長岡亮介のよもやま話148「科学とは何か」

 前にも何回か取り上げた話題でありますが、「科学とは何か」あるいは科学者でない人にとっても科学的というのは現代を生きる上でとても大切な価値観を表現する言葉ですので、「科学的という言葉」について、少し根本的に考えてみたいと思います。最近あるテレビ番組で、人間が自分の家族を含め身近な人に対して非常に深い愛情を注ぐ、あるいは高い団結を発揮する。これが人間の他の動物に対する強みを実現してきたところのものであると、こういう話があります。一方で、その同じ人間が他の人間に対して、ときに考えられないくらい非常とも言えるような行為をする。戦争というのはその最たるものでありますが、同じ人間が人間に対して愛情を注ぐときと相手を殺しても構わないというふうに思い込む時、それは実に不思議な人間の感情であり、人間の歴史を作ってきた基本的な力と言ってもいいと思いますが、それが物質として特定されたという話なんですね。ある種のホルモン、それが人間にあるときには仲間に対して愛情を抱くように、そしてあるときには同じ仲間であるはずの人間に対して、それを他人と思い、自分の集団に敵対する勢力と考えて憎しみを爆発させるという話です。こういう話を聞くと、人間が同じホルモンによって全く違う行動へと導かれていく。そういう人間の存在の不思議さとともに、「人間のそのような人間的行動をつかさどる物質的な原理が発見された」というふうに短絡的に考えてしまう人がとても多いのではないか、と私は心配しています。そのような人間の感情あるいは衝動、時には愛情、時には情緒をつかさどる物質的ないわば引き金triggerになるものはあるとしても、その「trigger引き金をもってして、感情の本質だっていうふうに見ることができないこと」は前にも何度も言ったことですが、私達は、「目で見、耳で聞き、舌で味わい、肌で感じる」とそういうふうに言ったとしても、それを信号処理してるのは大脳などでありまして、大脳を構成している脳細胞がそういう感覚を感じてるのかっていうと、そういう感覚を感じているというふうな情報を処理しているだけで、そこには痛みも、うるさい音も、綺麗な音も、美味しい味も、もち肌のような触覚も何もないわけですね。それはあくまでもそのようなものとして、人間が成立しているところの物質的な根拠であって、物質的な根拠に全てのことが還元されるわけではない。多くの人が科学というものを、そういう物質的な根拠に還元することだっていうふうに誤解してるんですが、これは唯物論といっても、そんなに高尚な唯物論ではなないと思うんですね。私達若い頃はこういうのを“タダモノ主義”っていうふうに呼んで軽蔑してきましたけれども、物質的な原理に究極のところを求める。唯物論の思想というのはフォイエルバッハに一つの頂点を見ることができるわけですけれど、これは近代合理主義の一つの、大げさに言えば、とても極端にまで歪んでしまった思想であって、私達は唯物論的な原理でもって説明することができるとは思っていない。科学者もときに唯物論を名乗る人がいますけれども、圧倒的に多くの人が科学的な美とか科学的な心理というのを語るときに、決して物質的な美しさ、物質的な原理でそういうふうに語っているのではないと思います。

 このことはもっと詳しく展開しないとわかっていただけないかもしれませんが、わかりやすい例えで一つ言いますと、私達は例えば砂糖を甘いと思う。砂糖というのはいろんな果糖とかショ糖とかいろんな糖類があるんですけれども、そういうものが舌の味蕾というところに液体で触れると甘味を感じる。甘味を感ずる神経がそこで信号を発して、脳に対して甘いという信号を送るわけですね。甘いという信号自身が甘いわけではないと言ったら、皆さんわかっていただけるでしょうか。それは甘いという情報に過ぎない。その甘いという情報を見て、これは素晴らしく甘い、素晴らしく美味しいと思うのはどこか?それを多くの人は頭脳だって言うんですけど、皆さん、美味しいお菓子をぜひ今度ゆっくり味わいながら食べてみてください。頭が甘いと思っているのでしょうか。明らかに違う。そういう自分を発見するに違いありません。私達は甘さの本質というものについて、未だにきちっと理解していない。甘みというものを作り出すいろいろな化学物質を発見し、時には合成することさえできている。人工甘味料というのは私が子供の頃からあります。昔は体に毒だっていうふうに言われましたが、最近は砂糖よりはよほど体にいいという言い方もありますね。そういう言い方の変化1個取ってみても、昔言ってたこと今言ってることと違うじゃん、というふうに思ったりもするわけです。
 同じことは、現代の最先端の科学的知見と言われてるものについても、3年もすれば全部塗り替えられる。そのくらいの勢いで変化しているということに気づいてほしい。だからこそ科学が科学たる所以なんですね。科学は「私の説明がさっき言いましたけど、それは不完全でした。もう少し深いことがわかりました」と言い直す。それで言い直した舌の根も乾かぬうちに、「さっきそう言いましたけど、実はもっと深いことがわかりました。」こういうふうに認識がどんどんどんどん深まっていく。ここに科学の科学たる所以があるということです。つまり、物質的な原理で説明した気になっていては科学になっていない。その物質的な原理で説明しようとしたときに、それをさらに本当の現象、私達を身の回りで起きている現象と結びつける。特に感覚の場合はそういうのがすごく大きいわけですが、その感覚というものと、あるいは心の動きというものと、物質的なものがどのように関連するかということについては、永遠の謎というべき科学的な難問であるということを忘れていただかないようにしてほしい。そういうふうに心から思います。ちょっとやそっと物質的な原理がわかったくらいで、科学の大きな前進・大発見があったというふうにはしゃぐのは、本人はそれで結構ですが、それはやはり科学の第一段階でしかない。第一段階という言い方がよくなければ、第n段階のうちのあるnについて第n段階、その次にn+1段階、n+2段階で、そのように科学は永遠に進歩していくのである。そういうことを忘れないでいただきたいと思います。

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