長岡亮介のよもやま話142「ラディカルに考える」

 今回は、「物事を根底的な立場に立って考えるということ」、それは別の言い方をすると、「数学的に考えるということ」だと私は思っているんですが、それについてお話したいと思います。“根底的に”というのは根本からということで、根本という言葉に由来する英語では“ラディカル”っていう言葉が使われてます。“ラディカル”という言葉を聞くと、日本人の平均的な人はおそらく“過激な”という言葉の意味だと理解してるんじゃないかと思いますが、“過激な”という言葉は、物事を根底的に考えるが故に一般の人から見れば極端なことを言う“過激な”という意味に転じて使われることがあるからで、元々はラディカルっていう言葉はラディクスっていうラテン語から由来してるように“根”って意味なんですね。ちなみに数学で皆さんがよく使う平方根とか立方根とかっていう言葉の“根”という言葉、根、これもラディクスっていうラテン語に由来しているわけです。ですから数学においては昔からラディカルという言葉が使われてきており、現代数学においてもラディカルっていうのはとても重要な概念です。化学の世界でもラディカルっていう言葉が使われているのを、化学の人はよく知っているでしょう。したがって、決して“過激だ”というだけの意味ではないっていうことです。物事を考えるときに、究極的に考える。根本的な立場に立って考えるということ。これは日常生活で一般に必要なわけではないんですけど、時々はそういう姿勢でもって考えることが大切だということ。それについてお話したいんです。

 というのは、最近はいろいろと英語教育に関して「日本の英語教育は暗記重視だから間違っている」と、そういうような情報が流されているのですが、当然のことながら日本の英語教育の中に実にくだらない、単なる中間試験・期末試験のための英語というのがかつてあり、そして現在もあることは確かなんだと思うんです。なぜかというと、日本人は本当に試験の勉強のときに英語を勉強するだけで、英語を生かして使うということがほとんどない。生活の中に、生きていないわけですね。「ラディカルという言葉の意味さえ実は私達はあんまり知らない」ということを私は指摘したんですが、その日本の英語教育の欠点を突くかのように、こういう新しい方法でやれば英語はスイスイ上手になるんだという言い方をする人がよくいます。そしてそういう人たちがしばしば引き合いに出すのは、「英語によるコミュニケーション、つまり普通の会話がどのくらいできるか」ということを重視する言い回しでありまして、公共放送による英語教育の番組なんかも、本当に英語のconversation会話能力が身につけば、あるいは英語でEmailをやり取りするということができるようになれば、それだけでビジネスが成功するかのようにいう人たちもいて、実に馬鹿げたことだと私は思います。なぜならば、本当に必要とされる英語というのは、初めて会ったときに挨拶する日常用語による会話ではなくて、その人じゃなければ考えないような独創的なアイディアを外国の人にわかるように伝える。そして相手の人は、なるほどそういう考え方があるのかとはたと膝を打つそういうような「本当のコミュニケーションを通した人間同士の深い理解」が大事であって、それは学問の世界でもビジネスの世界でも、本当にありとあらゆるところでそうなんだと思います。流暢な英語を喋るということ、これは大切なことだということは、英語を喋ったことない人たちにはとても貴重なことのように思えると思いますが、皆さん今ご存知のように、もう今「人工知能」、カッコつきの人工知能でありますが、とにかく実用的には、同時通訳程度の会話の翻訳はコンピューターというより携帯電話のような小さな装置を使っても容易にできる。私はこれを10年前からずっと言ってきてるんですが、もう今はそれが世間の常識になっていると思います。ある意味でそういう低レベルの日常会というのは、勉強するまでもない、機械がやってくれること。いわば召使、言ってみれば同時通訳という召使を、全ての人が本当に安い値段で手に入れることができるとなっているわけです。

 このような私の拙いスモールトーク、スモールトークというのは本当は大切な言葉なんですが、ここでは小話という意味で使うダジャレで使っていますが、よもやま話とテクムのメンバーが名付けてくれたこの話も、原稿を書くとなるとやはり真面目に考えてきちっと構成するとなるので、たった短いこの程度の原稿を書くのにも5時間とか6時間とか使わなければいけない。でも、起きてぼーっとした頭で、私はぼーっとした頭の方が、生来の吃音どもりが出ずに比較的綺麗に喋ることができるので、少し頭がぼけているときの方が良いのですが、こういうことが簡単にできるという時代になっているわけで、実はこれを私が英語で収録するというふうにすれば、私の文章が私の下手な英語でも綺麗な英語のような形になるわけです。皆さんよくご存知の通り、YouTubeなんかでは同時通訳をしてくれる能力が無料で提供されていますね。それもそういった技術の応用です。チャットボットのようなものがすごく注目されてますが、ああいう言ってみれば「責任のないろんなインターネット上の情報を取ってきて無難にまとめる」というような機能よりは、人工知能による通訳の方が、実用的に有意味である。チャットボットなんかよりは遥かに大事であると思うんです。チャットボットがやる程度の作文能力がないということが人間として問題なんであって、そのことが注目されたりしてますが、私に言わせると非常に、何ていうか、インターネットの情報を悪用する方法の代表でありまして、これが画期的な発見である、あるいは発明であると、そういうふうには思いません。

