長岡亮介のよもやま話147「科学と宗教」

 今回は「言論の自由」という、こんにちでは一般の人々にとっても常識となった理念について考えてみたいと思います。言論の自由liberty of speechというふうに言いますが、スピーチをどのような形で行っても構わない。それが自由だということです。自分は税金をもっと下げるべきだと思っている。今の税金は高すぎると。そういう言論も、税金をもっと高くして社会の中で恵まれてない人々にお金を還流すべきであるという言論も、それぞれにそれなりの根拠があるわけですから、それをもう少し詳しく根拠付けて語ることによって、世の中がより良い方向に進む。言葉で喋ることが目的ではなくて、私達がよりよい社会を実現するために、そのより高い理想を実現するための方策について、あーだこーだというような議論があってしかるべきですね。それが言論の自由ということだと思います。宗教的に信心深い人中には、神様・仏様、あるいはその人が信ずるところの霊的な存在に対して、信仰が厚ければ幸せになるんだと、こういうような主張をする人がいるかもしれません。こういうのも信仰の自由ということで保障されているわけです。そのようなものを信じていない人から見れば、あり得ないこと、馬鹿みたいじゃないかと思う事柄に関しても、本人が真剣にそのことを考えているならば、そしてその自分の信心、あるいは信仰を他の人に広めようとしているときには、その自由が保障されるということです。この背景には歴史的にいろいろ問題があったわけですね。宗教を理由とした人と人とのいがみ合い、戦争と深刻なものがヨーロッパ社会ではありました。

 日本でも、一つの宗教の教団の教徒が団結して権力と戦うという場面もたくさんあり、いわゆる鎌倉仏教と言われている物、新しい当時の新興宗教ですね。浄土真宗とか日蓮宗というのはいろんな形をとりながら、既成宗教、既に権威を確立した仏教や神道に対して、戦闘的な体制をとらないと、自分たちの信仰を守り抜くことができなかったということもあって、宗教の自由というのは、今や憲法できちっと認められるところであります。それは、結局のところ、どの宗教が正しいか、あるいは宗教の何をもってその信仰とするか。これは合理的な判断ができるものではなくて、これは数学とか物理で決着がつく話ではない。そうではなくてそういう合理的なもののさらに先にあるいわば不合理とか、あるいは不条理というものが、信仰の重要なキーポイントになっているわけで、そういう「不合理性ゆえに我信ずCredo quia absurdum」と有名な中世の神学者テルトゥリアヌスの言葉もありますが、そういう合理では話がつかない世界が宗教の中にはあるわけです。

 これがサイエンス・科学と違うところでありまして、科学は合理・理性に基づいて議論を詰めていきます。ですから、その科学において得られた結論というのは、科学の出発点にある命題が間違ってない限りは間違えるはずがない。しかし、その科学の出発点にある命題が必ずしも正しいとは限りませんから、科学的な推論というのは、「もしこれこれが正しいとすれば、これこれである」という結論になるわけですね。例えば、私達は地球の上で重い物体は落下する。これは当たり前のことだっていうふうに思っていますけれども、この「物体が落下する」という現象は、地球とその質量を持った物体との間に万有引力という力が働いていて、それが引っ張り合ってる結果である。だから、垂直に落下するって私達は思っていますけれども、何も本当に動いてなければ垂直に落下するわけでありますが、もし地上の物体が動いていれば、必ずしも直線で落下するわけではなくて、2次曲線、一般には楕円軌道を描いで落下すると言ってもいいくらいですね。近似的にはそれは放物線を描いて落下するということがよく言われます。それが絶対正しいのかっていうと、それは地球という非常に大きな私達の住む宇宙があって、その宇宙の狭い世界で考えれば、地球の重力中心に向かって全ての物が引っ張られる。そういうふうに見ることができるからでありまして、しかし、物体がもし地球の中心方向とは違う方向、例えば水平方向といわれる方向に高速で運動してるとする。あまり高速でないとすると先ほど言ったような放物運動を描くわけですね。もう少し高速の軌道を描くとすると、これは楕円軌道を描くということが一般に知られています。さらに高速に動くと、物体は地球に落下しないでそのまま地球の周りをぐるっと回ってしまう。これがいわゆる人工衛星と言われているものの基本原理でありますね。人工衛星は地球に落下しないのではなく、不断に落下してるんですが、落下し続けるとともにさらに横の方向に飛ぼうとしているので、その結果地球の周りを回転せざるを得ないという形になるわけです。こういうことは、もう17世紀の昔の偉い学者たちが既に予見したことで、人工衛星の基本原理というのは、もうえらい昔からわかっていることであるわけです。さらにそれよりも大きなスピードで行った場合には地球の引力圏を脱して、もう少し別の複雑な運動をする。例えば月へ向かうというようなことができるようになるわけでありますが、そういう運動にしても、今度は地球と月という二つの重力の大きな源、そのもとでどういう動きをするかっていうことを、数学的にあるいは物理学的に議論すれば済むわけで、その限りでは結論に誤りがあることはない。仮定が正しい限り、結論も誤りえないわけです。しかし、あるとき突然そこに大きな惑星が地球と月の間に割り込んでくるというようなことがもし起こるならば、その惑星の影響をもろに受けることになりますから、私達の当初の予想は完全に狂ってるということになります。それは科学的な結論が誤ってるっていうことではなくて、実は科学的な結論を導くための推論の前提となる仮定に誤りがあったということですね。仮定が誤っていれば結論が誤るのは論理的な必然性がある、と言ってもいいわけです。

