長岡亮介のよもやま話149「犯しやすい過ち」(6/24TALK)

 前に私たちがともすると、私たちの心とか精神に強く影響を与える化学物質を特定することによって、私たちの心や精神に迫ることができると。考えがちである。それをもって「科学的なアプローチであると思いがちであるということに警戒しなければならない」というお話をいたしました。オキシトシンというようなホルモン、普通は愛情ホルモンと言われているものですが、それが他人に対する憎悪あるいは他人に対する自分の酷い行いを正当化する、そういうものにも転用されうるという話で、これをもって科学的に偉大な発見だっていうふうに思う人もいるようですが、私自身はあまりそうは思えないんですね。その理由については前回詳しく述べましたので、今回は省きたいと思うんです。ただ、私たちの心の中にある一種のよく言えば自己愛というんでしょうか、”利己心”と言ってもいいのですが、「自分の生命を大切にする。そしてそのために周りの生命をもう大切にしなければいけない」という人間らしい種としての聡明さっていうんでしょうか、人間は単独では弱い存在ですが、仲間と協調することによって強くなれるというのは、私たちの先祖の大発見だったと思います。

 要するに、““利己心””というものが利己心としては成立しない。“利他心”つまり自分自身に利益をもたらすために、他人にも利益をもたらす。そういう“利他的な心”というのが実はとても大切だということを、私たちの先祖は学んできたわけです。そのように「自己中心ではいけないんだ。周りの人のことを考えなければいけないんだ」ということ、これが人類の出発点であったはずですが、にもかかわらず、私たちの心の中に、”利己心”と“利他心”とが非常にえげつなく共存するというか、あり得ない形で共存する。言い換えれば、”利己心”の故に、自分自身の存在をも否定するようなくらいひどい仕打ちを他人に対してしてしまう、という傾向が潜んでいる。私はそれが何かのホルモンのせいだというようなことを言ってわかった気にはならない。人類が昔からそうであったという歴史を知れば、それは明らかだと思うんです。確かに食べ物が限られているときに、その限られた食べ物をみんなで分かち合うということができないくらい少ないときには、他人のものも奪って自分で食べるというところ、そういう動物の本能的なところを、そういう心から人間も自由ではないと思うんです。それよりももっとえげつないのは、自分の身の回りに、例えば伝染病にかかった人、感染症にかかった人がいると、その感染を恐れて、その病気に苦しんでる人を迫害する。いわば仲間外れにする。そういう文化的な伝統はおそらくどこの文化圏にもあったのではないでしょうか。新約聖書の記述するところによれば、たった2000年ほど前の話でありますが、らい病というだけで、人々の暮らす村から外れたとんでもない僻地の谷に、らい病の人が追いやられていたという話ですね。今はらい病という言い方に変わってハンセン氏病っていうふうに言います。これが実は人に感染する感染力が非常に限定的であって、普通には隔離する必要さえないということが、現代科学では明らかになっているわけでありまして、そういうハンセン氏病の人を差別したあるいは差別してきたという制度を作った国に対して責任賠償が求められるという裁判の話も、皆さんもよくご存知のところであると思いますが、とても恐ろしい病気で顔貌なんかまで崩れていくわけですね。そういう病気の人を自分も感染したら嫌だからということで追いやる。そして、聖書の中ではその人たちに食料を運ぶ人たちの話も出てきますので、決して差別して遠ざけていたっていうだけではなく、その人々の生活と少しでも連帯しようと思っていた人が存在していたらしいこともわかりますけれども、やはり差別されたことには変わりないと思うんですね。

 ハンセン氏病のような感染症だけではありませんね。ようやく最近落ち着いてきたとはいえ、COVID-19、2019年に国連に報告されて、それ以来日本では2020年の春くらいから話題となってきたわけです。私自身が入院したのはまさに2020年の3月でありましたので、その頃COVID-19の名前が日本では「新型コロナウイルス感染症」という奇妙な名前でやたら叫ばれておりました。そして、その病気に感染した人がいまでは感染者の数がすごく多くて、もはやその人たちを差別するどころではありませんが、私が2020年の春に入院したときには、まだCOVID-19の患者というだけで差別され、中には「田舎の方の村に帰った若い人がそのウイルスを自分と一緒に運んできたということで村八分になり、その一家が郷里を引っ越すという話まであった」ということを聞いて、本当に呆れ果てました。やはり私たちの心の中に、自分の身を安全にするということが最優先で、そのためには他人を隔離する、あるいは差別するということも許されていいんだという心が残っているということ、それを今更ながらに今明らかにしたわけであります。患者を隔離するということは、病気の蔓延を防ぐ上でそれが唯一の手段であるという面があることは間違いないわけですけれども、一方で人間社会においては、隔離というのは、よほどきちっとやらない限りはとんでもないことになる。人間社会の、あるいは人間という生存の否定に繋がりかねない、という恐ろしい考え方であるわけですね。quarantine(キャラティーン)という現代の言葉が、イタリア語の「40日間会場で隔離する」ということに由来するという有名な話がありますが、当時ペストの病気というのは今のCOVID-19とは比較にならないくらい恐ろしいものであったんだと。極めて高い致死率でありましたから、特に有名なアイザック・ニュートンの時代の“ロンドンの大ペスト禍”、Plague(プラーブ)って言われていますけど、それは本当に大変なもので、人口の3分の1くらいが亡くなくなったというふうに言われてますから、病気に対して、特に感染症に対して私たちが警戒しなければいけないっていうのは確かなんです。

 けれども、人間社会は相互に繋がり合って成立しているということを考えると、その社会を分断して、どっかの国のようにコロナの発生をゼロにするというようなことは、実際上ありえない政策である、と私は思うんですね。いろいろな政策が様々な国によって取られ、しかしその政策とは無関係にコロナウイルスに対する感染症というのが、何だか突然落ちついたような感じがいたします。「それぞれの国の異なる対策が、それぞれに有効であった」ということは、科学的には考えられない偶然的な確率でしか起きないことだと思いますが、そういうことが実際に現実に起きているわけです。「その背景には何があるのかということ。」これこそ科学の問題として真剣に取り組まなければいけない問題だと思いますが、医学のウイルス感染症というのは特に難しい問題でありますので、基礎医学の研究者たちにとってこんなに面白い問題はないというくらい、皆さん興奮して頑張ってらっしゃるんだと思いますけど、そもそも「人が感染する病気に対して、その人を社会から孤立させることによって、病気の蔓延を防ぐ」というのが、私たちにできる唯一の対策であると同時に、それをやってしまってはならない。それは、言ってみれば、ある決められた制約条件のもとでのみ、つまり「その隔離というのを解除するという条件下でのみ、やって良い政策である」ということを忘れてはいけない、と私は思うんですね。私たちは多くの過ちを歴史の中で犯してきた。ハンセン氏病はその典型でありますけれども、ハンセン氏病に限定されるわけではありません。私たちはつい最近もSARS-COV2という新しいウイルスに対する感染者に対して、社会的に見てありえない措置を取ってきたということを、現代の屈辱と思い、そしてそれがどうやって回復することができたのか、あるいはその病気からどのようにして私たちがそれを克服して、こんにちの生活を取り戻したか。それをちゃんと科学的に立証するという行為を通して、この過ちを繰り返してはならないと私は強く感じています。

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