長岡亮介のよもやま話150「愛の陥穽」

 前回、私たちがハンセン氏病を巡って犯した許されない過ち、後悔してもしきれないような過ちについて、お話いたしました。このような特異な例が存在するというだけではなく、私たちが振り返ってみると、とんでもない間違いをしょっちゅうしでかす。そういう存在であるということを見せつけられる思いがすることがしばしばあります。私たちは自分と違うものに対して、ものすごい憎悪に近い感情、あるいは嫌悪を感じて平気だ、というふうになってしまうことがあります。その典型が、私は「母校愛」というものだと思うんですね。自分の学校に対する愛情。私自身は小学校時代も中学校も高等学校・大学も楽しかったんですけど、一番楽しかったのは何といっても大学なんですが、それでも小学校の時代は懐かしいです。中学校・高校も懐かしいです。しかしだからといって、その学校のためにあるいはその後輩のためだけに何か自分でする、ということに対してはためらいがあります。母校に対する恩返しという気持ち、それが全くないわけではありませんが、別に隣の学校も含めて全ての学校に対して、同じように愛情を感じてもおかしくないんじゃないか。

 同じことは「郷土愛」についても言えるわけで、私は生まれが長野の山国、と言っても長野市でありましたから、長野の乾燥したキリッとした気候は今でも大好きです。東京に住んでおりますが、東京で風が吹くと爽やかだと言っても、その風の爽やかさというのは何か湿気ったもので、長野の風とは全然違うとつくづく思います。そういう意味で育った環境に対する郷愁は常にあります。でもそれが「郷土愛」っていうふうに言われ、長野は好きだけれども新潟県は嫌いだ、長野は好きだけど群馬県は嫌いだ、長野は好きだけど埼玉県は嫌いだっていう、こういう排他的な「郷土愛」になるということは、やはり警戒すべきだなっていうふうに思います。皆さんはご存知ないかもしれませんが、長野県というのは大変南北に長い県でありますので、長野市という比較的北のところに善光寺があるというために、県庁所在地があるわけでありますが、長野県の中には長野市の他に大きな市が結構あるわけで、特に長野市以外の市の方が文化的には頑張ってるところがあります。最も有名なところは松本でありましょう。最近進出著しいのは佐久というところがありますね。反対に、昔素晴らしかったのに新幹線が通らないという理由でかどうかわかりませんが、だんだん寂れていく私の大好きな小諸という街もあります。とにかくそういうふうな「郷土愛」に対して、自分の育った長野市が第一で、松本とか諏訪とか佐久とかは嫌いだというふうに、排他的な「郷土愛」になっていくことがしばしばあるんですね。

 「母校愛」もそうでしょう。自分の学校を応援するために、他の学校に対して野次を飛ばす。そういう雰囲気がやっぱり私たち国民の中にあるように思うんですね。それに関連して、私はそれが露骨に出るスポーツ、野球のようなスポーツは好きになれません。相手チームの失敗を野次で精神的に動揺を誘う。それが戦略だという人がいますが、そういう戦略を持っているようなのはスポーツとしてはあまり感心しない。イギリスなど歴史のある学校ではボート競技が非常に盛んなのですが、なぜボートなのか。このことを昔、ケンブリッジで同僚に質問したことがあります。なんでラグビーとボート、それがこんなに人気なんですか。そしたら答えは簡単でした。それは全ての能力、様々の能力を持った人が様々な場所でチームに貢献することができる。そして、もう一つ大事なポイントは、勝つということはとても大切なことだけども、負けたときに、それは悔しいが、負けた原因がこの人が失敗したせいだというふうに、誰も言えない。これが団体競技の素晴らしいことで、チームプレーというのを実際に実践するスポーツとして、ラグビーとボートっていうのは典型的なんだと聞いて、なるほどそういうものかと思いました。確かにボートで遅かったからといって、3番目のかき手が下手だった、そんなことはなかなかわかりませんよね。またそれに対して、野球ではピッチャーがストライクが入れなかった。そのためにフォアボールで押し出して負けた。こういうようなことになると、ずっと永遠にウジウジと言われるというところがありますね。駅伝もそうです。日本人は大好きなスポーツですが、私はかつてイギリスの友人が言った「チームプレーの良さ。」個人攻撃に決してならないというチームプレーの良さが、やはり紳士のスポーツであるなというふうに思います。そういう意味で、「母校愛」とか「郷土愛」というのは、しばしば排他的な感情に発展する。発展するのか後退するのかわかりませんけど、そういう排他的な感情になりがちであるということに対して、私は大変警戒心を持っています。

 同じものが「愛国心」についても言えるわけで、「愛国心」というのは一体何なんでしょう。あるいは「民族愛」というものですね。私は、美味しい和食をいただくと、ああ日本人でいて本当によかった。こんな美味しいものを美味しいと感じられる、そういう人生を送れてよかった、とつくづくそう思います。だからといって他の国の人々の食事に対して、日本の食事が優れていて、相手の食事が劣っている、そういう言い方をすることは、自分自身では避けたいと思っています。「愛国心」というのも、抽象的な国を愛するというようなものは、極めて怪しい。それに対して自分の育った環境、その中でいろんな人との具体的な付き合い、それを通して育った「愛国心」、これは否定しようがないというふうに思いますけれども、しかし「愛国心」とか「民族主義」とか、そういうものが、排他的になって他のものを侮蔑する。時にはそれを徹底して嫌う。そのために、「愛国心」のようなものが使われるということに対して、私たちは最高度の警戒心を持つべきだ、とそういうふうに思います。外国人の振る舞いに対して、時々私も腹立たしく思うこともありますが、それの100倍くらい日本人の同僚に対して腹立たしく思うことが多いわけでありまして、やはり「民族主義」とか「愛国心」というのは気楽に使ってはいけない。それに流されてはいけないと思います。そういう流されるものの、最高にひどいものがヘイトスピーチでありましょう。

 今ウクライナとロシアの関係で言えば、日本人の中で、ロシアの側に立って議論する人はまずいないと思います。私自身もソ連時代からのソ連に対してある種の憧れを持っていた人間であるということを認めておりますけれども、しかし今のプーチン政権のやり方は本当に許せないと思いますし、ロシアの国民がそれにみんな乗せられているとは思いませんが、言論統制・マスコミの流す一方的な情報によって、プーチンが正しいってそういうふうに思ってる人もいるかもしれないと思います。しかし私の知る大多数のロシア人は、プーチンのやり方に対して極めて批判的であるということを、私は皆さんにもぜひ知ってほしいと思います。そして、今のプーチン・ロシア、あるいは習近平・中国、金正恩・北朝鮮に対する日本人の持っている非常に下賤な関心、卑俗な関心と言ってもいいですね。あるいは低俗な感情と言ってもいいでしょう。そういうものを煽るような発言が、いろいろなメディアを通じて繰り返し流されておりますが、それは実に恥ずべきことであると私は思います。皆さんの中には、そういうヘイトスピーチのようなものを聞いて、「ざまあみろ、その通りだ」というふうに胸がすく思いをしてる人もいるかもしれませんが、それは決して正しくないということ。それを時々思い出していただきたいと私は願っています。

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