長岡亮介のよもやま話143「うまい話には必ず裏がある」

 昔を思い出して、今とそっくりであったことをお話したいと思います。昔というのは、まだいわゆるテレビが家庭に普及し始めた時代で、その頃テレビ番組はNHKの教育テレビがなかなか面白かったんですけれど、それを除くと、もしかしたらNHKの本体の方だったかもしれませんが、“チロリン村とくるみの木”とか“ひょっこりひょうたん島”とか、“三国志”とか楽しいものがそれなりにありました。一方、民放はと言えば、アメリカのホームドラマを買ってきて、それを放映するくらいでありまして、それでも面白い映画が毎週楽しみでありましたけれども、その他の番組はというと本当にひどい、いわゆるショップチャンネルですね。もう一つは、おそらく福音派の「牧師による説教」という名前のファナティックな演説ですね。ヒトラーの演説と似たような感じなんですが、人々がそこで感動して涙を流すというシーンも放映されていて、何でこれがそんなに感動的なんだろうって私は理解できませんでしたけど、アメリカにおいてそういう素朴なクリスチャンがたくさんいて、これがアメリカ全土に放映されて大変な興行収入になるということを想像して、本当に所が違うとこんなにも文化が違うんだというふうに思っておりました。最近では日本では宗教的なそういうチャンネルはあまりないようですね。公共放送に心の時間とか宗教の時間というのがありますが、それは少し落ち着いた、少しどころがたっぷりと落ち着いた宗教の深い話で、なかなか立派なお話であることが多いわけですけれども、アメリカにおける信者を熱狂させるような、そういう演説ではない。それは説教というよりは、宗教の名前を借りた「集金作業」というか、恐ろしいものを感じたものです。日本でもそれがないわけはありませんが、少なくとも私達が目にするテレビでは見えてないということだと思います。

 その代わりにインターネット上の広告では、そういう宗教の勧誘以上に非常に怪しいものがたくさん出ています。多くは「こうすれば儲かります」とか、「こうすれば勉強が得意なります」という類のハウツーを売るものでありますけれども、「今、申し込めばただ。後になってしまったらそのチャンスを失います。」そんなことを宣伝するはずがないですよね。日本人はそんなことを疑わないほど、本当に善良な人というか、あるいは馬鹿というか、愚かな人間になってしまったのでしょうか。最近インターネットのいろいろな個人的な投稿が非常に素晴らしいものがあって、私もそういうのを支援したいというふうに思って、時にはお金をカンパしたりしますけども、“いいね”を押すとかというのはどうもあんまり好きになれませんね。なんか、全ての国民が1人1人が、まるで広告宣伝マンになってる。それはちょっと情けない状況ではないかと思います。広告宣伝が恥ずかしいことでないということは、職業に貴賎がないということと同じように、形式的には正しいと思うんですが、もしそれが虚偽であるとすれば、それは一種の犯罪ですよね。警察が取り締まれないから、あるいはインターネットに取り締まる法律がないからということで、そういう情報が野放しになっているということを、私は単にこれが社会問題であるというよりは、国民が馬鹿になったんではないかと思って心配になります。私の子供の頃は、年寄りは私達若い者に「うまい話には必ず裏がある」とか「、簡単な儲け話はない」とか、これは年寄りが繰り返し私達に教訓として教えていたことです。親が言ったというんではないですね。近所の村の長老たち、おじいちゃんたちが子供たちを捕まえて、そういう説教をしてくれたものであります。「うまい話には必ず裏がある。」考えてみると、田舎のじいちゃんがそんな知恵を持っていたっていうことは素晴らしいことですね。

 そして、そういうじいちゃんの中に、私が未だに忘れられないのは、決してお金持ちのおじいさんではありませんでしたけれども、そのじいさんが私にあるときに、「みんなは税金を減らすことがいいと思っているんだけれども、自分は税金を納めることを喜びとしているんだ」という話をしてくれたことがあるんです。当時の私は税金というものがどういうものかわかっていませんでしたから、話を上の空で聞いていたようなものでありますが、そのおじいさんが淡々と、しかし決然とした意志を持ってそれを語っていることに、何かこれは聞き逃してはならないんだという迫力を感じたことを覚えています。「税金を取られるというふうに人々は言うけれども、それは間違っている。税金は取られるのではなく、自分から進んで納めるものである。そして税金を納められるのは幸せである。」というのがその爺さんの口癖でありました。今から考えると、なかなか立派なことを言ったんだと思います。私達はこんにち税金をいかにして減らすかって、これがほとんど全ての人の共通の関心時になっていますね。確かに私も日本のような国で税金を納めるのは本当に嫌です。この税金がこんな無駄に使われるのかと思うと、そんな税金は払いたくない。そういうふうに思うことも事実です。