 私が英語に関して今日お話ししたいと思ったことは、英語会話をマスターする上で、こういう方法であれば必ずできるようになる。英語は例えば100語、たった100語を覚えさえすればそれで自由に会話できるようになる。その100語のkeywordsを使いこなすようなることが大切です、とかいうようないかがわしい話は私が若い頃からありました。それは、日本の英語教育があまりにも文章読解の方に力点が置かれ過ぎていて、しかもその文章読解に取り上げられる英語の文章がちょっと普通の中学生・高校生には簡単過ぎる、あるいは難し過ぎる。そういうことがあったからだと思います。簡単過ぎるというのは、例えば中学一年生といえば思春期の入口の生意気な少年少女の時代ですよね。そういうとき、そういう子供たちに向かって、This is a pen.That is a pencil.そういうような英語を教える。実に馬鹿馬鹿しい。I am a boy.I am a girl.馬鹿馬鹿しいですよね。中身がない。反対に、高校2年生とか3年生になって、有名な作家の文章の一部を引用して読ませる。その一部を引用するということは、日本語であってもその前後関係がわからないから難しいわけです。そしてその内容たるや、言ってみれば、その作家なら作家の物語の一部ですから、それ自身を取り出して読解するっていうのは容易なことでない。いわば難しすぎる課題に挑戦させているわけです。そして、その難しすぎるものを読解する力こそが英語の力だというふうに、英語の先生の中に教える人が昔は数多くいたんですね。今でもきっといると思うんです。そもそも英語に限らず、学校の先生というのは、自分が得意にできる舞台を教室に用意して、それがあたかも最重要であるかのように振る舞う。そういう傾向を一般に持ってる。全ての先生がそうだというわけではありませんが、教師というのは得てしてそういう人種であるということを踏まえると、英語教育がそのように歪んでたことも非常によくわかるわけでありまして、英語を日常的に活用している人が、英語の先生になっているわけではないという現実を踏まえれば、当たり前と言えば当たり前の話なんです。それを反省して、本当に使える英語を身につけようということ。これが国際的な潮流になってますが、使える英語というのは、日常会話で使える英語という意味では全くないということを多くの人が誤解しています。日常会話でペラペラ喋れる人は、それが英語を通して国際的に信頼を集めているかというと、決してそうではないということです。

 有名な科学者たちの英語での講演をお聞きになるとわかると思いますが、そこで語られている英語はまるで中学生の英語ではないかと思うくらい、日本語らしい英語、Japanese English とよく揶揄されますが、それは日本語に即して考えて、英語にそれを直した挨拶をしてるわけですから、当然Native Speakerが喋るように喋れるわけではない。しかしながら、その中身が濃いので、みんなが黙って聞いて、心を打たれて、感動して拍手をするわけです。皆さんはぜひそういう英語の講演あるいは挨拶に接する機会を探して持ってほしいと思います。流暢に喋るということが大切なんではなくて、その人ならではのこと、その人が言える、その人でしか言えない、そういうことを講演で聞いてすごく感動するわけです。それは別に英語に限らないですね。日本人の講演にしてもそうです。有名な方の講演に行って、非常に目が覚める、あるいは目から鱗が落ちる、とそういう感銘を受けることがありますが、それは日本語で話されているとしても、その中身が私の知っている日本語の世界の中にないことだったからですね。本当のコミュニケーションというのは、そのように自分になかったものを、他人とのコミュニケーションというのを通じて得る。そして自分自身がそこで成長したと思う。自分はこんなことは今まで思ってもいなかった。そんなことをこの講演で聞いた。そういう喜び、感動を通じて、その人をより尊敬し、自分自身の世界を拡大できたことに感謝するということ。これがコミュニケーションであって、それが世界的な規模で、つまりグローバルに行うことができるようになってきた。素晴らしいことで、インターネット上のEmailなども含めて、情報交換が容易になったということはとても大切ですが、そのときに、理想とするのは、日常会話ができるようになることではないということをぜひ皆さん深く理解していただきたいわけです。

 今日本では、働き手の減少という社会現象もありまして、スーパーマーケットあるいはコンビニエンスストアに行くと、外国人の方が流暢な日本語を駆使して、お客さんの対応にあたっています。そこで使われている日本語は、まさに日本人が日常的に使っている日本語そのものですから全く日本語として正しくない。例えば、私は具体例を出すことはあまり得意ではありませんが、間違ってる日本語として、「これって、いいですか」というような言い方。コンビニエンスストアで使うとどうなるでしょうね。「袋って必要ですか」というような日本語、これは意味は通じます。しかし、これを書いた文章として、あるいは講演の文章の中で使ったらいかがでしょうか。それは無教養な人だと思われるだけですよね。つまり、日常会話ができるという程度の語学力というのは、実は全く役に立たないんです。そして、それを即席で身につけることもできる良い方法を広告する人がいますけれども、しかし、その程度の英語さえできないということは確かに問題かもしれませんが、その程度で身に付く英語では世界で通用しないという根本的なことを忘れないでいただきたい。これが、ラディカルに考える、根源的に考えるということの意味です。こういうふうに言うと、「そんな使い方なんか私にとって生涯関係ない。」きっとそういう反応が出てくると思います。「私に必要なのはごく平凡な能力で、それで十分なんです。」そういうふうに自分の自己研鑽の努力を否定する。そのための努力を払うということが努力に見合わない、ということを主張する人がすぐ出てきます。私が言いたいのは、別に英会話の問題だけではないんです。そうではなくて、私達は生きていてやがて死んでいく。そういう存在として、生きていることの意味、生きている時間のありがたさ、それをどのように使うべきかという問題について、私達は根底的な立場で考える必要がある。全く生きてる意味がないというような生き方、これを私達が選択することには、よく考えてみると、つまりラディカルに考えると意味がないと言えるということに気づいていただきたいんです。物事を考えるときに常にラディカルに考えるのは難しいかもしれません。しかし、1日に1回ぐらい、本当に物事は正しいのは何なんだろうかということ。それを風評のような浮ついた情報、あるいはインターネット上に飛び交う無責任な短い短文情報、そういうので手に入れるのではなく、物事を深く考えるということの大切さ。それを時々思い出すことが必要ではないかということ。これについてお話いたしました。

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