長岡亮介のよもやま話145「戦争の歴史」(6/17TALK)

 最近はロシアのウクライナに対する軍事侵攻で、戦争の問題というのが人々の日常的な関心事になってきました。私達はつい最近まで、戦争というとすごく昔の話、あるいは私達の世界から遠く離れたいわば野蛮な国において行われていることだった。そういうふうに感じてきた傾向があるかと思います。しかしながら、ちょっと歴史を遡れば、私達はまさに戦争という悲惨の中で生きてきたということを思い出すことができるわけです。私達自身が太平洋戦争という馬鹿げた戦争で、国民がものすごく疲弊した。その疲弊したことによって、戦後の民主主義というものの明るさが逆に証左されているという面もありますけれど、今日本では中国や北朝鮮の軍事的あるいは外交的動きに対して、日本も再軍備すべきであるというような議論が当たり前のようになされています。

 しかし、歴史をちょっとさかのぼってみれば、人類の歴史はある意味で戦争の歴史であったと言ってもいいくらい本当に血塗られた歴史がごく最近まで続いてきたわけです。最近までというのは、太平洋戦争の後はアメリカの絶対的な繁栄の力で、“Pax Americanaアメリカの平和”と言われる時代が国際的・全世界的には続いていた。アメリカがそれを世界の警察として、小さな紛争にとどめるように努力してきた。そういう面があると思いますが、もちろんその世界の警察であるアメリカ軍によって鎮圧された人々の反乱や小さな戦争、ベトナム戦争や北朝鮮との朝鮮戦争になると決して小さな戦争とは言えなくなりますし、旧ユーゴスラビアにおいて行われた戦争も決して小さな戦争とは言えません。そして中東における戦争もものすごく血生臭いものでありました。それでも世界大戦と比べると規模の小さな戦争であったということで、“Pax Americanaアメリカの平和”と言われていたわけです。このPax Americanaって言い方は言うまでもなく、ローマ帝国が地中海沿岸を含む西欧全地域、アフリカの北部を含み、アラブ世界も含むような、そういう平和を築いていたのを、“Pax Romanaローマの平和”って言うのと同じであります。

 今、国際的に絶対的な権力がなくなったために、各地で非常に悲惨な戦争が続いている。本当に毎日戦争が続き、弱い人々、弱い立場に置かれた人々、子供とか女性とか、障害者とか、そういう人たちが生存を脅かされている。本当に悲しいことでありますけれども、実は何もしなくても平和でいられるということは、それ自身が歴史的に奇跡的なことでありまして、むしろ歴史の大部分は戦争の歴史であったと言ってもよい。今イスラム過激派の起こすテロリズムが問題であると、そういうふうに言う人がいますが、テロリズムというのは元々そもそもイギリスの市民革命と言われる清教徒革命とか名誉革命の時代から、テロリズムというのは戦う者同士の間で熾烈に行われてきたわけで、それもそんなに昔のことではない。ヨーロッパの近代が本格的に始まるというのは、フランス革命による動乱を経て、19世紀の中頃からでありますけども、その19世紀の中頃にあっても、大きな社会不安を背景に様々な運動が、特に労働者の運動が激しく、それによって政治の世界が大きく塗り替えられていく面もありました。

 かつて、マルクス・エンゲルスは史的唯物論あるいは唯物弁証法という言い方をして、歴史の必然的な発展法則は、下部構造つまり経済の生産力が増大していくと、やがて上部構造である生産関係(生産関係というのは、言ってみれば、支配・被支配)で、支配する側と支配される側との秩序が破壊されていかざるを得ない。そういう歴史の科学的な発展に従って、やがて今の社会構造、市民が権力を握った近代社会になる。いわゆるブルジョワ革命っていうふうに言われています。日本ではブルジョワっていう言葉が、お金持ちと誤解されていますが、そうではなくて、要するに貴族とか王様とかそういうのではない、一般の市民ですね。商人あるいはその商工業でお金持ちになった人たちもいますけれども、そういう一般の市民が政治の中心に躍り出た近代という時代で、これが生まれるまでに流された血の量というのは、膨大なものであるわけです。女性の皆さんの中には、“ベルサイユの薔薇”という漫画を通して、フランス革命の血生臭い場面をいろいろと部分的にご存知だと思いますけれども、フランス革命だけではない。フランス革命に先立つイギリスの清教徒革命あるいは無血革命と言われる名誉革命、そこにおいても、多くの人々がそれに関連する戦争の中で、血を流してきました。