 しかしながら一方で、税金というのは金銭的に豊かな人から金銭的な厳しい人に対する間接的な富の還元あるいは還流でありまして、日本ではほとんど定着してない習慣ですが、ティップっていう習慣があります。ティップっていうのは、決して社会的に高い地位にない人に対して、お金に余裕のある人がその仕事に感謝してお金を払うという習慣です。この習慣が日本人にはなかなか理解できない。なぜ必要以上にお金を払わなければいけないのか、と日本人は思ってしまうんですね。確かに日本のホテルのようにサービス料とか何とかを勝手に上乗せするビジネスのやり方を見ていると腹が立ちますけれども、しかしやはり自分が嬉しいときにはその喜びを人と分かち合うという文化を、私達はずいぶん長い間忘れてしまっているんではないかと私は感じます。日本人にはあまり縁のないイスラム教のラマダーンという、日本人には絶食という厳しい苦悩の時間というふうに思われてますが、昼間絶食をすることを通して、ご飯を食べるということがいかに幸せなことであるかということを感じ、その幸せを神に感謝するという趣旨なんだと思うんですね。そして、ラマダーンの日は夕方になると、太陽が西の空に落ちると、そこからはたくさんの食べ物を振る舞うわけです。自分に振舞うだけじゃなくて、周りの人に振る舞うのですね。特に恵まれない人たちに対して、一生懸命もてなす。これがラマダンが非常に重要な宗教儀式であることでありまして、私達はそのように自分たちがたとえ経済的に一時的な損をしたとしても、その振る舞うことによって私達自身が幸せになるということを、私達は忘れていますね。

 中には相続税対策とか言って、税金を減らすことが無条件に得であると、それを売り物にしている方もいらっしゃるようです。確かに法外な相続税を払わされるという立場に立ってみれば、冗談じゃないという気持ちもわかります。私の住んでる地域では、多くの大きな立派な家が、その家主が亡くなったことを通じて相続税が払えないために、子孫がそれを相続するために結局現金化するより仕方がなくて現金化する。そこに不動産屋が入ってきて、1軒の家を6軒の家に立て替える。そういう世の中の変化が日々進行中であるのですが、それによって街の風景はだんだん非常に寂しいものになってくるんですね。特に私にとって寂しいのは森がなくなることです。こんなふうに自然が破壊され環境が破壊されていくんだったらば、相続税はむしろ悪税だとさえ私は思います。私などは子供の頃から「相続税は100%にすべきだ。亡くなったならば全部子供にやるということがおかしい。子孫に美田を残さずという言葉も、昔からあるくらいではないか」と思っていましたから、「相続税100%派」でありましたけれども、最近は少しその考えを変えました。一部の人が特権的な財産を親から譲られて、それを特権的に維持する。これは不公平ではありますけれども、その不公平に目をつむることによって、周りの人たちの生活環境が守られるならば、それはそれで一つの知恵ではないかと思うようになってきたということです。お金持ちは自分の財産を本来子孫にそのまま残すということを夢とするのではなく、自分の財産のうち必要最小限は子供たちに残すとしても、残りは社会に寄付する。これはアメリカでは今だに一般的な風習でありまして、有名なお金持ちであるビルゲイツとかなんかも大きな基金を作って、いろんな社会活動を支援していますね。これは、アメリカという国において、「富んでる人が富んだまま死ぬということは恥である」という文化が深く根付いているからです。

 そのアメリカも最近は、富を巡り世論が分断され、本当に分裂した国家のような態を成しています。共和党は一体何を考えているのかというくらいみっともない状況を示していますけれども、しかしながら、エイブラハムリンカーンが登場したとき彼は共和党であったということを知ってる人は、割と少ないのではないでしょうか。共和党は保守派っていうふうにレッテルを貼られますが、保守という言葉は、日本における保守派、それは守旧派、古いものを守るというふうな言い回しがなされるぐらい保守派に対する尊敬心が欠如しているわけでありますが、本当の意味での保守派というのは、私達が今生きている現在に繋がる過去を輝かしい過去として、きちっと忘れないで心に取っておく。これが保守派の原点でありますね。アメリカ合衆国がどのようにして作られたか。戦争して、それに勝利することによって、独立を果たしたんだと。その独立宣言にどのように書かれているか。そういう言葉をきちっと守り抜こうではないか。これが“保守”なんですね。目新しさを追いかけるのではなく、本当に私達が価値がある過去として保たなければいけない、あるいは守っていかなければいけないものを守る。これが、元々共和党の理想でありました。今のアメリカのRepublicanが全員そうだっていうふうには思いませんし、民主派党と言われる、どちらかというと社会民主主義的な政党、どちらかというと社会主義の政策を取り入れる政党が、大恐慌を境としてアメリカの経済政策そして政治政策を大きく転換するきっかけになったわけでありますけれども、そういう社会民主主義的な政策なしには資本主義は繰り返し襲ってくる強行という経済的な混乱を避けることができないという、これは今では社会常識になっていると思いますが、当時は決してそんなものではなくて、それは共和党から見ればとんでもない政策であったわけであります。しかし、そういう政策転換、大政策転換をしたことを通じて、アメリカの最後の繁栄っていう Pax Americana (パックスアメリカーナ)っていうのが来るわけです。そして、今アメリカはいろんな意味で沈んでいますが、他国の今のような状況を見て、アメリカはまた復活するのかも知れません。少なくとも私達は一昔前私が子供の見てたアメリカの番組は本当にたわいのない詐欺すれすれのもの、それが民放で再放送されていたそれを知っているわけですが、それと日本が同じような状況になってるっていうことに対して、私自身はちょっと警戒心を持つべきであると。そして、ティップの習慣あるいは寄付の習慣というのが日本に根づかないということ。税金を減らすことが無条件に良いことのように、みんなが思ってる。そういう社会はやっぱり不幸だと私は思います。

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