 科学の科学たる所以は、そのように最初に仮説という正しいか正しくないかわからないもの、これを仮定しましょうと。この仮定のことを私達は普通仮説hypothesisというふうに言いますけれども、その仮説それ自身は本当に正しいかどうかっていうことを確かめることは容易でないわけです。仮説が正しいことを証明するためには、様々な現象にその仮説を当てはめてみて、どの現象においてもその仮説が成立するという事例がたくさん集まってくれば、どうやらその仮説は正しい。そういうふうに信用して良いということになるわけですね。こんにち、ニュートンが提唱した“万有引力の法則”というのは、言ってみれば普通の意味では、普通の私達の考えている常識的な大きさ、例えば星とか、太陽系の惑星とか、あるいはその太陽系の惑星の中での例えば地球の中での物体の運動、そういうような現象を説明するのには十分正しい。そういうふうに考えられています。しかしながらその仮説が当てはまらない世界は当然ありうるわけです。“万有引力の法則”が成立しないようの世界がありうるわけですね。科学の科学たる所以は、仮設の限界をも知っているということで、仮説が当てはまる限りこの結論が言えると言えますが、仮説が当てはまらない世界においては、それはもう全然話は別になるということですね。例えば宇宙で言えば、私達の太陽系よりも遥かに巨大な銀河系、あるいは銀河系をさらに巨大にした銀河系星団、そういうような巨大な宇宙になると、もはや普通の意味での古典的なニュートンの力学は成立するわけではなくて、そこではアインシュタインが提唱したところの“相対性理論”というものが非常に重要な役割を果たすことになるわけです。重力の本質に迫るアインシュタインの見解、これについては今回は触れませんけれども、その立場に立つと、ニュートンの考え方というのは非常に素朴な議論で、ある意味で私達が暮らすような、あるいは私達の住んでいる太陽系レベルの大きさの世界で成り立つ。そういう力学であるに過ぎないというふうに言うことができます。

 今はマクロの話、巨大な世界の話をしましたけれども、20世紀の物理学において最も深刻だった問題の一つは、反対にミクロの世界、すなわち私達が物質を構成していると思っている分子、分子を構成していると思っている原子、原子を構成していると思っている原子核、原子核を構成してると思ってる陽子とか中性子とかあるいは電子といったもの。そして、原子核の中に私達が陽子と中性子のようなものが詰まってるという素朴な考え方を普通してきたわけですが20世紀になって、小さな小さな世界の中に電荷の同じ小さな粒子が密着して詰まっているということ自身は、電気力の斥力、電気的な斥力、プラスとプラスだったらはねあうわけですね。それが原子核の中にまとまっているということ自身がおかしいという発見に至るわけでありまして、そのような原子核の中で陽子同士を繋ぎとめている電気的な斥力に打ち勝ついわば粘着力を作り出している中間子、これは湯川博士の素晴らしいアイディアであったわけですが、そういう素粒子というもっと小さな粒子があり、それが大事な役割を果たしているということを湯川先生が発表して以来、素粒子の研究というのがぐんぐん進みまして、今や素粒子と言われるものもものすごくたくさんの数が実験的にも確認され、またその素粒子を構成しているさらに微細な素粒子のいわば素粒子というか、素素粒子というか、本当に小さな世界。それになると、実験的に実証することは、普通はできない。そのためには、太陽系のような巨大な大きさの実験装置を使わなければならないというようなことになって、普通の意味では存在を実験的に確かめることさえできない。ですが、理論的にそのようなものの存在が確実視されるというところにまできているわけですね。それも、ある種の仮説のもとで、そういうことが確からしいっていうふうに思うわけで、それは絶対にこれが正しいっていうものとは違うわけです。科学においては常にある種の保留条件というか留保しなければいけない命題がある。つまり、これこれが正しいとすれば、という仮説。これが科学をして科学たらしめてるもので、仮説を設けないで、自分から結論をなんでもかんでも言っていくという人は、論争には強いですね。その人は負けることはない。なぜかって言うと論理的に考えてないわけですから論争には負けないんです。しかし、論争に負けないというのは非論理的だということで、決して褒められたことではない。科学の科学たる所以は、私達は、その仮説に関する議論をしようとしたならば、そのときにはどうしても踏みとどまらざるを得ないという弱点があるということですね。

 宗教の科学というのを名乗る集団があるかもしれませんが、それは全くあり得ないことです。科学的な宗教、これは言ってみればカルトでありまして、こんなものはありうるはずがない。それは科学の科学たる所以と宗教の宗教たる所以を考えてみれば、直ちにわかることです。科学と宗教はこのように全く違う道を行くので、従ってヨーロッパのキリスト教の科学者たちがしばしば言うように、宗教と科学は両立しうるということになるわけですね。それは全く違うものなので、その間に論争controversyあり得ないということです。宗教と科学との間の対話というのが試みられるのも、二つは全く違うものであるからその違いを認めながら、相手をもう少し深く理解しようとするという対話の試み。これは、私はとても大切なことではないかと思います。別に科学と宗教に限らず、一般に異文化、異なる文化と言われているもの、それを受容するとか理解するというようなことが気楽に語られます。しかし、それは一般に容易なことではない。異文化を理解するということ自身はほとんど奇跡的なことだと思いますが、そういう奇跡的なことを何とか少しでも引き起こそう、と多くの人たちが努力している21世紀の困難な時代に、このことを深く私達は心にとめていきたいと思います。

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