうか。

 私は今、「専門の職業」ということについて教師を話題にし、政治家を話題にしましたけれども、同じことは宗教家に関しても言えるわけで、宗教的な指導者というのは、かつての世の中では王様の権威を支える最も重要な仕事を託されていたと思います。社会的な指導者のためのブレーンであったわけでありますね。社会的な指導者のためのブレーンとしては、実は数学者もいたんですね。これは意外と知られてない事実ですが、「暦を読む」ということを通じて、数学者が天文学的な知見を利用して政治にアドバイスをしていたわけであります。数学者もしょうもないですね。そういった自分の数学的な知識をもとにして、占いみたいなことで生業を立てていたという過去があるわけですから、私たちも数学者として胸を張れたわけではありません。しかしながらそういう生き方もしていたわけです。そういう中で宗教的な指導者というのは、大変に立派な人であったはずなのですが、古今東西と言っていいくらい、宗教的な指導者は本当に宗教的な指導者であるということが、現代では大変少なくなっていますね。現代において、集票的な指導者という名前に本当に値するのは、ヒマラヤ仏教の宗教的指導者とローマンカトリックの法皇のような存在ですね。日本の仏教にいたっては、今日本の仏教界は皆さんはご存知ないかもしれませんが、私のように少し距離を置いてしかし近くにいる人間から見ると、結構宗派によっては宗教改革と言って良いような教団内部の自己浄化運動がすごく盛んに行われているんです。しかしながら末寺と言われる、いわば私たちに接する末端のお寺は、言ってみれば葬式会社のような仕事になってしまっている。そしてそのことに危機感をあんまり感じていない。お寺の住職さん、あるいはお宮の神主さは危機感を感じてない。もはや自分が宗教的な指導者でなく、宗教的な祭儀を行う、言ってみればダンサーのような存在、それを披露してお布施をもらう。そういう仕事に貶められているという現実に気づいていない。その証拠に、なんとほとんどのお寺やお宮で世襲が行われている。これは本当に恥ずべきことだと思いますが、日本の宗教的な世界においては、そのようなものが疑われることなく行われている。これは日本が、田舎は過疎化で解体したはずであるのに、「田舎の文化」が都会にまで押し寄せてきてる。その田舎の文化の生き残りが、非常に醜い形で生きているということだと思います。そうなると、宗教に関しても、専門的な指導者を本当の宗教の指導者として認めることが難しいということがあるわけです。

 実際に今、アラブの世界でイスラム過激派と言われる政治勢力が非常に大きな影響力を持っていますが、その宗教指導者の中には宗教的な神学的な勉強において非常に深い理解を示して、それ故に多くの信者を引きつけている人も多いのですけれども、アメリカのキリスト教の一部にあるように、言ってみればお説教がうまい、お説教というよりも、宗教の名を借りた演説だと思いますが、そういうスピーチで食っているという人も数少なくない。アメリカではそのスピーチをする有名な人の年収はけたたましく高い。そういうとんでもない宗教家が、実際には存在しているわけです。何も知らない人は、「あの人は宗教家なのに、全然宗教家らしくない。あの人はクリスチャンなのにクリスチャンらしくない」と、自分のことを棚に上げてそう言います。

 私たちは、宗教の問題に関して、あるいは道徳の問題に対して、教育の問題に関して、政治の問題に対して、そのような一部の職業人以上に謙虚に、高い見識、深い理解、それを尊敬して、自分たちの理解を構築していくという努力をしなければいけないのに、それを全く普段していないで、葬式のときは坊さんに頼む。そういうような葬儀社の代わりとしてお寺を使う。そういう文化の中に平気で過ごしていることに対して、やはり自分たち自身を深く反省しなければいけないのではないかと思います。皆さんが教育のことを考えたかったら、自分が教育に対してどれほど真剣に向かっているか、それ自身を反省すべきです。自分の子供を育てるときに、コンピューターゲームのようなもので遊ばせて、自分は楽をしておいて、子供が成長してから、うちの子供はゲームばっかりしているというふうに怒る親が多いと聞きますけれども、コンピューターゲームっていうのは、言ってみれば子育てロボットの走りでありまして、あんなものに子供を育てさせていいはずがないということに、どうして私たちは自分たちの責任を重要に感じないのでしょうか。私たちは専門家という人を多く抱えているけれども、一方でそのような専門家に任せるわけにはいかない。教育にしても、政治にしても、あるいは場合によっては健康問題に関しても、専門家に任せるわけにはいかない。こういう厳しい状況にあるということ。それを私自身が、本当に真剣に謙虚に考える姿勢を何とかもう一度取り戻さなくてはいけないのではないかと、私は思うんです。そして、多くの人が私にきっと賛同してくださると思っております。私の言っていることは非常識なことではなく、実は当たり前のことをすごく繰り返している。だから皆さんの中には、「長岡、また同じこと言っているよ。もう当たり前のことを繰り返すのはやめてくれ。」そういう気持ちもあると思いますが、私はあえて「当たり前のことが、実は当たり前でなくなっている世の中である」ということに警鐘を鳴らしたいと思って、お話をいたしました。

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