 私達はそういう歴史に終止符を打ちたいと願って“国際連盟”っていうのを作り、しかし結局のところそれも破綻して、第二次世界大戦を招くに至り、そしてその後“国際連合the United Nations”というのが出来、その理想に従って動いていますが、その“国際連合”の掲げる理想というのは、よく読むと実はまさにマルクスやエンゲルスが描いていた夢そのものと言ってもいいわけです。このことは意外と知られていないことであって、マルクス・エンゲルスが思うような社会主義革命あるいは共産主義革命というのは、成功はしなかった。今でも社会主義を掲げている国は少数ながらありますけれども、ロシアはもう立派な資本主義国でありまして、その資本主義に対して資本家の勝手な利益のために勝手な作業にはさせないで、国家・富を預かるという強引な手法で人々の支持を得ているのがプーチンだということを、今日はちょっとお話したかったと思います。

 社会主義というのは、ロシアっていうかソビエト社会主義共和国連邦の崩壊において終わったっていうふうに思ってる人もいますが、実は今でも社会主義を掲げてる国、その中でも比較的成功しているベトナムのような国、悲惨な失敗を繰り返している北朝鮮のような国といろいろとあります。しかしながら、19世紀の中頃にマルクス・エンゲルスが描いたような共産主義国家が成立するという夢は、ほとんど挫折していると言っていいと思いますね。しかしながら、彼らが人々の不幸を救うためにやらなければいけないと言っていた事柄のうち、ほとんどの事柄は国連およびその下部組織であるいろんな機関あるいは基金によって実行されていると言っていい。国連やなんかあまり大きな力を持たない、あるいは持てないでいるというのは、それが多くの資本主義国のスポンサーシップによって成立しているために、その掲げる政策が社会主義的であるということを謳えないということにあるのではないか、と私は思っています。

 戦争のない社会というのをつくることは決して自明でない。しかし、戦争というのは常に弱者に対して最も悲惨な目を見させるという、残酷な人類の歴史を私達は忘れてはいけない。そしてそれは私達の身近にあるものであるということですね。だからこそ軍備をという議論をする人がいますが、私はそれ自身はあまりにも短絡的な議論であると思います。戦争をするのは確かに軍隊あるいは軍事兵器、それが活躍するかもしれませんけれども、重要なのはそれによる勝者と敗者はどこにもいないということですね。ある意味では昔の戦争であれば勝った方は領地を奪うという問題がありますが、領地を奪われた側は永遠の恨みを抱くわけでありまして、日本も北方領土問題などありますが、日本人はどちらかというと永遠の恨みを抱くっていうことはあまりない。割と綺麗さっぱり忘れてしまう。そもそも北方領土の発端っていうのも、日露戦争による日本の領土割愛条件で、ロシアを屈服させて樺太の南半分を取った。そういうことはあるわけですね。それが第2次世界大戦で敗退して、日本の人々の中には「日本はソ連に負けたんではない。日本が負けたのはアメリカに対してである」というふうに言いますが、戦争というのは何でもありの世界なわけで、そういう超リアリスティックな、超現実主義的な戦争という社会的な大変動のもとで、領土は奪い奪われて来たわけです。

 イギリスで言えば、先ほど清教徒革命に触れましたけれども、私達はイギリスっていう言葉で言いますけれども、本当はGreat Britainっていう小さな島は、England、Wales、Scotland、Irelandと、大雑把に言ってその4つの地域にわかれているわけです。Irelandに関してはその後のいろいろなゴタゴタで、南アイルランド、北アイルランドと更に分けられていますけれども、実はその4つの国の間でものすごく熾烈な戦いがずっと続いていた、ということはあまり知られていない。私達がイギリスというときにEnglandをもってイギリスを勝手に代表させていますが、EnglandがScotlandやWalesに戦争で勝ったっていうことの結果であって、その戦争で負けたScotlandやIrelandの農民の中には、その戦争によってEnglandに土地を奪われたという恨みが今でもあります。私が初めてScotlandに行ったときに、酒場でそういう話が話題になっている。「日本人は何も知らないんだな」と、私は言われてしまいましたけれども、本当に私達はUnited Kingdom連合王国っていうふうになぜ彼らが呼んでいるのかということも知らずに、イギリス・イギリスって平気で言っています。

 私達はやはり歴史をちょっとさかのぼることによって、「戦争は多くの悲惨を生み出すだけである。そして勝者にとってもそれは決して幸せをもたらしているわけではない」ということ、そのことを心に置きたいと思っています。

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