長岡亮介のよもやま話152「Critical Thinking(鵜呑みにしない)」

 最近ちょっと気になることについて、今日はお話ししたいと思います。年をとってくると気になることがいろいろあるんですが、主に気になるのはみんなが喋っている言葉です。私は、特に十数年あるいは数十年という規模で考えた方がいいのかもしれませんが、日本の人々がみんなと同じようなことを喋るようになった。よく言えばみんな意見が一致しているということでもあるのですが、むしろみんな一つの意見にまとまりつつあるというか、収束しつつあると、数学の言葉で言うとこうなりますね。もっとわかりやすい言葉で言うと、かつての戦前の大政翼賛会的な体質に戻りつつある。こういうと私の持っている危機感が皆さんにわかっていただけると思うんです。みんなが同じようなことを言って、みんなが同じように人を責め、みんなが同じように自分を守る。本当は一人一人が、持っている多様性を豊かにすべきだし、いろんな人が意見を言ったときにその意見を聞いて、自分なりにそれを咀嚼し、しかし「私はちょっとこう思うんだけど、こういう面は考えなくていいのかな」というような、その人独自のスパイスが効いた意見を言うのは、これは民主主義社会の基本だと思うんですね。みんなが自分で考える。みんなが自分でみんなのことを考える。これが先進的な社会であると私は習い、そのように生きたいと願って、この年まで生きてきました。そしてそのような中で、日本は非常に厳しい戦争の体験を繰り返すことなく、いわば平和な時代を77年間ぐらいにわたって維持してきたわけです。

 しかし、日本の平和は世界の平和と一緒では必ずしもなかった。私たちが「平和だ。繁栄だ」というふうにはしゃいでいるときに、すぐ近くに悲惨な人々が居たんだということ。そのことを本当に毎日嫌というほど、見せつけられている日々だと思いますが、そのときにそれに対して、私だったらこうしたいとか、例えばテレビとか新聞とかで報道されていることが、ここが素晴らしいんじゃないかとか、この点がおかしいんじゃないかとか、偉そうな意見をいろいろと発表している人がいますけれども、そのような偉そうな意見の裏側に、やはり非常にせせこましい考え方があるのではないかというふうに、自分なりに考えて批判的な意見を言う。批判的な意見を言うということは決して人を非難するとか、人をおとしめるっていうことではないんですね。Critical Thinkingって英語で言いますけれども、要するに一言で日本語に訳せば、「鵜呑みにしない」ということです。しかし、私たちの文化は今一体どうなっているでしょうか。鵜呑みにするということが当たり前になっている。

 ちなみに鵜呑みの鵜ってのはどういう意味だか知っていますか。鵜飼っていう鮎を取るたびに鳥を使って、鳥に潜らせて、泳いでいる鮎を鵜が捕まえる。そして飲み込む。鵜は本当にごっくんと飲み込む。何も噛まないんですね。ですから、鵜の首を縛って鵜を泳がせると、鮎をたっぷり食べて、しかし何も噛んでいませんから鵜の首の中に新鮮な鮎、生きた鮎がたくさん詰まっていて、鮎を釣るのはなかなか難しいことなんですが、鵜で取るととっても簡単なんです。そういう鵜を飼育して自由自在に操る。それが長良川とかっていうところの有名な夏の観光になっているわけですが、鵜っていうのは鵜呑みにする。丸呑みしちゃうんですね。ちょうど鵜が鮎を飲み込むように、「人の意見をそのまま飲み込むっていうのを、鵜呑みにする」っていうことなんだと私は思うんですが、それが正しいかどうかは知りません。

 でも、鵜呑みにするということはよくないことで、自分なりに考えるということが、とても大切なんだと思います。自分なりの考え方っていうのは素人の考え方だからそれに限界がある。やはり専門家の意見は聞くべきだ。これはとても正しいですね。でも、専門家が言うことだから本当のことに違いないというのは全く逆なんですね。専門家の意見を尊重して聞くということと、専門家の意見を信用してそのまま鵜呑みにする。それは正反対だということです。そして、そのように鵜呑みにしてはいけないということを教えることが、学校教育の一番の基本なのに、日本の学校では、どちらかというと、正解をいかに早く出すかっていう方法、それがあると信じて、言ってみれば正解のためのマニュアル、あるいは良い点を取るためのマニュアル、場合によっては合格のためのマニュアル、時には一番ひどい場合は人生をパフォーマンスよく生きる。そして苦労のわりにパフォーマンスが悪い、コスパが悪いと最近は言うんだそうですが馬鹿げた話で、苦労が多い人生の中に、輝けるダイヤモンドのようなものが潜んでいるということ、それに気がつかない。つまりコストをかけずに、成果が出せる。例えばお金が儲かる、そういう人生が理想の人生だ。そういうふうに若者が疑わなくなっているっていうのは、驚くべきことでありまして、こんな議論が通用するのは、日本と開発途上国だけであると私は思いますが、ともかく大切なのは正解を覚えることではなくて、「自分でそれが正しいというふうに納得するまで考える」ということですね。

 そういう点で、例えばコマーシャル収入を得ながら、ニュースを報道しているときに、そのニュースに対して、コマーシャルを稼ぐという目的で運営しているジャーナリズムがどのような考え方でそれをやっているのかという背景を探ってみれば、それは視聴率を稼ぐ。視聴率を稼ぐということでスポンサーを喜ばせる。視聴率を稼ぐということは、大衆を喜ばせるっていうことですね。大衆を喜ばせる意見をいっぱい情報として流して、それで報道だっていうふうに言っている。こんな馬鹿な話はあり得ないですよね。大衆が自分たちが聞いて嫌な気持ちになる。そして大衆がもっともっと自分たちは努力しなければいけなくなる。そういうことを言って初めて、本当の報道と言えるんではないかと私は思うんですが、皆さんは、いかがお考えでしょうか。

 私たちはかつて、大東亜共栄圏のような言葉を使って、日本が中心になってアジアを西欧列強の植民地から解放して、そこに大東亜というアジアの巨大な経済圏を築くんだと、そしてともに繁栄するんだ。そういう構想のもとに実際にやったことは、西欧の植民地を「解放」して、西欧列強の軍隊を追い払って、そこに自分の軍隊を送り込むということであったわけですね。しかし、言葉の上では大東亜共栄圏、綺麗な言葉です。その綺麗な言葉に浮かれて、日本国民は日本軍がアジアにどんどんどんどん進出し、いろいろな植民地をカッコ付きでありますが「開放」する。日本がその代わりにそこを統治する。あるいは傀儡政権を作る。そういうことをもって、みんな大喜びしてたわけです。そういうふうに「世論が統一されるということが、いかに恐ろしいことであるか」っていうことを、私たちは痛いほど、本当に同胞のものすごい悲しみと犠牲の上に学んだはずではないでしょうか。その事をすっかり忘れ、大政翼賛的な政治に反対する者は国民の敵である。それは非国民である。国民とは言えない。そんな言い方が、国民の間でなされていた時代。それは決して日本の警察とか、もっと怖い公安部、その人たちがお前たちは非国民だって言っていただけじゃない。国民一人一人が、あの人は非国民だ。そういうふうに告げ口をする。そういう文化の中に私たちはいたということを、忘れてはいけないと思います。

 私たちは、自分たちの世論が一つの方向に向かって急速にまとまっていくというときに、それが「平和を希求し、みんなの幸せを実現する」というものだったらいいんですけれども、歴史上そんなことは滅多になかったわけですね。実際は、政治家が世論を統一し、そのことによって自分たちの政治的な野望を実現しようとしていたに過ぎない。そのことを私たちは痛いほど知っているのですから。世論が一つの方向に向かってまっしぐらに進むということに対して、最大の警戒心を持たなければいけないと思います。私もそうですが、今のロシアがやっていること、プーチンがやっていること、あるいは習近平がやっていること、金正恩がやっていること、賛成できません。でも賛成できないんですが、彼らがそれでも国民の支持を失わない、あるいは権力基盤をより強化しているとすれば、そこに秘密が隠されているはずです。その秘密に、私たちも少しでも知恵を持って迫るようにしないと、結局のところ、コマーシャルで収入を上げたい報道のいわば餌になってってしまうということ。そういうことに警戒を怠らないようにしたいと思います。

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